目次
アルファロメオSZ前史1
黄金の1960年代が過ぎ去り、混乱の1970年代を経て苦難の1980年代を迎える
第二次世界大戦後は量産車メーカーに転じたアルファロメオだったが、その歩みは決して順風満帆なものとは言えなかった。1960年代の戦後の黄金期が過ぎ去ったあと、IRI(イタリア産業復興公社)傘下、すなわち国営企業だった同社は、イタリア政府からの要請で南部の雇用創出と経済格差是正のためにナポリ近郊に新工場を建設。そこでルドルフ・ルスカ設計のアルファスッドを生産することになるのだが、傑出した設計に反して質の低い労働者や使用する自動車用鋼板の不良により完成車の品質は地の底に堕ちており、ユーザーからのクレームが多発。アルファロメオの経営の足を引っ張ることになる。
かてて加えて、戦後最大のヒット作・ジュリアシリーズの後継として1972年に登場したアルフェッタは、トランスミッションとリヤデフを一体化したトランスアクスル、リヤサスペンションに対地キャンパー変化の少なさと路面追随性、乗り心地を両立したド・ディオン・アクスル、バネ下重量軽減に繋がるインボードブレーキなどにより、50:50の理想的な前後重量配分を実現。
量産大衆車としては凝りに凝った設計による意欲作だったのだが、当時のイタリアは労働争議の激化により生産現場は混乱しており、労働者の労働意欲の減退、さらにスッドでも問題になったソ連製の自動車用鋼板の使用などの問題により、販売面で武器となる革新的な設計がむしろ品質と生産性の低下を招くという本末転倒な事態を引き起こしていた。かくして名門アルファロメオの名声はこれにて失われ、同社が開拓した手頃な価格の高性能スポーツセダン/スポーツクーペ市場は後発のBMWに奪い取られてしまったのである。
このような難問山積の中で迎えた1980年代はアルファロメオの冬の時代となる。当時同社のラインナップは、1970年代にデビューしたアルフェッタGT、1960年代から生産が続くスパイダー、アルフェッタの基本コンポーネンツを流用した小型スポーツセダンの2代目ジュリエッタ、アルフェッタのスキンチェンジ版の90、スッドから発展した33、さらには日産のN12系パルサーにスッドの水平対向エンジンを積んだアルナで、どのクルマもユーザーへの訴求力の不足は明らかであった。
もちろん、アルファロメオとてラインナップの全面刷新の必要性を痛感していた。痛感してはいたのだが、販売の低迷により新型車開発の資金が不足していたのだ。国営企業ゆえに倒産リスクこそなかったものの、イタリアは1970年代の不況からようやく立ち直りの兆しを見せたばかりで、政府に財政面でアルファロメオを支援する余力はなかったのだ。
また、この頃からEC(欧州共同体)加盟国は国営企業の段階的民営化へと舵を切りつつあった。これはイタリアも例外ではなく、傘下にアルファロメオを収めていたIRIは赤字体質の同社売却を水面化で検討しつつあり、これ以上の追加支援に対しても消極的な態度を示していた。
そのような苦しい台所事情の中、1985年にアルファロメオはジュリエッタ後継となる新型車・75をデビューさせた。しかし、このクルマの実態は「古い酒を新しい革袋に入れる」といったもので、外装こそ一新されてはいたものの、基本となるメカニズムは13年前にデビューしたアルフェッタのものを流用していたのだ。
たしかに伝統のオールアルミ製ツインスパークエンジンは相変わらずの元気の良く、50:50の理想的な前後重量配分、アルフェッタ譲りのシャープなハンドリング、良好な乗り心地を実現してはいたが、最新型のドイツ製セダンに比べるといかにも古く、見劣りは否めなかった。また、そのスタイリングはトランスアクスルを採用した過去のアルファロメオの発展型というイメージで、熱狂的なアルフィスタはともかくとして大衆の購買意欲をそそるには明らかに新鮮味が不足していた。
