【メトロポリタンとナッシュのコンパクトカー vol. 2】

フルフラットシートは車中泊か恋愛仕様か!? ホンダS-MXの源流はアメリカンメーカー「ナッシュ」の”ベッド・イン・ア・カー”だった!

高品質かつ高性能な中・小型車にこだわり、ユニークで個性的なクルマ作りを続けたナッシュ社の連載記事の2回目は、創業者チャールズ・W・ナッシュが1917年にトーマス・B・ジェフリー・カンパニーを買収してナッシュ・モーターズを設立したところから画期的な小型車エイジャックスの発表、高級車のナッシュ・アンバサダー・エイトの販売、そして、1936年に同社の乗用車に設定された「ベッド・イン・ア・カー」までを紹介する。「恋愛仕様」を謳い文句にホンダがリリースしたS-MXに先駆けること60年。このナッシュがユーザーに提案した「ベッド・イン・ア・カー」は、元祖「走るラブホ」として当時の若者から絶大な支持を集めた装備でもあった。
REPORT:山崎 龍

え!? アメリカでコンパクトカーを!? GM・フォード・クライスラーじゃないアメ車メーカーの興亡……ナッシュ?カイザー?いくつ知ってる?

2025年2月9日に本牧山頂公園で開催された『24th HOT ROD RAZZLE DAZZLE』の会場となった横浜市・本牧山頂公園には国内では珍しいナッシュのメトロポリタンとランブラーの姿があった。ナッシュはAMCの母体となった高品質かつ高性能な中・小型車にこだわり、ユニークで個性的なクルマ作りを続けたメーカーである。しかし、日本での知名度はあまり高くない。そこで、コンパクトカーを中心にナッシュの主要車種と歴史を解説していこうと思う。

GM5代目社長が興した高品質を謳った独立メーカー

1950年代前半のアメリカ製コンパクトカーをリリースしたメーカーのうち、最も成功を収め、長年に渡って独立メーカーとして地位を保ち続けたのが「ナッシュ・モーターズ」だった。この会社はGM創業社長のウィリアム・C・デュラントの片腕として活躍したチャールズ・W・ナッシュが、GM退任後の1916年にトーマス・B・ジェフリー・カンパニーを買収して設立した自動車メーカーである。

