【メトロポリタンとナッシュのコンパクトカー vol. 3】

前輪までボディで覆っちゃう!? 空力を追求しすぎたエアロボディや近代的自動車用ヒーターを開発!家電メーカー社長のクルマ作り

高品質かつ高性能な中・小型車にこだわり、ユニークで個性的なクルマ作りを続けたナッシュ社の連載記事の3回目は、1937年のチャールズ・W・ナッシュの社長退任と、その後継者にジョージ・W・メイソンが就任し、彼が率いていた家電大手のケルビネーター社との合併。メイソンの経営手腕のもと様々な新技術が開発され、第二次世界大戦後には画期的な空力ボディの「エアフライト」が登場するまでを紹介する。この時代のナッシュは業績好調で、ユーザーからの支持も厚かった同社にとっての文字通りの黄金期であった。

創業社長ナッシュが引退して家電メーカー社長メイソンが後任となる

1937年、創業以来ナッシュ・モーターズのトップとして指揮を取り続けてきたチャールズ・W・ナッシュは70歳を超える高齢ということもあって、ついに社長退任を決意する。後任となったのはナッシュの年の離れた友人であり、当時のアメリカで冷蔵庫や高級キッチン器具を得意とする家電メーカーのケルビネーター社CEO兼会長のジョージ・W・メイソンが選ばれた。

彼をナッシュに推薦したのはGM時代からの旧友であったウォルター・P・クライスラーであったとも伝えられている。このオファーに当初メイソンは畑違いであること理由として固辞していたが、社長のナッシュによる粘り強い説得もあり、最終的にはナッシュ社の経営を執ること受け入れた。