その一方でアルファロメオは、90の後継となるべくフィアット・ランチア ・サーブと共同でEセグメントセダンの開発を進めていた。「ティーポ4(クワトロ)プロジェクト」と命名されたこの計画は、プラットフォームと内外装の一部、開発作業を4社が協力して行うことで開発・製造コストの低減を図るというものだ。
ただし、問題は共同開発される新型車がFWDレイアウトを採用したことにあった。戦前からの伝統でスポーツマインドと優れたドライブフィールを持ち味としてきたアルファロメオは、スッドや33という小型車に例外はあったものの、FRこそが理想のレイアウトと信じ、長年に渡って後輪駆動の製造にこだわり続けてきたメーカーである。いかなお家存続の危機とは言え、名門・アルファロメオがFWDの高級セダンを作ることになろうとは……。誇り高き同社の開発陣が内心忸怩たる思いを抱いていたことは想像に難くない。
アルファロメオSZ前史2
万年赤字のアルファロメオはフィアットが買収……そして下されたFR禁止令
苦しい経営の中、辛うじて独立メーカーとしての体面を保っていたアルファロメオだったが、1986年にとうとうIRIは同社の売却を決断。過去13年間に渡って黒字を一度も達成していない万年赤字企業ゆえに、この決定はむべなきことだった。これにより1938年にIRI傘下に入って以降、イタリア政府の庇護化にあったアルファロメオは、再び民間企業として歩みを進めることになる。
とは言うものの、多額の負債を抱え、赤字を垂れながし続けてきたアルファロメオが、何の後ろ盾もなく独立独歩で存続できるはずもない。買収先が見つからなければ即存続の危機を迎えることになる。だが、捨てる神あれば拾う神あり。歴史と伝統を持つ名門・アルファロメオの名声を欲したフォードとフィアットが買収先として名乗り出たのだ。壮絶な競り合いの結果、巨費を投じて同社を手中に収めたのは、かつて国内市場で熾烈な販売競争を繰り広げたフィアットであった。
75のデビューから1年後の1986年、アルファロメオはフィアットの軍門に降り、フィアットグループ傘下にあったランチアと経営統合し、アルファ・ランチア・インダストリアルSp.Aとなる。これで経営が安定し、巨大資本の支援を得て新車開発に邁進できると信じていたアルファロメオ技術陣に対して、フィアットは予想外の要求を突きつけてきたのだ。なんと、開発・生産コスト低減のためにアルファロメオの伝統であるFRレイアウトを捨てろと厳命してきたのである。
デビューを間近(1987年)に控えていた164は、大柄なラグジュアリーセダンゆえに走りを追求するクルマではないとして、他社に足並みを揃えるべく涙を飲んでFWDとした。だが、75の後継車は走り命のスポーツセダンだ。当時はFWDの技術が今よりも未熟で、走行性能を補正する電子デバイスも普及していない時代のことである。にもかかわらず、誇り高きアルファロメオ技術陣にFRレイアウトを諦めろというのだから無体にも程があるだろう。こうして苦しい経営の中でコツコツと開発を進めてきた次世代のFRスポーツセダン「154」の計画は破棄されることになった。このときのアルファロメオ関係者の無念さを思うと涙を禁じ得ない。
キャンセルとなった154の代替となるDセグメントセダンの計画は、開発作業も終盤に差し掛かっていたティーポ2/3プロジェクトへと統合されることになり、FWDレイアウトを採るフィアット・ティーポやランチア・デドラと姉妹車の関係になるアルファロメオ155として完成し、1992年にデビューを果たしている。
とは言うものの、フィアットは利益一辺倒の守銭奴ではない。憤懣やる方のないアルファロメオ技術陣を慮ったわけではないのだろうが、フィアット傘下になった新生アルファロメオの門出を象徴するスペシャルマシンとして、同ブランドにとっては久しぶりとなる少量生産のFRスポーツカーの開発を打診してきたのだ。
