歴史から紐解くブランドの本質【ルノー編】

世界からかけ離れた日本のルノーブランド【歴史に見るブランドの本質 Vol.8】

2022年モンテカルロ・イストリーク・ラリーで撮影されたラリー仕様「ルノー5ターボ」。
2022年モンテカルロ・イストリーク・ラリーで撮影されたラリー仕様「ルノー5ターボ」。
自動車メーカーは単に商品を売るだけではなく、その歴史やブランドをクルマに載せて売っている。しかし、イメージを確固たるものにする道のりは決して容易ではない。本連載では各メーカーの歴史から、そのブランドを考察する。

革新的なクルマ造りで

1898年のルノー初のモデル「タイプA」。

ルノーは自動車づくりに強烈なパッションを持った一人の青年、ルイ・ルノーによって創設された。ルイは子供の頃から無類の機械好きで、14歳の頃にはパナールのエンジンをいじり回していたという。ルイは小さな小屋で日々、クルマの改良に取り組み、シャフトによって駆動力を伝達するシャフトドライブ方式を発明する。それまでの自動車は革ベルトかチェーンによって駆動力を車輪に伝えていたのだ。またトップギアが直結となるギアボックスも発明し、1898年、21歳の時に自らのクルマを製作する。その走りの良さが評判となり、ルイは自動車会社を作るつもりは無かったにもかかわらず注文が殺到したのだ。これが自動車メーカー「ルノー」の始まりである。

ルイは自らの技術力を試すべくモータースポーツにも積極的に参加、当初から優れた成績を収めた。1902年のパリ~ウィーンレースで圧倒的な勝利を得たことで名声はヨーロッパ中に広がることとなったのだ。さらに、1906年にル・マンで行われた世界初のグランプリレースでも優勝する。

その評判により、1906年には1500台ものルノー製タクシーがパリを走っていたという。1910年代には大小フルラインナップを擁したフランスナンバーワンの自動車会社に成長する。

「熱い」ブランドへ

1950〜60年代に生産された「ドーフィン」。

しかし、ルイのワンマン企業だったルノーはルイの技術的固執から製品が旧態化していき、モータースポーツにも関心を失ってしまう。その結果、生産台数は1930年代にはシトロエン、プジョーに抜かれ3位となってしまった。そしてルイにとって最大の悲劇は第二次世界大戦の勃発で、工場を守ろうとしたルイはフランスを占領したナチスに協力してしまう。戦後、ルイは投獄され獄死という最悪の最期を遂げることとなる。

このような経緯から戦後のルノーは国有化されることとなり、小型大衆車を中心としたメーカーとして再出発する。その象徴的なモデルが1946年に登場した4CVで、日本でも日野がライセンス生産を行い、3.5万台ほどが生産された。4CVは走行性能に優れたモデルで、モータースポーツでも大活躍をする。アルピーヌが最初にベース車に選んだのも4CVだった。

4CVの後継車ドーフィンにはゴルディーニチューンのエンジンを搭載し、4輪ディスクブレーキを装備したドーフィン・ゴルディーニもラインナップされ、大衆車をベースとしたスポーツモデルの嚆矢となった。ルノーはその後もルノー8ゴルディーニ、ルノー5アルピーヌなどのホットモデルを常に用意する、量産メーカーの中ではホンダと並ぶような「熱い」ブランドとなっていく。

日本ではカングーこそルノー

現在の日本市場におけるルノーを牽引する「カングー」。日本仕様は欧州商用仕様とミックスした特別仕様となっている。

1970年代にはF1やルマンにも参戦、F1は現在に至るまでほぼ常に参戦を続けており、ルノーエンジンは通算169勝とフェラーリ、メルセデス、フォードに次ぐ勝利数を誇っている。

しかし日本でのルノーのブランドイメージを牽引しているのはなんといってもカングーである。ここ20年ほど、日本におけるルノーの最量販車種はカングーなのだ。カングーは日本車やドイツ車にはない世界観から独特のライフスタイル商品となっており、毎年カングー・ジャンボリーなども開催され、フランス本国での位置づけとは全く異なる。そのためルノーの日本でのブランドイメージは世界からはかけ離れたものとなっているのだ。

トラクシオン・アヴァンの後継車として登場したDS。DSはサスペンション、ステアリング、ギアシフトをすべて油圧でコントロールするなど当時としては画期的なクルマだった。

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著者プロフィール

山崎 明 近影

山崎 明

1960年、東京・新橋生まれ。1984年慶應義塾大学経済学部卒業、同年電通入社。1989年スイスIMD MBA修了。…