【メトロポリタンとナッシュのコンパクトカー vol. 4】

主力車種のモデルチェンジはピニン・ファリーナがデザイン!フォードのV8モデルより高くて豪華なプレミアムコンパクトが大ヒットしたワケ

高品質かつ高性能な中・小型車にこだわり、ユニークで個性的なクルマ作りを続けたナッシュ社の連載記事の4回目は、革新的なコンパクトカーであり、ナッシュ=ケルビネーター社の主力商品へと成長するランブラーのデビューと、ピニンファリーナデザインを原案とする「ゴールデンエアフライト」の登場までの経緯を解説する。

女性の社会進出を見据えてコンパクトカー開発に力を注ぐ

会長兼CEOのジョージ・W・メイソンはこれまで取りこぼしてきた需要を掬い上げ、商圏を下方に拡大することを目的に、1950年に「エアフライト」を採用したコンパクトカーのランブラーを発表した。

1951年型ナッシュ・ランブラー 「カントリークラブ」。1950年秋に追加された2ドアのピラーレスハードトップモデルだ。

メイソン自身は肥満体と言って良いほどの体格であるにもかかわらず、彼の興味は大型車よりも小型車にあった。これは単なる個人の趣味趣向ではなく「独立メーカーはビッグスリーと直接競合する大型車で勝負するのではなく、高性能かつ安価な小型車のような特徴ある商品で対抗し、活路を見出す」との経営戦略的な判断によるものだった。彼の経営決断の背景には、第二次世界大戦で兵器の増産が必要となった際に、男性の多くが兵役に取られたことで、やむなく銃後の守りとして「ロージー・ザ・リベッター」と呼ばれる女性の工員が多数採用されたことがあった。

メイソンは、これからの社会は女性の社会進出が加速し、移動のためにクルマを使用する機会が増えると予測。女性にも受け入れられやすい、取り回しが良くて経済的なコンパクトカーの需要が伸びると考えたのだ。

新車発表会のあとの1950年8月に開催されたナショナル・エアレースで撮影された1950年型ナッシュ・ランブラー「コンバーチブル・ランドー」。写真に一緒に映る女性はヘリコプターを使ったスタントショー(主に空中ブランコを披露)で有名だったマリリン・リッチ。ランブラーのプロモーションを兼ねてナッシュ社が送迎車として提供した。

当初、メイソンは低コストで生産できる経済的なコンパクトカーを構想していた。だが、市場調査によると消費者がファミリーカーとして魅力を感じるには、充分な車内空間と大型車にも負けない快適性が不可欠との結果が明らかとなり、いかに安くても商品として魅力がなければ売れないことを彼は悟ったのだ。

そこで中型車・ステーツマンよりも下のクラスとなるコンパクトカーには車体が小さくとも大人5人が快適に過ごせることを設計要件に盛り込んだ。この新型車はナッシュ=ケルビネーター社の屋台骨を支え得る主力商品になることが期待されていたので、メイソンは開発総指揮を俊英のジョージ・W・ロムニーを任せることにした。

問題は新型車のネーミングであった。車名はブランドや製品の成功に直結する重要な要素であり、キャッチーでありながら商品の特徴や魅力を伝え、消費者の記憶に残らなければならない。社内会議で長い時間をかけて議論が進められたが、なかなかこれといった案が上がらず、最終的に出された結論は、ナッシュ社の前身であるジェフリー社の最初の市販車であり、同時にヒット作であったランブラーの名を36年ぶりに復活させることだった。