このアイデアの発案者は当時フィアット社長だったビットリオ・キデッラとされている。モータースポーツ大好き、スポーツカー命のアルファロメオがこの提案を断るはずもなく、アルファロメオの伝統のFRスポーツカーの有終の美を飾るべくこのオファーを受けたのだ。このような経緯を経て誕生したのがアルファロメオSZ(ES30)なのである。
新生アルファロメオを象徴するマシンとしてSZの開発が始まる
アルファロメオSZの開発にあたっては、基本となるプラットフォームやメカニズムは75から流用されている。4ドアセダンから2シーターのスポーツクーペに車種変更を受けてはいるが、2510mmのホイールベースにも変更を受けていない。これは少量生産のスポーツカーであり、予算や開発期間に制約があったのでこれは当然のことだった。
SZが搭載するエンジンは名機の誉高いブッソ・ユニットこと自社製の3.0L V型6気筒SOHCだ。このパワーユニット開発を担当したアルファコルセ(アルファロメオのモータースポーツ部門)は、この軽合金製エンジンをSZのためにチューンし、圧縮比を10:1に高めた上で、よりシャープなカムプロファイルを変更し、ボッシュモトロニック製のML4.1制御ユニットを再プログラム。その結果、最高出力は210(207)ps/6700rpm、最大トルクは25kgm/4500rpmというスペックを発揮する。
少量生産のスーパースポーツとしてみればスペック的には少々控えめに思われるかも知れないが、エンジンの吹け上がりはシングルカムとは思えないほどシャープで、高回転まで淀みなくキレイに吹き上がる。エキゾーストノートはオーケストラのシンフォニーの如しで、最高出力はともかくとして官能さという点で言えば、のちに登場する156/147GTAよりも明らかに上だった(GTAシリーズは出力向上による弊害で燃焼が少々荒れたことでフィーリングが落ちてしまった)。組み合わされるトランスミッションは当然5速MTだ。
ボディは少量生産車のためプレスのための金型を起こす必要のないグラスファイバー複合プラスチック、すなわちGFRP製で作られている。熱可塑性射出成形複合によるボディパーツは、イタリアのカープラスト社とフランスのストラタイム社が製造を請負った。両社が製造したボディパーツは、ミラノ近郊のテラッツァーノ・ディ・ローにあるカロッツェリア・ザガートへと運ばれ、この場所でアルファロメオのアレーゼ工場製のベアシャーシに組み付けが行われた。
ただし、FRP製のボディパネルというと「軽さ」を利点として挙げられるが、SZのそれは生産性のみを優先した結果、重量は同じエンジンを積むフルスチール製の75よりも約10kg重い1260kgとなった。実際にSZのボンネットを測定してみると重量は29kgもある。GFRP製ボンネットがどうしてこんなに重いのか理由は定かではないが、走りを追求するスポーツカーであることを考えると、もう少し軽量化に配慮してもらいたかったところである。
ちなみに栃木県・宇都宮市に店を構える『オールドタイマー』の販売するウェット製法によるカーボンウェット製法によるGFRP/CFRP製のSZ用ボディパーツに交換すると走りが激変する。とくにカーボンボンネットは6kgまで軽量化が図れるので、オリジナルにこだわりを持たないオーナーならぜひ交換をオススメしたい。
サスペンションはアルファロメオ75グループA/IMSAのものが流用されている。これをベースにランチアとフィアットのラリーワークスチームのエンジニア兼チームマネージャーであったジョルジオ・ピアンタがSZ用にセッティングを施したのだ。段差を乗り越えるために車内からボタン操作で車高調整が可能な油圧ダンパーシステムはコニ製を採用。ライン装着用のタイヤには、フロント:205/55ZR16、リヤ:225/50ZR16サイズのピレリPゼロが選ばれていた。