チャールズ・W・ナッシュ
チャールズ・W・ナッシュ(1864年1月28日生~1948年6月6日没)
GMを辞したチャールズ・W・ナッシュは自身の自動車メーカーを設立するため、同じくGMから離れていた3代目社長のジェームズ・J・ストロー(のちにナッシュ社の会長となる)とともに高級車メーカー・パッカードの買収を試みてが失敗。その後、1916年にトーマス・B・ジェフリー・カンパニーを買収に成功し、高品質な小・中型車を得意とするナッシュ・モーターズに改組した。ナッシュは小学校すら満足に通っていない貧農出身ではあったが、勤勉実直な性格であり、大変な努力家であったことから一代でナッシュ社のオーナー社長となり、巨万の富を築くことに成功した。経営者としての彼のモットーは「顧客に支払った以上のものを提供する」というもので、それを実現するために品質向上と新技術の導入には労力を惜しまなかった。彼は「額に汗して働く労働は尊いもの」と考えており、経営者でありながら勤勉な働き者としての模範を示し、従業員にもそれに従うように求めたという。事実、彼はナッシュ社の社長就任から1925年までただの1日の休みを取ることはなかったという。ナッシュにとって仕事こそが人生そのものであり、会社は愛すべき家庭のようなものであって、従業員を自分の息子同然に思いやり慈しんだ。全従業員4500名の顔と名前をすべて覚えていることを常日頃自慢していた彼は、部下から「社長」や「Mr.ナッシュ」と呼ばれることを嫌い、自分は従業員の仲間だとして「チーフ」と呼ばれることを好んだ。彼は福利厚生にも気を遣っており、従業員の家族が病気になったと聞けば医者を手配し、クリスマスイブにはポケットマネーから従業員全員に10ドルの特別ボーナスを出したと伝えられている。しかし、その一方でナッシュの仕事に対する姿勢は大変厳しく、社長室にはラインの緊急停止を知らせる赤ランプを常備していた。工員たちはナッシュが現場に駆けつけ、叱責されることを極端に恐れていた。彼は暴力を振るうような真似はしなかったが、その口調は大変厳しいものだったのだ。ある日、赤ランプが点灯したので彼は急ぎ現場に駆けつけると、ラインが完全にストップしており、工員のひとりが事故で指を切断した痛みから泣き叫んでいた。だが、部下たちは事故のショックで彼の周りを立ち尽くすばかりだった。するとナッシュは「何をしているかっ!怪我人を早く医者に診せろ!他の者は持ち場に戻ってすぐに作業を再開したまえ!」と命じた。落ち着きを取り戻した現場監督は従業員の動揺を理由に作業の一時中断を具申するが、彼は「作業を中断してどうするのかね?怪我人は医者の元へ運んだ。キミたちが彼を心配しても何の役にも立たんだろう。それよりは納車待ちの顧客のために生産を再開する方が重要だと私は考えるがね」と答えたという。温厚で情に厚いナッシュではあったが、こと仕事に対しては冷徹な経営者としての顔も併せ持っていたのだ。また、1930年代にアメリカで労働運動が盛り上がりを見せると、これに激しく反発。会社は社長と従業員が仕事によってつながる擬似家族と考えていたナッシュにとって、労働運動は家長に対する子どもの裏切りとしか映らなかったのである。労働に喜びを感じ、弛まぬ努力によって裸一貫から大企業の経営者に上り詰めた彼にとっては、従業員が会社に不平や不満を持つ理由など想像の埒外外だったのだろう。そのようなナッシュは組合結成をけっして認めることはなく、全社員を前にして「労働組合を認めるくらいなら、工場を閉鎖して鍵をミシガン湖に投げ捨てる」と宣言したとも伝えられている。また、ナッシュは60歳を過ぎる頃から社長退任を意識し始めていたが、後継者の選出に想定以上に時間がかかり、最終的に社長の座を退いたのは彼が73歳のときのことだった。普通ならとっくに引退してもおかしくない年齢である。なぜ、退任が遅れたからかと言えば、彼が後継者に求めた基準があまりにも高すぎたことが原因だった。結局、旧友のウォルター・P・クライスラーの推薦もあって、1973年にケルビネーター社会長のジョージ・W・メイソンに後任を託して引退することにしたのだが、決断までにあまりにも時間をかけすぎた。経営を退いた彼はカリフォルニア州ビバリーヒルズで悠々自適な生活を送った。引退後は慈善活動に精力的に取り組んだが、妻の病気と死をきっかけに急速に衰え、1948年6月6日に自宅で永眠する。彼は「私が知る限り、私ほど平凡な男はいない」と常々語っていたが、GM創業者であったウィリアム・C・デュラントによる無理な拡大政策後の経営再建、無借金経営により一代でナッシュ社を有力な自動車メーカーに育て上げた功績は計り知れないものがある。常に「庶民」であることを誇りに思っていた彼の経営哲学は、借金を避け、性急な拡張を避け、ゆっくりと慎重に進むというもので、その優れた経営手腕は今日でもなお高く評価されている。

社内には自動車ビジネスの経験のないメイソンの社長就任を不安視する声も当然上がったが、それに対しナッシュは「それを言ったら私は学問の経験すらない元農夫だよ。デュラントに出会って自動車ビジネスの世界に入り、幸運にも今の地位を得たに過ぎないただの男だ。経験がないのならこれから実地で学んでいけば良いだけのことさ、私のようにね。それよりも経営者に必要なのは人間性だよ。従業員の生活を守り、顧客により良い製品を提供し、会社を成長させるためには信頼できる人間か否かが重要なのだ。もっともメイソンにはそれがあると私は信じるがね」とこともなげに答えたという。

こうしてメイソンが後継者に決まったわけであるが、ナッシュ社のトップに就任するに当たってメイソンはふたつ条件を提示した。ひとつは創業者のナッシュは大株主のひとりとしてナッシュ社の株式を保有し続け、取締役会に残り経営に一定の責任を持つこと。もうひとつは自身が経営する家電メーカーのケルビネーター社との合併だった。提示された条件に畑違いであるとして取締役会は混乱したが、社長のナッシュは即座にこの条件を承諾した。彼は困惑する重役たちを前に冷静にこう諭したとされる。