チャールズ・W・ナッシュ
チャールズ・W・ナッシュ(1864年1月28日生~1948年6月6日没)
GMの5代目社長にしてナッシュ・モーターズの創業者であるチャールズ・W・ナッシュの少年期はけっして幸福なものではなかった。イリノイ州コートランドの貧農の子どもとして生まれた彼は6歳の時に両親が離婚。父と母のいずれも彼の引き取りを拒否したことから裁判所の命令によりミシガン州の農場に丁稚奉公に出される。そこで雑用係としてこき使われた彼は小学校にも通えなかったが、少ない給料のほとんどを本代に充てて独学で勉学に励む。しかし、このままでは将来がないと思い、12歳のときに家出して農場を転々とする労働者となった。実業家であり政治家でもあったアレクサンダー・マクファーランドの農場で働いていたときに、同僚から大工仕事を教わったことがきっかけで、友人と干し草刈り専門のアダムス&ナッシュ社を若くして設立。それと前後して妻となるジェシー・ハレックと出会い、1884年に結婚した。妻のジェシーは身体が弱かったことから良い医者がいるというミシガン州の大都市フリントに引っ越した。当時フリントは馬車製造が主要な産業で、1890年に全米最大の馬車製造会社だったフリント・ロード・カート・カンパニー(1895年にデュラント・ドート・キャリッジ・カンパニーに改名)を経営するウィリアム・C・デュラントと出会う。デュラントは破天荒かつ野心的で、勤勉実直で穏やかなナッシュと性格は正反対だったが、不思議と馬が合い、出会ってすぐに友人となった。ナッシュのことをすっかり気に入ったデュラントは、彼に自分の会社に誘う。それに応え、ナッシュは1890年に馬車内装の組み立て作業員として入社。真面目な仕事ぶりが社内でも評価されてわずか半年で工場長に昇進している。1897年に誕生間もない自動車を運転する機会に恵まれたデュラントとナッシュはすぐにその魅力に取り憑かれ、その将来性から自動車産業への参入を目指す。そして、1904年にOHVエンジンを採用した革新的な設計の乗用車を生産しながらも販売不振で赤字に苦しんでいたビュイック社を買収。デュラント・ドート社の資本を投じて経営立て直しを図った。果たせるかなビュイック社の経営は短期間で黒字化し、1905年にはフォード社、キャデラック社、オールズモビル社を抑えて全米トップの自動車メーカーへと成長。この成功を元にしてデュラントは複数の自動車メーカーと部品メーカーによる持ち株会社のGMを設立した。その際に優秀な経営者が足りないと気付いたデュラントは、ナッシュにGM傘下のビュイック社の経営を託す。だが、あまりにも性急に企業買収を繰り返したことで、重複する自動車メーカーや不要な部品メーカーまで取り込むことになり、デュラントの拡大政策はやがて完全に行き詰まる。多額の負債を抱えたGMに対し、出資者であるモルガン商会を中心とする銀行団は創業者のデュラントを会社から放逐し、1912年にウィリアム・M・イートン、ジェームズ・J・ストロー、トーマス・ニールら(いずれもごく短期間でGMを去っている)に続く5代目GM社長にナッシュを就任させた。GMの舵取りを任せられた彼は不採算部門をリストラし、コスト削減と売り上げ増による経営合理化を図った。また、アメリカン・ロコモティブ社の技術者だったウォルター・P・クライスラーを雇い入れ、ビュイック社の工場長とするなど優秀な人材確保にも尽力している。その結果、ごく短期間でGMの経営は黒字化した。しかし、1915年にデュラントが新たに興したシボレーの売り上げを利用し、GMを傘下に組み入れることで同社社長の座に返り咲く。これを受けてナッシュはGMから去ることを決意。ナッシュを高く評価していたデュラントは年収100万ドルの給与を提示して慰留したが、ナッシュはこれを「ありがとう、デュラント。ですが、私には過分な報酬ですよ」と言ってこれを断ったという。これにはデュラントの拡大一本槍のワンマンな経営方針についていけなくなったとも、銀行団に請われて社長に就任した自分がGMに残留することで社内の混乱を避けたいとの思いから身を引いたとも言われているが、これらの理由と並んでナッシュの心中には自身の名を冠した自動車メーカーを創設し、巨大メーカー・GMでは作れない理想的な乗用車を作りたいという気持ちがあったようだ。なお、プライベートにおけるふたりの友情はナッシュがGMを去ったあとも続いたようで、1910年代後半に互いの家を訪ねて談笑するふたりの姿を映した写真が残されている。
ウィリアム・C・デュラント
ウィリアム・C・デュラント(1861年12月8日生~1947年3月18日没)