じつは75と性能的にはほとんど変わりがないSZ
ブッソユニットを台無しにする3速ATの設定がなかったのはむしろ幸い
ここまで記事を読まれて、熱心なアルフィスタならSZは同じV6を積む75と中身にたいした差がないことに気づいたことだろう。実際にその通りで、わずかにリファインが施されてはいるもののスペック上はほとんど同じクルマと言える。
ただし、それはMT車に限っての話だ。当時、国内に正規輸入された75は伝統の軽合金製2.0L直列4気筒DOHC8バルブ・ツインスパークのほか、90用に開発されたブッソ・ユニット、すなわち2.5L V6SOHCを積む「75V6ミラノ」というグレードが設定されていた。
このエンジン自体はSZに積まれるブッソ・ユニットと基本設計を共用しており、文句のつけようのない素晴らしいエンジンであったのだが、なぜか日本仕様のミラノには全車変速がかったるい3速ATが組み合わされており、この変速機が至宝とも言えるV6エンジンの価値をすべて台無しにしたのだ。
その結果、当時ミラノを新車購入したオーナーからは「アルファロメオの名を冠するに値しない駄作」との手厳しい評価を受けることになる。アメリカ市場向けにはSZと同じ3.0L V6ユニットを積むモデルも存在したが、こちらは5速MTを標準装備としていた。このクルマは並行輸入でわずかな数が日本に上陸したに留まったが、ユーザーからはミラノのような悪評は出ていない。
V6に組み合わせるトランスミッションがなかったわけではないのに、なぜ当時のインポーターがアルファロメオに相応しくない3速ATを選択したのかは理解に苦しむところだ。
やはりイタリア車はMTがベストな選択だ。とくに走りを楽しむためのアルファロメオに、せっかくのドライブフィールをスポイルするATなど不要だ。その意味においてATを設定しなかったSZは正しかったと言える。
SZ(スプリント・ザガート)を名乗るザガートはノータッチ
「IL MOSTRO(イル・モストロ)」の生みの親はロベール・オプロン
もうひとつSZにあってセダンの75にないのが、この車の最大の特徴となる独創的かつ妖艶なスタイリングだ。前衛的とさえ言える個性際立つエクステリアは、イタリア本国では畏敬の念を込めて「IL MOSTRO(イル・モストロ)」の異名で呼ばれた。これを日本語に訳すと「怪物」という意味になる。
SZのフロントフェンダー左右には「ザガート・ミラノ」の頭文字をとったZ字型のバッジが備わってはいるが、じつはこのクルマはSZ……すなわち、スプリント・ザガートを名乗ってはいるものの、スタイリングを担当したのはカロッツェリア・ザガートではない。
SZのスタリングを決定するに当たっては、老舗工房のカロッツェリア・ザガート、新進気鋭の若手デザイナーのワルター・デ・シルバとアルベルト・ベルテッリを中心としたチェントロスティーレ・アルファロメオ(アルファロメオ・デザインセンター)、ベテランデザイナーのロベール・オプロン率いるチェントロスティーレ・フィアット(フィアット・デザインセンター)の3社間でコンペが行われ、最終的にもっとも斬新なスタイリング案を提出したチェントロスティーレ・フィアットが採用を勝ち取っている。
チェントロスティーレ・フィアットのスタイリング案は、ロベール・オプロンがスケッチを手掛け、それを元にアントニオ・カステッラーナがスタイリングの煮詰めとインテリアデザインを担当したとされる。なお、ザガートの関与は生産のため、フロントとリアのデザインをわずかに修正したに留まるようだ。
SZの異形のスタイリングを徹底解剖!