ジョージ・W・メイソン
ジョージ・W・メイソン(1891年3月12日生~1954年10月9日没)
ノースダコタ州バレーシティでノルウェー系アメリカ人の両親のもとに生まれたジョージ・W・メイソンは、ミシガン州工学部に進学。当時の同大学では3年間の工学に加えて、最終学年で経営管理を組み合わせたカリキュラムが実施されており、彼はその学位を取得した。学生時代は自動車修理工場でアルバイトし、大学卒業後はスチュードベイカー社に就職。自動車に関する基礎知識はこのときに学んだものと考えられる。その後は職を転々とし、第一次世界大戦時には軍務に服した。除隊後はウォルター・クライスラーが率いていたマックスウェル=チャルマーズ社に就職した。この会社はのちにクライスラー社に改組し、彼はそこでエンジニアとして勤務。1926年に電気冷蔵庫を主力とする家電メーカーのコープランド・プロダクツへの転職を経て、1928年にケルビネーター社の会長兼CEOに就任する。その直後にアメリカ社会は世界恐慌に見舞われるが、メイソンの卓越した経営手腕により、同社は空前の不況下にありながらも利益を4倍に増やし、フリッツデール社に次ぐ業界2位の家電メーカーへと飛躍した。ウォルター・P・クライスラーの推薦でナッシュ・モーターズの2代目社長に推挙され、チャールズ・W・ナッシュも彼のことを後継者候補として気に入ってはいたが、畑違いであること理由として当初はナッシュからのオファーを固辞したという。しかし、その後に両者からの粘り強い説得により、最終的にケルビネーター社との合併を条件にナッシュ社の経営を引き継ぐことを承諾する。ナッシュ=ケルビネーター社の社長就任後は、同社の伝統を継承しつつ「独立系メーカーが作るべきクルマとは、ビッグスリーのクルマとは違ったものでなければならない」との経営哲学から小・中型車を重視した経営戦略を採った。また、新技術の導入への積極的な姿勢も継承された。メイソンが経営権を握ってからの同社は、様々な新技術を開発していった。その中でも「ユニタイド」から始まった空力ボディは、1949年型から「エアフライト」へと進化し、1957年までの間、ナッシュ車の大きな個性となった。メイソンの経営手腕もあって1950年代前半まではナッシュ社は好調を維持していたが、以降は資本力に勝るビッグスリーの攻勢もあって成長率は鈍化し、市場シェアは下降線を描き始めた。するとメイソンは同じく独立系のハドソン・モーター・カンパニーとの協議を開始、1954年5月に両社は正式に合併してアメリカン・モーターズ・コーポレーションが成立した。彼はさらにチュードベーカー社との合併を企図していたが、同年10月9日に急性の膵炎と肺炎のため出張先のミシガン州デトロイトで急逝した。後任のジョージ・W・ロムニーはチュードベーカーとの合弁を白紙に戻したことで、中小メーカーが大同団結し、フォードを抜きGMに次ぐ業界2位の巨大メーカーへと躍り出るというメイソンの夢は実現することなく終わっている。

「諸君、たしかに自動車メーカーと家電メーカーのコラボレーションは一見すると奇異に思えるかもしれない。だが、GMはフリッジテール社を、ボルグワーナーはノルゲアプライアンス社をそれぞれ傘下に収めている。今さら言うまでもなく両者は優良な家電メーカーだ。そして、クライスラーは空調部門のエアテンプ社を運営している。おそらくは異業種同士のジョイントだからこそ、お互いに足りない部分を補い合うことで上手くやっているのではないかな? メイソンがそれを望むのなら、そうしたほうがきっと良いことなのだろう。大丈夫、この合併は上手く行くよ」。

ケルビネーター社の冷蔵庫の広告。1930年代当時、同社はGMグループ企業のフリッツデール社に次ぐ全米第2位の家電メーカーだった。

1936年11月、ナッシュ・モーターズとケルビネーター・コーポレーションは正式に合併し、ナッシュ=ケルビネーター・コーポレーションが成立。既定通り同社の初代会長兼CEOの就任したのはジョージ・W・メイソンであった。