一時は世界最大、現在もアメリカ最大の自動車メーカー・GMの創設者。1861年にマサチューセッツ州ボストンの裕福なフランス系アメリカ人の家庭に生まれたが、1869年に両親の離婚を機に母親とともにミシガン州フリントに住む祖父のもとに身を寄せた。彼の商才は幼少期から開花し、近所の大人相手に小商を行っていた。高校を中退したデュラントは葉巻の行商人となる。1886年に友人からコールドウォーター社製の2輪馬車に乗せてもらう機会があると乗り心地の良さに感心し、「これは売れる」と踏んで銀行から2000ドルの融資を受けて同社を買収。ビジネスの種をつかんだ彼は金物屋を営んでいた友人のジョシュア・D・ドートを誘ってフリント・ロード・カート・カンパニー(1895年にデュラント・ドート・キャリッジ・カンパニーに改名)を設立。15年足らずで全米一の馬車メーカーへと成長させた。1890年にチャールズ・W・ナッシュと知り合い友人となり、その人柄と実直な性格に感銘を受けて自社へスカウト、半年ほどで工場長へと昇進させている。当初デュラントは「馬が騒音に怯える」「金持ちの道楽」「役に立たないガラクタ」と自動車を毛嫌いしていたが、1897年に自動車を運転する機会に恵まれるとその魅力に取り憑かれ、天性の商才から自動車産業が鉄鋼や造船、石油産業と並ぶアメリカの主要産業になることを予見し、自動車ビジネスへの参入を画策。1904年に技術力があるが商業的に成功していなかったビュイック社を経営者のジェームズ・H・ホワイティングから譲り受ける。デュラントは短期間で同社の経営を立て直し、1905年に全米トップの自動車メーカーへと成長させる。この成功を元手にしてデュラントは株式の交換により、複数の自動車メーカーと部品メーカーを垂直統合した巨大トラストのGMを創設した。しかし、攻勢一本槍の彼の経営手法は重複するさまざまな企業を傘下に持つことになり、自動車市場が充分に成熟していなかったこともあって運転資金が枯渇して経営難に陥った。出資者であるモルガン商会を中心とする銀行団はデュラントの経営責任を追及し、GM経営権の5年間剥奪を条件に追加融資を行う。しかし、GMの経営者に返り咲くことを目論むデュラントは、レーサーのルイ・J・シボレーとともにシボレー社を設立。低価格の小型大衆車シボレー490を発表した。このクルマは登場とともに消費者の心を掴んで大ヒットモデルとなり、この成功を足がかりにデュラントはGM奪還のために全財産を投じてGM株の買い占めた。自己資金が枯渇すると今度はシボレー株とGM株を1:5の比率で交換するという破れかぶれな手法に出る。当時、再建途上だったGMは無配当が続いており、これに嫌気が差していた個人株主たちがデュラントの求めに応じ最終的に1916年9月16日のGM取締役会までに全株式の40%を取得してデュラントは再び経営権を取り戻した。しかし、彼のワンマンな経営手法にナッシュやヘンリー・リーランド、ウォルター・P・クライスラーらはついていけなくなり、GMにとって貴重な人材がこのときに流出している。GMに復帰したデュラントは第一次世界大戦後に好景気が来ると信じてデュポン社からの投資を受け入れて多大な投資を行ったが、彼の読みは完全に外れ、大戦後にやってきたのは不況だった。その結果、GMは1億3700万ドル分の在庫を抱え、1920年4月にGMの株は暴落し、370ドルの株価は1ヶ月足らずで40ドルを割った。GM株の下落を防ごうとしたデュラントは自らの全資産9000万ドルを投じて売りに出されたGMの株を一心不乱に買い続けた。だが、景気は改善されるどころか一層悪化し、デュラントの個人資産はついに潰えた。すると彼は21の株式ブローカー、3銀行から2000万ドルを借金して株の買い支えを図ったが、結果から言えばすべては徒労に終わった。GMの破産によりこれまでの投資が無に返すことを恐れたモルガン商会とデュポン社はデュラントの退任を条件にGM救済を決定(後任はアルフレッド・P・スローン)。こうしてGMから去ったデュラントはすべての資産を失い無一文となったが、それでも自動車ビジネスを諦めきれず、株式投資で得た400万ドルを元手として、1921年に20年前のGM設立と同じ主法でデュラント・モーターズを設立して再起を図った。順調なスタートを切ったデュラント社であったが、1929年のウォール街大暴落とそれに続く大恐慌による財政難で1933年に倒産した。その後もデュラントはいくつかの事業を起こすが上手く行かず、1942年にネバダ州の辰砂鉱山への投資を検討するための現地視察から帰宅後に脳卒中を起こして半身不随となる。脳卒中の後遺症で次第に会話を交わすことも難しくなったデュラントであったが、ビジネスにかける情熱は最期の瞬間まで衰えることはなく、病床にありながらも新たな事業を計画していたという。1947年3月18日、ニューヨーク市の自宅で2番目の妻のカトリーヌに看取られて死去。