SZのスタイリングで人目を引くのは、その不敵なまでに挑発的なフロントマスクだろう。フロントノーズをバッサリと断ち切り、両側に3つずつのヘキサヘッドライトを配置し、伝統の縦型グリルは中央にポッカリと逆三角形の穴を開けることで個性的なフェイスを表現している。その攻撃的なアピアランスは中世の騎士が被る鉄仮面のようにも見える。ちなみに筆者がこのSZを所有していた当時、友人でカーマニアのプロモデラーに愛車を見せたところ、「(機動戦士ガンダムの)ゲルググみたいなフロントマスクだな。デザインはあきらかにジオン系だよ。色は赤いからシャア専用だな」と宣ったことを今でもよく覚えている。
ボディラインは低く構えたフロントノーズからゆったりと湾曲したボンネットを通って谷となるカウルトップへと向かい、今度はそこを起点に再び山なりに盛り上がりはじめ、ガンメタリックで塗り分けられた飛行機の翼断面のようなルーフへと続く。そして、Cピラーに組み込まれたリヤスポイラーをアクセントにして、イタリア車のお約束であるコーダトロンカで終着点を迎えるのだ。
歩行者保護要件のためボディの厚みが増した現代のクルマと比べてもグリーンハウスは薄い。そのいっぽうでボディは分厚く、パネル構成はシンプルに見えてじつはなかなか複雑だ。車両のフロント部分は丸みを帯びた前方を絞ったカタチであるのに対し、Aピラーから後ろは一転して直線基調のボクシーな意匠となる。ボンネットと一体化したフロントフェンダーのみブリスター化され、ボンネットの左右から車体後部へ向かって伸びるキャラクターラインはエッジが際立ち、一段奥まった場所にあるルーフと相まってドアとフェンダーの厚みと塊感を強調する。今も昔も何者にも似ていない異形のスタイリングだ。
よく見るとSZはミッドシップフェラーリのような前方後円墳型のプロポーションをしているのだが、前後を大胆にも切り飛ばし、ボディは厚く塊感の強いスタイリングにアクの強いフロントマスクを組み合わせたことで、スポーツカーとしての躍動感と緊張感を表現しつつ、下品一歩手前のギリギリのところで踏み止まったことで、匂い立つような色気とエレガンスさも兼ね備えるという離れ業を成功させている。
こんな大胆なスタイリングを限定モデルと言えども市販車に採用するのは、世界広しと言えどもイタリア車くらいなものだろう。少なくとも日本メーカーには逆立ちしてもこんな冒険的なカーデザインは採れないはずだ。
とは言うものの、やはりこのスタイリングは彼の地でも賛否がくっきりと分かれたようで、登場当初はアルフィスタの中でも議論の的となったようだ。それはそうだろう。たしかにSZはインパクトのあるルックスだし、アグリーとも美しいとも言える不思議なスタイリングをしている。それにザガートのエンブレムこそ付けてはいるが、1960年代の初代SZとはスタイリング上の関連性は一切なく、おまけにザガートデザインのアイデンティティであるダブルバブルルーフも採用されてはいない。
前述の通り、カロッツェリア・ザガートは生産のみを請負い、カーデザインにはほぼタッチしていない。にもかかわらずZの文字を象ったバッジがついたことで、開発の経緯が明らかにされないうちは、熱心なアルフィスタやザガートファンであればあるほど、この「異形の怪物」をどう理解して良いのか混乱したはずだ。
しかし、誕生から35年が経過し、今あらためてSZを見直してみると、良い感じに毒気が抜けて、美しさとエレガントさだけが輝いて見えた。しかも、これほどの時を経てもまったく古びて見えないのだから、やはり力のあるカーデザインなのだろう。このクルマのスタイリングはは現在でも賛否が分かれるところであり、さまざまな評価があることは承知しているが、元オーナーである贔屓目を割り引いたとしても、筆者には美しく、蠱惑的で、スポーティでありながら優雅さを感じさせる素晴らしいスタイリングだと思う。
SZのインテリアはスポーツ&ラグジュアリー
シートレザーはフェラーリと同じプルトローナフラウ製
クルマの傍にいたオーナーのホールズさんに頼んでインテリアを見せてもらう。じつのところSZはインテリアもまた素晴らしい。初代SZのインテリアがスパルタンなレーシングカーの流儀に則っていたのに対し、こちらはスポーティさを演出しつつもラグジュアリーな雰囲気が漂う高級グランツーリスモのそれだ。
インストゥルメントパネルやダッシュボード、ドアのトリムは、フェラーリに使われるのと同じ高品質なレザーが奢られており、計器パネルは当時は珍しかったCFRP製を採用する。なお、工場出荷時にはザガートデザインのステアリングが装着されていたはずが、イタリアン・ポジションの補正のためだろうか? 撮影車はオーナーの好みでMOMO製の市販品に交換されていた。