ジョージ・W・ロムニー
ジョージ・W・ロムニー(1907年7月8日生~1995年7月26日没)
1907年にメキシコのチワワ州で敬虔なモルモン教徒の両親のもとに生まれ、1912年のメキシコ革命から逃れて家族と共に逃れてユタ州ソルトレイクシティに移住。貧困から働きながら中学校・高校を卒業し、ラターデー・セント・ジュニア・カレッジに入学。モルモン教の宣教師資格を取得して、1926年に布教のため渡英した。帰国後はユタ大学、次いでジョージ・ワシントン大学でビジネスを学んだが、彼は3つの大学に籍を置いたものの、どの大学も2年半ですべての単位を取得してしまい「学ぶことがなくなった」として卒業を待たずして中退している。1929年にマサチューセッツ州選出の民主党上院議員デビッド・I・ウォルシュの元で関税やその他の立法問題を扱う補佐官を務める。その後、ロムニーは兄弟とともにヴァージニア州ロスリンで乳製品販売所を起業するものの大恐慌の余波で倒産。アルコア社にセールスマンとして職を求めた。彼の優秀さはここでも発揮され、ほどなくして同社のロビイストに抜擢される。しかし、実績に対して出世が遅いことに苛立ちを覚えて家族と共にデトロイトへと移住し、自動車製造業者組合の地域統括者となった。1941年にはデトロイト商工会議所の会頭にも就任し、第二次世界大戦中には自動車製造会社間での戦時生産の最適化を図る「自動車戦時生産局」の設立の指揮を執ったほか、「オートモーティブ・コミッティング・フォー・エア・ディフェンス」や「デトロイト・ビクトリー・カウンシル」などの公的機関の設立にも関わっている。また「ウォー・マンパワー・コミッション」のデトロイト地区労務管理委員会の一員としても活動した。第二次世界大戦中に自動車産業界のスポークスマンとなったことから、戦後も「アメリカン・トレード・アソシエーション・エグゼクティブス」(現在の「アメリカン・ソサエティー・オブ・アソシエーション・エグゼクティブス」)役員や「全国自動車50周年記念実行委員会」の代表責任者、「鉄鋼通商産業会議」のアメリカ代表などの重職を歴任する。ケルビネーター社社長のジョージ・W・メイソンと知り合ったロムニーは、すぐに彼と親しくなり、メイソンがナッシュ=ケルビネーター社の会長となった1948年に誘いを受けてメイソンの秘書兼取締役に就いた。そして、革新的な小型車・ランブラーの開発総指揮という難題を見事成功させ、その功績により副社長へと昇進する。そして1954年10月にメイソンが急逝すると、ロムニーはナッシュ社とハドソン社の合併によって誕生したアメリカン・モーターズ(AMC)社の2代目会長兼CEOとなった。彼はAMCが巨大なビッグスリーに対抗する唯一の手段は小型車しかないと確信し、ランブラーを軸に商品開発を進めた。その結果、経営は安定し、1958年のアイゼンハワー不況下にあってAMCだけがアメリカの自動車産業の中で唯一売上を伸ばす。その後、AMCは「ガソリンを大食いする恐竜のハンター戦略」を掲げ、小所帯ながらも堅調な経営を続けた。UAW(全米自動車労働組合)の代表ウォルター・ルターとも信頼関係を築いており、労使関係は極めて友好的に保たれた。1962年、ビジネス界で成功を収めた彼は政界進出のためAMCを辞し、選挙戦を勝ち抜いてミシガン州知事となる。州知事在職中「開かれた州政府」を合言葉に公民権運動と税制改革に取り組み、ここでも大きな成果を残す。そして、1968年にはアメリカ大統領を目指して共和党の大統領予備選挙に立候補し、一時は最有力候補とみなされるも、失言によりニューハンプシャー州予備選挙の2週間前に出馬を取り下げた。1969年のニクソン政権で住宅都市開発長官に就任するも1973年に引退。残りの人生はボランティア活動を行いながら悠々自適な生活を送った。

安っぽいエコノミーカーではなく高品質なプレミアムコンパクトを

ナッシュ・ランブラーの開発にあたってロムニーは、車内容積を削ることなく小型化と軽量を押し進めることを設計上の優先課題とした。それにより5名の乗員が窮屈さを感じない最低限のサイズとして2540mmのホイールベースを設定。パワーユニットはエイジャックスでの採用以来、実績のある2.8L直列6気筒サイドバルブエンジンが選ばれた。スタイリングはブランドの統一デザインである「エンベロープボディ」の「エアフライト」が採用されることになった。