同社は1917年に初の市販車となるモデル671を発表し、これがヒットしたことで創業からわずか2年で年間2万7000台の生産を記録。1928年には生産台数は13万8000台に達し、ビッグスリーに次ぐ全米第4位の自動車メーカーへと成長した。

ウィスコンシン州ケノーシャのトーマス・B・ジェフリー・カンパニーの工場。トーマス・B・ジェフリーと息子のチャールズによって1902年に創業した同社は、ナッシュ社に買収される1916年まで、ランブラーやジェフリーなどの乗用車を生産していた。1954年にナッシュ社とハドソン社の合併によりアメリカン・モーターズ・コーポレーションの工場となり、1987年のクライスラー買収後はエンジン製造工場となった。しかし、2010年にクライスラーの経営破綻に伴い閉鎖され、2012年に同工場は解体されている。

また、ジェフリーから生産を引き継いだクワッド・トラックは、創成期の4WDトラックとして米陸軍に採用されて第一次世界大戦でも活躍。ミュール社のLSDに四輪操舵を備えた斬新なメカニズムを持つタフなトラックとして悪路走破性が高く、戦後もフォー・ホイール・ドライブ・カンパニー(FWD社)のモデルBとともに4WDトラック市場を寡占し、競合メーカーが少なかったこともあって1928年の生産終了まで商用車部門の稼ぎ頭となった(のちにナッシュ社は限られた生産能力を乗用車に振り向ける必要からペイジ・デトロイト・モーター・カー・カンパニーへライセンス権を下ろして生産させている)。

トーマス・B・ジェフリー・カンパニーが開発し、ナッシュ社の買収後も生産が続けられた創成期の4WDトラックとなったクワッド・トラック。主な用途は軍用で、米陸軍に採用されて第一次世界大戦で実戦を経験した。ミュール社のLSDに四輪操舵を備えた斬新まメカニズムを持ち、第一次世界大戦後は軍からの払い下げ車や新造車が林業や建設業などで重作業用トラックとして活躍した。

そんなナッシュ社のモットーは、創業者の実直な性格を反映して「顧客に支払った以上のものを提供する」というものだった。販売の主力となったのは中流層を対象とした高品質な中・小型車であり、先進技術の導入にも貪欲だった。

処女作であったモデル671はジェフリー・ランブラー(初代)の基本設計を引き継いではいたが、心臓部に積まれたのは新開発された4.0L直列6気筒サイドバルブエンジンだった。このパワーユニットを開発したのは、GMのオークランド(のちのポンティアック)・ディビジョンで主任技術者だったフィンランド出身のニルス・エリック・ウォールバーグで、社長のナッシュが直々に口説き落として同社の主任エンジニアとして移籍させたのである。

また、ナッシュが生産する乗用車には足廻りにちょっとした工夫が施されており、後輪のトレッドを前輪よりもやや狭くすることでコーナリング時の安定性向上を図っていた。そして、ウォールバーグは1917年に近代的フロースルー式ベンチレーションを開発し、ナッシュ社が生産するすべての乗用車に装備されたのである。

画期的な大衆車エイジャックスでナッシュのブランド力を証明する

1920年にアメリカ社会は第一次世界大戦後の不況に見舞われた。自動車工業会のリーディングカンパニーであったGMを含め、ライバルメーカーが過大な設備投資と過剰在庫による経営難に喘ぐ中、社長のナッシュはその優れた経営手腕を遺憾なく発揮。一時的に工場の操業を停止したものの、1921年には低コストかつ経済的な2.5L直列4気筒エンジンを新開発し、エントリーモデルに搭載したことで、業績の落ち込みを最小限に止めることに成功した。

そして、他社に先駆けて経営を安定させると、1922年に安価な大衆車とオートバイで定評のあったミッチェル・モーターズ・カンパニーを買収し、続く1924年には売上が低迷していた高級車メーカーのラファイエット・モーターズを吸収合併(もともとチャールズ・W・ナッシュはラファイエットの大株主であり、同社の経営陣とは友好関係にあったことから合併は円満に行われた)した。

1883年創業のミッチェル・ルイス&カンパニーはもともと馬車製造メーカーであったが、1890年に自転車製造に進出し、1900年からはオートバイ製造にも乗り出した。そして、1903年にミッチェル・モーター・カー・カンパニーとして自動車製造を開始する。同社は1916年にミッチェル・モーターズ社として再編されたが、スタイリングの失敗、自動車の大量生産者との競争、戦後恐慌の影響で、1920年と1921年の生産台数は2500台以下にまで落ち込み、1923年に破産。ナッシュ社に買収された。

ミッチェルを傘下に収めたチャールズ・W・ナッシュは、自身が計画していたエントリーモデルのエイジャックスを生産するため、ウィスコンシン州ラシーンにあったミッチェルの工場を1924年までに改装。ラファイエットが所有していた高級車用の生産設備をミッチェル工場へと移設した。そして、生産体制が整ったところでエイジャックスの量産を直ちに開始したのである。

