歴史から紐解くブランドの本質【フォルクスワーゲン編】

50年前に変化したブランドイメージをVWはどう活かす?【歴史に見るブランドの本質 Vol.10】

ウォルフスブルク工場の前に佇むビートルの第1号。
ウォルフスブルク工場の前に佇むビートルの第1号。
自動車メーカーは単に商品を売るだけではなく、その歴史やブランドをクルマに載せて売っている。しかし、イメージを確固たるものにする道のりは決して容易ではない。本連載では各メーカーの歴史から、そのブランドを考察する。

はじまりは国民車計画から

1950年代のドイツ・ウォルフスブルク工場で生産されるビートル。

フォルクスワーゲンは、広く知られている通り、ヒトラーが生み出した車である。ヒトラーは自動車を広く一般国民に普及させることを狙って、国民車(ドイツ語でフォルクスワーゲン)計画を打ち出した。

国民車計画は各社が計画を進めていたが、フェルディナンド・ポルシェも関心を持ち、当初はツェンダップ、その後NSUの依頼により設計を進めていた。NSUで作られたプロトタイプは水平対向4気筒エンジンをリヤに搭載したビートルの原型と言えるものだった。

1934年、国家プロジェクトとして国民車計画は推進されていくこととなった。そしてポルシェは国民車計画の設計を請け負うこととなる。ヒトラーの要求は厳しく、大人2人と子供3人が乗れ、100km/hという高速で巡航が可能、価格は当時モーターサイクルの価格に近い990マルクというものだった。ポルシェはNSUでの設計をベースとしながら開発を進め、1938年に最終プロトタイプが完成する。

本格的開発部門を持たないが故に

1970年に登場したフォルクスワーゲンK70。

それに先立つ1937年、国民車の製造を行う会社として「フォルクスワーゲン」が設立される。設立当初のフォルクスワーゲンは開発部門を持たず、製造に特化した会社だったのである。フォルクスワーゲンは戦前には国民車の大量生産は開始できず、1939年に第二次世界大戦が勃発するとフォルクスワーゲンをベースとした軍用車生産に注力する。

戦後フォルクスワーゲン工場を接収したイギリス軍は、終戦直後の車両不足を補うため工場を復興させ、民生用のフォルクスワーゲンの生産を開始する。ビートルと呼ばれることとなるフォルクスワーゲンは好評を博し、輸出も始められアメリカにおいてすら大ヒット商品となったのである。

前述したようにフォルクスワーゲンには当初本格的な開発部門がなかった。そのため、後に追加された車種はすべて空冷4気筒エンジンをリヤに置くという、ビートルをベースとした設計を踏襲することになる。これは1968年にデビューした「411」に至っても変わることはなかった。しかし時代は進化しており、ビートルをベースとした設計では競合他車に対する競争力は失われていった。

水冷化と前輪駆動化によって誕生したゴルフ

今もファンの多いゴルフ。初代はその魅力のエッセンスが詰め込まれている。

この状況を打破したのは、1964年に買収したアウトウニオンと1969年に買収したNSUの存在である。アウトウニオンは買収後アウディブランドで水冷エンジンを縦置きした前輪駆動のモデルを作っていた。

NSUは買収当時ロータリーエンジン搭載車Ro80のエンジンを普通の4気筒エンジンに置き換えたモデルを開発中だったが、それをフォルクスワーゲンブランドで売ることとなったのである。それが1970年登場のK70で、フォルクスワーゲン初の水冷エンジン前輪駆動のモデルとなった。K70はアッパーミドルクラスゆえ販売台数は限定的だったが、それを契機にフォルクスワーゲン主力車種の水冷化と前輪駆動化は一気に進むこととなる。

その嚆矢はアウディ80をベースとした1973年発売のパサートだったが、決定打となったのは、その翌年に登場したジウジアーロの設計による、アウディのエンジンを横置きにしてスペース効率を高めた小型車、ゴルフである。ゴルフの誕生により、フォルクスワーゲンは実質本位なブランドイメージを維持しつつ、その規模を維持拡大することに成功するのである。

フランス北部のノルマンディーにあった往時のディエップ工場。

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著者プロフィール

山崎 明 近影

山崎 明

1960年、東京・新橋生まれ。1984年慶應義塾大学経済学部卒業、同年電通入社。1989年スイスIMD MBA修了。…