1950年型ナッシュ・ランブラー「コンバーチブル・ランドー」。会長兼CEOのメイソンの意向もあり、発売初年度のランブラーは、この1車種のみでの展開となった。また、ナッシュ=ケルビネーター社は広告宣伝にも長けており、1952年9月からオンエアされたTVドラマ『スーパーマン』にランブラー「コンバーチブル・ランドー」を提供。劇中でヒロインのロイス・レーン(演:フィリス・コーツ)の愛車となったことで、同車のイメージは大きく向上した。

じつはほぼ同時期にフォードやシボレーもランブラーのような小型車の開発を進めていたのだが、問題はコンパクトカーでも中・大型車と部品点数はほとんど変わらず、生産コストの低減が図れないことにあった。これでは消費者の目を引くような価格を提示することができない。仮に販売を強行したとしても収益性から言ってとても商品とはならず、市販化を諦めざるをえなかったのだ。

この難問に対してメイソンとロムニーはじつに賢明なアプローチをとった。新しいコンパクトカーのランブラーを価格頼りのボトムマーケット向けの商品とするのではなく、贅沢な装備を備えた高性能小型車として1808ドル(1ドル150円として現在の価値で邦貨換算すると349万3400円)という強気の価格で販売することにしたのだ。

当時のベストセラー車のひとつ、中型車のフォード(写真はカスタム・コンバーチブル)。高品質・高性能なコンパクトカーとしてランブラーを開発したナッシュ・ケルビネーター社は、フォード車よりも高い強気の価格設定で敢えて勝負を挑んだ。

これは同時期の中型車フォード・カスタムでもっとも安かった6気筒エンジンを搭載した2ドアセダンの1510ドル(同291万7650円)よりも高く、高性能なV型8気筒エンジン搭載バージョンを購入してなお200ドルものお釣りが来る金額であった。すなわち、ランブラーは現在で言うところの「プレミアムコンパクト」として販売されのだ。

実際にランブラーを走らせてみれば、フォードよりも250kg以上軽い車体と相まって、最高出力82hpの直列6気筒エンジンでもパワー不足を感じることはなく、最高速度は中・大型車にも引けを取らない136km/hに達した。さらに空力ボディの恩恵により高性能にも関わらず、燃費はクラストップの数値をマーク。また、ロムニーの企図通りに設計された同車は、コンパクトカーであるにもかかわらずインテリアは広々としており、ラゲッジルームこそやや不足していたものの、それでも2~3日の出張や家族旅行には対応できるサイズが確保されていた。

ナッシュ製172.6cu-in(2.8L)直列6気筒サイドバルブエンジン(写真は1949年型ナッシュ600の心臓部)。もともとは1940年にナッシュ600用に開発された古いエンジンで、当初は「フライング・スコット」と呼ばれていた。吸排気弁方式は旧式のサイドバルブで、新時代のOHVには出力・燃費・効率性で劣っていたが、ランブラーは革新的な設計のボディにより高性能を発揮した。

さらにライバルメーカーがオプション設定していたラジオ、電子時計、「ウェザーアイ」暖房換気システム、豪華なホイールキャップ、そして多くのクローム装飾を最初から標準装備とした。これは当時のコンパクトカーとしては珍しいことで、ライバル他車との差別化を図り、「装備の充実した小さな高級車」としてのランブラーのポジションを顧客にわかりやすくアピールする結果となった。

また、1949年に発表されたタッカー・トーペードに続いてオプション設定ながらシートベルトをいち早く設定したことも安全性を重視するナッシュ=ケルビネーター社らしいこだわりと言えた(1950年型ナッシュはアメリカで2番目にシートベルトを採用した乗用車となったが、販売は低調でわずか1000台分しか売れなかった)。