1921年型ラファイエット4ドアクーペ。1919年にインディアナ州の州都・インディアナポリスに設立されたラファイエット社は、高級車メーカーとして全米にその名が知られていた。しかし、1920年代に入ると第一次世界大戦後の景気後退もあって売上は低迷。チャールズ・W・ナッシュはラファイエットの大株主であり、経営陣と友好関係にあったことから請われて取締役に就任。その後、ナッシュ社により吸収合併されブランドは消滅した。1934年にナッシュの安価な小型車にラファイエットの車名が与えられた。

このクルマは社長のナッシュの肝煎で開発されたエントリーカーで、当時、大衆の受け皿となっていたフォード・モデルTが性能や機能面ですっかり時代遅れとなっていたことから、それに代わる安価な大衆小型車として、あまねく人々に高性能かつ安全な質の高い自動車を安価に提供したいとの思いから開発されたものだった。

1927年型ナッシュ・ライトシックス・ツアラー。チャールズ・W・ナッシュ肝煎の大衆車として開発されたエイジャックスであったが、消費者からはナッシュ製とは信じてもらえず、発売当初は販売は低迷した。そのエイジャックスを改名した上でナッシュのラインナップに組み込むことにしたのが写真のライトシックスだ。

実際にエイジャックスは当時の大衆車の水準を超える高性能車で、7つのメインベアリングを備えたクランクシャフトと強制給油システムが採用された2.8L直列6気筒サイドバルブエンジンを搭載。大衆車クラスでは珍しかった4輪ドラムブレーキ、スチールディスクホイール、モヘアベルベットの内装、電気式の時計を標準装備としていた。ボディは4ドアセダン、4ドアツーリング、2ドアセダンの3つのバリエーションを用意しており、もっとも安価な5人乗りのツーリングは865ドル(1ドル150円として現在の価値で邦貨換算すると230万4000円)のプライスがつけられていた。これは同時期のフォード・モデルTのもっとも安価なモデルとは2倍以上の価格差であったが、内容的には比べるのも愚かというほどの開きがあった。

1908年から量産を開始したフォード・モデルTは、このクルマについては多くを語る必要はないだろう。世界初の“大衆車”であり、19年間に1500万台以上が生産された史上稀に見る成功作だ。画期的なベルトコンベアー式生産工程はまさしく革命的なことであり、量産効果もあって極めて安価に販売された。このクルマの登場によりモータリゼーションが発生し、社会のあり方を根底から覆すことになる。しかし、モデルライフ後半になると相次ぐライバルメーカーの新型車に対抗してモデルTは改良を施すも、基本設計の古さから販売面で苦戦。また、車重の増加によってパワーの乏しいエンジンに負担を強いることになり、他車との性能差はますます開いていった。

チャールズ・W・ナッシュは合併先のメーカーに敬意を評して、期待の新型車に敢えてナッシュのブランド名を名乗らせることをせず、エイジャックスの車名を冠しただけで旧ミッチェルのディーラー網を通じて販売した。ところが、いざ蓋を開けてみると「低価格の割に品質の良いクルマ」との評価を得たものの販売は思うように伸びなかった。

製品に絶対の自信があった社長のナッシュは直ちに市場調査を開始。意外なことに、事前の宣伝広告やマスコミ報道にもかかわらず、消費者の多くがエイジャックスをナッシュの製品ではないと誤解しており、ミッチェルが合併直前の1920年にリリースしたシックスの評判が悪かったことが、エイジャックスの販売に悪影響を及ぼしていたことがわかったのだ。

1929年型ナッシュ・スタンダードシックスシリーズ420・4ドアセダン。ライトシックスに代わって1920年代後半からナッシュの経営を支えた小型大衆車だ。外観は上級モデルのスペシャル・シックスやアドバンスト・シックスに似ているが、ホイールベースは短く、排気量が小さい上、直6エンジンのバルブ機構はOHVではなくサイドバルブとなる。上級モデルよりも数百ドル安く販売された。

この予想外の結果にナッシュ社はさっそく対策を講じる。1926年にエイジャックスをライトシックスと改名した上でナッシュのラインナップに組み込むことにしたのだ。すると、ナッシュのロゴが入ったホイールキャップ、エンブレム、ラジエーターグリルに交換しただけで、エイジャックスと変わりのないクルマが飛ぶように売れはじめたのだ。これはユーザーがナッシュブランドに絶大な信頼を寄せており、その良好なブランドイメージが市場に広く浸透している証拠でもあった。