シートはリクライニング機構付きのバケットタイプとなるが、見た目ほどにはホールド性は良くない。だが、シート表皮のレザーはイタリアの高級家具メーカー・プルトローナフラウ製のものが奢られており、シートの掛け心地と風合いの良さからそんな些細なことはどうでも良くなってしまう。ドライバーズシートに腰掛ければふわっと上質なレザーの良い香りが漂ってくるのがまた堪らない。
シートを倒すとちょっとした旅行にも不足を感じないラゲッジスペースが現れる。ご丁寧にも荷物を固定するためのレザー製のベルト付きだ。荷室は2+2の後部座席が作れるほど広く、オーナーの中には実際にリアシートをワンオフで製作して、乗車定員を2名から4名に変更した人もいるほどだ。ただし、SZのトランクルームはスペアタイヤを入れると、ウェスや小さなポーチがなんとか入るかと言うほど狭く、4名乗車にするとラゲッジルームが皆無になってしまうから、結局のところ2シーターとして登場したのは正解だったのかもしれない。
パーツの欠品、車検対応の難しさ……SZを維持するのは苦労の連続
『さいたまイタフラミーティング2024』の会場にて、久しぶりにかつての愛車の同型車に対面したことで、あらためてこのクルマを手放したことを後悔してしまった。じつは手放したくて手放したわけではなく、夜間、環七を走行中に後方を確認しないままいきなりノーウィンカーで車線変更した日産ラルゴに側方からぶつけられ(しかも相手は当て逃げをした!)、修理のためのパーツを探しに奔走しているうち時間ばかりが過ぎ去って行き、その間、修理工場のヤードに留め置かれたことからクルマの痛みが進行。故障箇所も増え、資金繰りも上手くいかなくなり、浜松在住のレストアが趣味だという人に泣く泣く譲ることにしたのだ。今からもう20年以上も昔の話である。
とは言え、今も昔も変わることのない貧乏文士の筆者のことだ。少量生産のイタリア製スポーツカーを所有し続ける甲斐性があるはずもなく、やがては維持費が捻出できなくなって手放したとは思うのだが、あの当て逃げ事故さえなければ、もう少しSZとの甘い生活が続いていたはずで、そう考えると返す返すも残念でならない。
撮影車のオーナーであるホールズさんは、このクルマを今から15年前の2010年に手に入れたそうだ。エンスー車の個人売買仲介サイト「エンスーの杜」に出品されているのを見つけて購入に踏み切ったとのこと。筆者がSZを入手した2002年頃からホールズさんが購入した2010年頃までは、中古車相場は底値にあり、新車価格1000万円のSZをだいたい300~500万円くらいで買うことができた。それが昨今の世界的な旧車ブームによって相場が高騰。現在では新車価格を上回る金額を用意しないと購入は難しくなっている。
筆者が「今の中古車相場を考えると、手放してしまうと買い戻すのは厳しいですね」とホールズさんに水を向けると「ええ、理解しています。なのでコンディションを維持しつつ、これからも大事に所有していきたいと思います」との答えが返ってきた。
正直なところSZを維持するのは並大抵のことではない。メカニズムは75からの流用とは言いつつ、各部に使われいるパーツは微妙に規格を変えてSZ専用としていることが多く、専用品ゆえに部品代もそれなりの金額となる。それでも購入できる消耗品はまだいい。内外装のパーツは筆者が所有していた2000年代前半の頃から欠品が目立ち始め、現在では中古パーツすら手に入れるのは至難の技だろう。
また、年々厳しさを増す車検もこの車を維持する上でのネックになっている。スタイリングの特徴となるヘキサヘッドライトなのだが、日本の法規ではそのうち片側2個までしか点灯が認められず、その光量も足りないのだ。最近になって車検の検査方法が変更になり、ロービームからハイビームで光軸・光量を測ることになってはいるが、いずれにしてもヘッドランプが暗いことには変わりがない。
とは言え、それらの苦労を覚悟で手にれたいほどの魅力がSZにはある。このクルマはアルフェッタから続くトランスアクスル時代のアルファロメオの集大成であり、2006年に8Cコンペティツォーネが登場するまでは「アルファロメオ最後のFR」としてアルフィスタからの羨望のまま眼差しを受けたモデルである。言わば、アルファロメオの頂点に君臨した1台なのだ。その価値は現行型ジュリアの登場によって、量産FR車を製造するブランドにアルファロメオが復帰した現在でも変わることはない。