イメージ作りのため最初にトップグレードから展開したランブラー

しかしながら、会長兼CEOのメイソンはランブラーが期待以上の高性能な小型車に仕上がっても、なお慎重な姿勢を崩そうとはしなかった。当初よりランブラーにはいくつかの派生モデルが検討されていたが、前例のない小さな高級車ということで、初年度となる1950年4月13日の発表時(アメリカ車は秋に翌年モデルを発表するのは通例であり、モデルイヤー途中での発表は珍しい)には、フル装備の固定ピラーとドアサッシュを持つクーペカブリオレタイプ(のちの日産フィガロやフィアット500Cに似た構造のボディ)の「コンバーチブル・ランドー」1種のみに絞って販売することにしたのだ。

1950年型ナッシュ・ランブラー「コンバーチブル・ランドー」のカタログ写真。

これはメイソン流の計算されたリスクヘッジだった。ランブラーは前例のないコンパクトカーなだけに、デビュー時に消費者から肯定的な評価を得られなければ成功がおぼつかないことを熟知していたのだった。世間から「価格が高いだけの貧弱な小型車」と見なされれば、人々の購入候補に挙がらないことを熟知していたのだ。そのため、まずは贅沢で見栄えがよく、装備は充実したトップグレードから市場に投入しようと考えたのだ。

果たせるかな発表会後のメディアからの評価は概ね好意的で、翌日の新聞には「ナッシュの新型車ランブラー。装備が充実していてスタイリッシュ。おまけに経済的で運転しやすい高品質な小型車」との見出しがつけられたのである。

1952年型ナッシュ・ランブラーのインテリア。

そんなメイソンには運もまた味方した。ランブラーの発表直後、突如として朝鮮戦争が勃発したのだ。これにより第二次世界大戦後の軍縮ムードは一気に吹き飛び、休眠していた兵器工場の製造設備は再び轟音を響かせることになった。戦車や軍用トラックなどの軍需を生産するためには鉄鋼が必要となる。予想外の戦争に慌てた合衆国政府は、急遽民間向けの鉄鋼供給を減らして軍需へと当てた。

1950年6月25日、突如として北朝鮮軍が南下して韓国軍を追いつめた。アメリカは国連決議を元に朝鮮戦争に派兵を決定。これによって第二次世界大戦の終結に伴う平和ムードは一気に吹き飛び、休眠状態にあったアメリカの兵器工場は稼働を再開した。しかし、予想外の戦争の発生により、アメリカには兵器を生産するための鉄鋼が不足したことで、政府は急遽民間向けの供給を減らして軍需へと当てることにした。その結果、鉄鋼の使用量が多い自動車産業は生産調整を余儀なくされた。その影響はビッグスリーのような大手メーカーほど大きく、ナッシュ=ケルビネーター社のような中小メーカーの影響は比較的小さかった。写真は1951年3月に韓国楊平郡で撮影された米陸軍第6戦車大隊のM46中戦車。車体に描かれた虎のマーキングは「東アジアの人間は虎を恐れる」との伝聞から威嚇のために描かれたもの。

結果、鉄鋼を多く使う全米の自動車メーカーは生産調整を余儀なくされ、綿密な需要予測を立てた上で限りある資材をどの車種に振り抜けるか頭を悩ませることになった。その一方でナッシュ=ケルビネーター社はもともと大手に比べて車種が少なかったことに加え、ブランニューモデルのランブラーは「コンバーチブル・ランドー」のみの展開であったことから既存の車種を生産するだけで良く、業界の中で戦争の影響がもっとも少ないメーカーのひとつとなった。

ランブラーの成功によりナッシュは黄金期を迎える

朝鮮戦争の影響で新車のデリバリーに遅れが生じたこともあり、初年度のランブラーの販売はわずか1万1000台に留まったものの、それでもナッシュ=ケルビネーター社にとってこの年は最良の年となり、1950年度の総生産台数は19万台を超えた。そして、1950年4月18日にはナッシュ車の累計生産台数は200万台に達したのである。

1951年型では、販売が好調だったランブラーに2ドアのピラーレスハードトップの「カントリークラブ」と2ドアステーションワゴンを設定。それに加えてこれまでの豪華なトリムレベルを持つ仕様に「スーパー」のグレード名が与えられた上で、新たにエントリーグレードの「カスタム」が追加された。また、ランブラーのスタイリングには最新のトレンドが取り入れられ、リヤフェンダーを延長した上で一体式の垂直型テールライトが備わるようになり、装備面では垂直バー型グリルには水平型駐車灯が新たに採用された。