1929年型ナッシュ・シングルシリーズ450・4ドアセダン。スタンダードシックスシリーズに代わる大衆車として1930年に登場した。外観は上級グレードのイメージを投影した高級感溢れるものに仕上がっているが、メカニズムはスタンダードシックスのものを引き継いでいる。

ここで話が終われば、よくある製品のリニューアルの成功例に終わるのだが、それだけで終わらないのがナッシュ社のナッシュ社たる所以である。改名に先立って購入した顧客がリセールなどで不遇を託つことがないようにと、エイジャックスのオーナーの元にライトシックスの外装用パーツをセットにしたナッシュ・コンバージョンキットを無償で提供したのだ(この措置はエイジャックスの在庫車を抱えていたディーラーに対しても行われた)。

モダンなデザインのガラス張りのタワー式ショールーム。現代の自動車ディーラーでもよく見られるものだが、ナッシュでは1930年代から採用している。

このアフターサービスは、社長のナッシュによる「わが社の顧客を失望させてはならない」との発案によるものとされている。顧客目線によるきめ細かな対応により、エイジャックスのユーザーは愛車の価値を毀損させることがなく大いに喜んだという。こうしたサービスがナッシュブランドの評判はさらに高め、1926年のアメリカの全自動車生産量のうちナッシュ社は24%以上を占めるまでに至った。

1929年型ナッシュ・モデル42ロードスター。このクルマは処女作のモデル671の改良型で、基本設計が優秀であったことから創業から5年後も改良を加えながらナッシュの主力モデルとして生産が続けられた。

「ケノーシャのキャデラック」は「走るラブホ」を作った?

1930年代になるとナッシュ社はウォールバーグ主導のもと、点火の確実なツインプラグと各気筒間に9つのメインベアリングを備えたクランクシャフトを備えた革新的な設計の5.4L直列8気筒OHVエンジンを開発。このエンジンを搭載した1932年型アンバサダー8には、シンクロメッシュ・トランスミッションとフリーホイール(自転車のフリーハブと同じくトルクを一方向にのみ伝達し、反対方向への回転は空転するハブとドリブンスプロケットの間に配置されたラチェット機構。燃費改善を目的に1930年代の自動車に数多く採用されたがのちに衰退する)、自動集中シャーシ潤滑(当時はキャデラックやロールス・ロイスのような高級車のみに採用されていた高度なシステム)、低床化に寄与するウォームドライブ・デファレンシャルが採用され、サスペンションは車内から調整できた。中型の大衆車でありながら高級車にも匹敵する数々の装備が与えられたことから、評論家からは工場の所在地に由来する「ケノーシャのキャデラック」の異名が与えられたほどだった。

ナッシュがアンバサダー・エイト用に開発した開発の5.3L直列8気筒OHVツインプラグエンジン。

また、1936年には「ベッド・イン・ア・カー」というユニークな機能をナッシュ車に追加している。これはトランクの間仕切りを開いてリアシートの背もたれを後方に倒し、座面を持ち上げると車内に水平の簡易ベッドが出現するというものだ。当時、アメリカのセールスマンは全米各地を営業で渡り歩くことが多く、そのような需要を当て込んだビジネスクーペと呼ばれた車種の中には、車内で就寝できるように工夫されたクルマも存在していたが、ナッシュの「ベッド・イン・ア・カー」はそのアイデアをさらに発展させたものだった。

1934年型ナッシュ・アンバサダー・エイト4ドアセダン。1932年に新開発の5.3L直列8気筒OHVツインプラグエンジンを搭載し、豪華な装備に加え、品質、耐久性、スタイル、速度のすべてを兼ね備えた高級車として登場した。クーペやビクトリアを含む豊富なバリエーションが展開された。「ケノーシャのキャデラック」の異名を持つ。

ところが、簡易ベッドが大人ふたりが就寝できるだけの充分なスペースを持っていたことが問題となった。当時のアメリカ社会にはピューリタン的な倫理観が色濃く残っており、保守層を中心に「ナッシュは逢い引き用の移動ホテルを作るのか!」との痛烈な批判が上がったのだ。