新社長・メイソンの独立メーカーとしての矜持

新たにナッシュ=ケルビネーター社の舵取りを任されたジョージ・W・メイソンは、明るく社交的で、エネルギッシュな性格の持ち主だった。182cmにもなる高身長に加えて136kgもの体重を持つ巨漢だったが、経営センスは抜群で、その行動は機を見るに敏であった。

そして、メイソンには明確な経営哲学があった。それは「独立系メーカーが作るべきクルマとは、ビッグスリーのクルマとは違ったものでなければならない」というものであった。それに加えて顧客に対して真摯で正直なビジネス、先進技術の導入に前向きな姿勢などのナッシュが残した財産を尊重し、敬意を払うという謙虚さも兼ね備えていた。

こうしたメイソンの開明的な経営方針もあって、ケルビネーター社とのコラボはナッシュの作るクルマにすぐに良い影響を与えた。1938年にケルビネーター社が持つ技術を応用し、「コンディションド・エア・システム」と呼ばれる取り入れた外気をエンジン冷却水の廃熱を利用して任意の温度に調整するヒーターシステムの開発に成功したのだ。1939年にはこのシステムにサーモスタットを追加することで「ナッシュ・ウェザー・アイ」と称する近代的な自動車用ヒーターへと発展させたのだ。これは現代の自動車に採用されているヒーターシステムと基本原理は同じである。

1967年型AMCマーリンのエンジンルームに備えられた「ウェザーアイ」のユニット。これはナッシュ社がケルビネーター社と合併したことで、家電メーカーの持つノウハウによって開発した「コンディションド・エア・システム」をベースに、さらなる改良が加えられて誕生した近代的なヒーターシステムである。
1957年型ナッシュ・ランブラーのダッシュボード に備えられた「ウェザーアイ」の通気口とエアコントロールスイッチ。1951年型ランブラーにはGM製の「ハイドラマティック・オートマチック・トランスミッション」がオプションで採用されており、写真のクルマにも搭載されている。
「ウェザーアイ」の機能を紹介したナッシュ社の広告。

また、時を同じくしてナッシュ=ケルビネーター社は、スチュードベーカーやグラハム・ペイジとともに、エバンス・プロダクツ・カンパニー製のオートマチック・バキューム・シフトを採用している。これはエンジンからの負圧を利用して変速を行う初期のATで、フロアから伸びるシフトレバーが配され、ダッシュボードのラジオのすぐ下に小さなギアセレクトレバーが装備された。

1939年からナッシュ車に採用された空力を意識した流線型のボディは、ジョージ・ウォーカー&アソシエイツ社とフリーのカーデザイナーだったドン・モートルードによってデザインされ、ラファイエット、アンバサダー・シックスおよびエイトの3車種に採用されて好評を博すことになる。

1939年型ナッシュ・アンバサダー・エイト。空力を意識した流線形のスタイリングに、中型車600にも採用された「ユニタイド」ボディをフレームの上に載せたことにより、当時としてはトップクラスの燃費性能と耐久性の両立を実現した。また、長寿命で明るい(あくまでも当時の基準で)シールドビームヘッドランプをナッシュ社は1939年より導入している。

1941年に登場したナッシュ600は、アメリカで初の大量生産されたモノコックボディの自動車となった。ナッシュ=ケルビネーター社が「ユニタイド」と呼んだこのボディ構造は従来型のボディ・オン・フレームの乗用車に比べて軽く、車高を低くでき、空気抵抗が少なく、また当時の中型車としては珍しいことにオーバードライブを備えていたことから優れた低燃費を実現した。

1941年型ナッシュ・アンバサダー600・4ドアトランクセダン。このクルマにはフレームの上にモノコック構造の「ユニタイド」ボディを載せた堅牢で耐久性の高い設計となっていた。また、足廻りには先進的なコイルスプリングを使用した独立懸架のフロントサスペンションが備わっていた。

このことが車名の由来となっており、20ガロン(75.7L)のガソリンで600マイル(966 km)の距離を走行(燃費は11.9km/L)できることにちなむ。これは当時としてはクラス最高の燃費性能だった。また、ナッシュ600には当時としては先進的なコイルスプリングを使用した独立懸架のフロントサスペンションが採用されており、優れた走行安定性と乗り心地をもたらした。