1951年型からランブラーに追加された2ドアステーションワゴン。

1949~1951年の3年間、ナッシュ=ケルビネーター社には過去最高の売り上げを記録し、文字通りの黄金期を迎えていた。その中でも好調の原動力となったのがコンパクトカーのランブラーであった。ユーザーからの支持を集めた同車は、登場からの3年間で5万3000台以上の販売を記録し、同社の屋台骨を支える最重要モデルへと成長を遂げていた。

ピニンファリーナデザインを原案とする「ゴールデンエアフライト」が登場

メイソンはこの好調をチャンスと捉えた。前身となるジェフリー社の時代から数えてナッシュ=ケルビネーター社は創業50周年の節目を迎えようとしていた。幸いなことに小型車のランブラーは販売が好調で、わずか2年間で同社の経営を支える主力モデルへと成長。

2ドアステーションワゴンと同時に販売を開始した2ドアのピラーレスハードトップの「カントリークラブ」。

このタイミングで販売攻勢を仕掛けることが最良と判断した彼は、1951年春に以前から開発を進めていた「エアフライト」の進化系デザインである「ゴールデンエアフライト」を発表した。1952年型アンバサダーとステーツマンに取り入れられたこの斬新なスタイリングは、イタリアのバッティスタ・“ピニン”・ファリーナの原案によるものだった。

バッティスタ・ファリーナ
バッティスタ・ファリーナ
(1893年11月2日生~1966年4月3日没)
1893年にイタリア・ピエモンテ州コンスタンツェで11人兄弟の10番目として生まれたバッティスタは、小柄だったことからピエモンテ語で一番小さい兄弟を意味する「ピニン」の愛称で呼ばれた。12歳のときに兄ジョヴァンニのボディショップである「スタビリメンティ・ファリーナ」(のちにバッティスタによって設立されたカロッツェリア・ピニン・ファリーナに吸収合併)で働き始めた。そこで彼は、ボディワークを学び、やがて自分のクルマを設計し始める。1930年にカロッツェリア・ピニン・ファリーナを設立し、新しい車体の設計と製造に注力し、すぐに名声を得た。1952年からのフェラーリのスタイリングが彼を代表する仕事となった。1961年にときの法務大臣の発案で、イタリアのグロンキ大統領は彼の業績を考慮し、彼の姓をピニンファリーナへと改名することを許した。彼の娘ジャンナの夫であるレンツォ・カルリと息子セルジオ・ピニンファリーナに経営権を譲ったあとも仕事は続けていたが、1966年4月に死去する。

1940年代後半からメイソンは新型車のインスピレーションを得る目的でヨーロッパ各国で再開されたモーターショーを訪ね歩いていた。その中で彼がもっとも感銘を受けたのがピニンファリーナの数々の作品だった。

1949年、メイソンはピニンファリーナに次世代のアンバサダーとステーツマンのカーデザインについて話し合いの機会を設けた。じつは「エアフライト」の改良は早くからエドモンド・アンダーソン率いる社内のデザイン部門で検討されていたのだが、「エアフライト」はあまりにも個性が強く、斬新で完成度の高いスタイリングのため変更が難しく、その作業は遅々として進んでいなかったのだ。

アラバマ州バーミンガムに店舗を構えていたナッシュ・ディーラー。1940年代後半~1950年代にかけての標準的なナッシュのディーラー店舗の姿だ。

しかし、この時代のアメリカ車はイヤーモデル制により毎年のマイナーチェンジと2~3年に1度のフルモデルチェンジが常態化しており、いかに革新的なナッシュ車のスタイリングと言えども、このままでは早晩陳腐化して消費者から飽きられることが予想されていたのだ。これに焦りを覚えたメイソンは外部の知恵を借りようとピニンファリーナの工房を訪れたのである。