1936年にナッシュが自社の乗用車に設定した「ベッド・イン・ア・カー」。トランクの間仕切りを開いてリアシートの背もたれを後方に倒し、座面を持ち上げると車内に水平の簡易ベッドが出現する仕組み。ベッドスペースは1.8m×1.2m以上のサイズがあり、大人ふたりが就寝することができた。ナッシュは快適な就寝ができるようにブランケットと枕をセットもオプションで用意した。なお、「ベッド・イン・ア・カー」は1949年に改良され、座席を倒してシートをフルフラットにする方式に改めている。さらにナッシュは1950年にフロントシートの背もたれを中間位置でロックできるリクライニングシートを世界に先駆けて開発した。ナッシュはフロースルー式ベンチレーション、近代的なヒーターシステム、モノコックボディ、シートベルト、リクライニングシートなどのさまざまな新機軸をライバル他社に先駆けて採用している。

もっとも、1930年代に入るとクローズドボディの自動車が普及し出したことから若者の間でカーセックスは珍しい行為ではなくなっていた。 いずれにしてもホンダS-MXが登場するちょうど60年前に同様の批判をナッシュが受けていたことは面白い。

ナッシュの「ベッド・イン・ア・カー」は登場とともにアメリカ社会に物議をかもすことになる。当時のナッシュは若者から支持を集めており、若い男性ユーザーが不純な同期から最初の愛車にナッシュを選ぶことが多かったと伝えられている(反面、娘のいる親はナッシュ車を毛嫌いした)。ナッシュの「ベッド・イン・ア・カー」は全米各地を営業に回るセールスマンやアウトドアユースでの利用を目的に開発したものだったが、その60年後に登場したホンダS-MXは「恋愛仕様」をキャッチコピーに、若いカップルをターゲットとして開発したクルマであった(ご丁寧にもフルフラットにすると、ボックスティッシュトレイがある)。SM-Xは2002年に1世代限りで生産終了したが、フルフラットになるシートやボックスティッシュトレイは、ミニバンや軽スーパーハイトワゴンに受け継がれている。
シートをフルフラットにしたホンダS-MXのインテリア。現在多くの車に採用されるフルフラットシートのアイデアは1949年にナッシュが考案したものだ。すなわち、「ベッド・イン・ア・カー」は現在の車中泊に対応するミニバンやSUVの奔りとなったわけである。ただ、フルフラット車の弱点はベッドとしての機能を優先して座面や背もたれが平面で座り心地が悪いところ。写真のS-MXは確かに“座る”というシートの本質的な機能としては疑問が残る形状。

後年、女優でコメディエンヌのキャロル・バーネットは、両親がナッシュを愛用していたことから「私はナッシュの中で生を授かったの」と宣い「ベッド・イン・ア・カー」をネタに笑いを取っていた。

キャロル・バーネット
キャロル・バーネット(1933年4月26日生~)
1960~1990年代にかけてテレビやコメディ映画で活躍した女優にしてコメディアンヌ。1967年9月~1978年3月にかけてCBS系でいオンエアされた『キャロル・バーネット・ショー』は、女性が司会を務めた最初のテレビ番組のひとつとなった。彼女は、7つのゴールデングローブ賞、7つのプライムタイムエミー賞のほかトニー賞、グラミー賞など数多くの受賞歴を持つ。2005年に大統領自由勲章、2013年にマーク・トウェイン・アメリカン・ユーモア賞、2015年に全米映画俳優組合生涯功労賞を受賞。バーネットは1933年に映画関係の職に就く両親の間に生まれるが、ふたりはアルコール中毒だったため、ハリウッド郊外に住む祖父母によって育てられた。1951年に高校を卒業したカリフォルニア大学ロサンゼルス校へ進学。入学時はジャーナリズムを専攻していたが、のちに脚本家を目指すため専攻を演劇に変更した。演技の授業で高い評価を得た彼女は、徐々に女優としての道を歩み出し、卒業後はニューヨークへ渡り、クラブで踊り子などの仕事をした。それから徐々にテレビドラマなどへ出演する機会を得てからは、持ち前の笑いのセンスを活かして様々なコメディドラマやテレビ番組へ出演して人気者となる。なお、彼女が誕生したのはナッシュが「ベッド・イン・ア・カー」を発表する3年前の1933年のことで、バーネットが発した「私はナッシュの中で生を授かったの」との言葉は、彼女一流のジョークと思われる。

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著者プロフィール

山崎 龍 近影

山崎 龍

フリーライター。1973年東京生まれ。自動車雑誌編集者を経てフリーに。クルマやバイクが一応の専門だが、…