巨匠バッティスタの仕事は早く、メイソンとの話し合いからからほどなくしてケノーシャの本社に次世代のアンバサダーのスタイリング案が届けられた。
ピニンファリーナからの提案はナッシュ車らしい個性を残しつつも、ボンネットを低く抑え、全体のフォルムを角ばらせたモダンなものであった。バティスタのデザイン画に描かれたクルマは美しく、ノーブルかつ気品に溢れたもので、メイソンを始めとするナッシュ=ケルビネーターの経営陣は誰もがその美しさに息を呑んだ。

ピニンファリーナのデザイン案を元に製作されたアンバサダーのプロトタイプ。美しく、完成度は高いがアメリカの大衆には受け入れられないとして、このままのスタイリングでの量産は見送られた。なお、ピニンファリーナ案のフロントマスクは1956年型のナッシュ車に採用されている。

だが、同時に彼らの脳裏に浮かんだのは一抹の不安だった。その不安はアンダーソンらデザイン部の社員から持ち上がった「たしかにピニンファリーナのスタイリング案は美しく完成度が高い。だが、あまりにヨーロッパ的すぎるデザインで、これではアメリカの大衆には受け入れられない」との声に代表されていた。

宣伝のために有名なイタリア人カーデザイナーの名前もクルマに入れたいと考えていたメイソンは大いに悩み、ひとつの妥協案を思いつく。ピニンファリーナ案をベースとしながら、消費者の好みを反映させるべく自社のデザイン部門にローカライズさせることにしたのだ。

「ゴールデンエアフライト」コンセプトのスタイリングでデビューした1952年型ナッシュ・アンバサダー4ドアセダン。ナッシュ車のアイデンティティである「エンベロープボディ」とピニンファリーナのデザイン案を融合したスタイリングとして登場した。

このような妥協の産物は得てして酷い惨状を呈するものだが、このときはアンダーソンの手腕もあって、ピニンファリーナの基本デザインの美しさを損なうことなく、ナッシュ車のアイデンティティである「エンベロープボディ」を残し、アメリカ車らしい華やかさを加味した素晴らしいスタイリングへと昇華した。

「ゴールデンエアフライト」コンセプトに基づいて誕生した新型のアンバサダーとステーツマンは、一部に「バスタブをひっくり返したようなデザイン」と揶揄する声があったが、市場からは概ね好意的に受け入れられた。そのスタイリングの素晴らしさは誰もが認めるところであり、同社のフラッグシップとなるアンバサダーはいくつかの権威あるデザイン賞を獲得している。

1952年型アンバサダー4ドアセダンと同時にデビューした中型車のナッシュ・ステーツマン。ボンネットが低く、より角ばったモダンなスタイリングがこの時代のナッシュ車の特徴となった。

また、ファストバックからノッチバックへとボディスタイルが改められたことで、トランクスペースが拡大したことも顧客から好評だった。スタイリングの魅力に加えて、機能や装備を充実させた新世代のナッシュ車をマスコミは「その快適性と豪華さは非常に先進的であるため『競合他社と比較するとほかに新車が時代遅れに見える』とのCMコピーに偽りはない」と報じている。

しかし、この頃から資本力に勝るGM・フォード・クライスラーの3社が新車攻勢を仕掛けてきたこともあって、過去3年間と比べるとナッシュ=ケルビネーター社は新車販売が好調だったにもかかわらず成長率は鈍化し、市場シェアは下降線を描き始めていた。

何かしらの対策が必要であると考えたメイソンは、ラインナップをさらに強化する一方、ビッグスリーが今まで手を出していなかったニッチマーケットの開拓に乗り出すことを決定する。その結果、1953年に同社が満を持して市場に送り出したのが、スポーツカーのヒーレー・ロードスターとサブコンパクトカーのメトロポリタンだった。

1954年型ナッシュ・ランブラー。フラッグシップのアンバサダー、中型車のステーツマンに2年遅れで「ゴールデンエアフライト」のスタイリングが採用された。

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山崎 龍 近影

山崎 龍

フリーライター。1973年東京生まれ。自動車雑誌編集者を経てフリーに。クルマやバイクが一応の専門だが、…