1942年型ナッシュ・アンバサダー600。イヤーモデル製によりフロントマスクの衣装がわずかに変更されている。

なお、大型車のアンバサダーは600と同じボディを共有していたが、ホイールベースが2845mmから3073mmへと拡大した上で、従来型のフレームの上に「ユニタイド」ボディを乗せた結果、極めて堅牢で耐久性の高い設計となった。

1942年型ナッシュ・アンバサダー600の透視図。モノコックボディの「ユニタイド」とシャシーフレームを組み合わせた構造がよくわかる。

戦後型ナッシュに採用された空力ボディの「エアフライト」

第二次世界大戦による乗用車生産の中断期間を挟み、ナッシュ=ケルビネーター社は1945年10月から乗用車の生産を再開。当初は戦前型モデルの生産を行っていたが、4年近く新車の供給がストップしていたことから消費者の需要は旺盛で、戦前型の古いモデルでも注文が殺到して車種の選り好みすらできないほどだった。

そして、1948年はナッシュ=ケルビネーター社にとって激動の年となった。同年4月、のちにナッシュ=ケルビネーター社とハドソン・モーター・カー・カンパニーの合併により誕生するアメリカン・モーターズ・コーポレーション(AMC)の2代目会長兼CEOになるジョージ・ロムニーが同社のゼネラルマネージャーに就任。その2ヶ月後の6月には創業者のナッシュが他界。秋にはいよいよ待望の戦後型モデルとなる1949年型アンバサダーと600(1950年にステイツマンに改名される)が発表されたのだ。この久しぶりのニューモデルには「エアフライト」と銘打った斬新な流線型の空力ボディが採用されていた。

空力ボディの「エアフライト」を採用した戦後型ナッシュの第一弾となった1949年型アンバサダー・カスタム・4ドアセダン。前輪をボディが覆うスタイリングの「エンベロープボディ」が外観上の大きな特徴となった。

じつは合衆国政府によって乗用車の製造が禁じられた第二次世界大戦中、メイソンは戦後の乗用車市場を見据え、1939年型のナッシュで採用された空力ボディをさらに進化させるべく、主任エンジニアのニール・エリック・ウォールバーグに最新の空気力学を応用した自動車の設計を命じていた。

1951年型ナッシュ・ステイツマン・2ドアセダン。アンバサダーよりひとつ下の中型車。前年の1950年型から車名を600から改めた。

ウォールバーグの考えでは空気抵抗を減らすためには、滑らかなカタチにするとともに車体の徹底的なフラッシュサーフェイス化が必要とした。部下とともに風洞実験を繰り返した彼は、Cd値(空気抵抗係数)0.43という実験データを得たことにより自身の考えが正しいとの確証を得る。

1946年型ナッシュ600ピックアップ。戦後、ナッシュ社は中型セダンの600をベースにしたピックアップトラックを市場に投入した。派生車として木製のフレームとパネルをボディに使用したサバーバンモデルもある。

こうしてスタイリングの基本方針が決定すると、ウォールバーグはフリーのカーデザイナーだったテッド・ピエッチとボブ・コトを起用し、戦後型モデルのスタイリングを任せることにした。その結果、誕生したのがボディを前輪の上まで覆い隠した革新的なスタイリングの「エアフライト」だったのである。この前輪をボディが覆うスタイリングは「エンベロープボディ」と称し、1957年までナッシュ車の特徴となった。

ニール・エリック・ウォールバーグ
ニール・エリック・ウォールバーグ
(1885年8月20日生~1977年1月20日没)
フィンランドのカレリア地方で育ち、ヘルシンキ大学に在学中にカレリアがスウェーデン領からロシア帝国の自治領・フィンランド公国へと政治体制が変わることから1907年にスイスに亡命。そこで内燃機関を学んだのち、アメリカへと移住した。アメリカでは陸軍航空隊勤務を経て、複数の自動車メーカーを渡り歩いたのちに、オークランド・モーター・カー・カンパニー(のちのポンティアック)に就職。同社がGMに参加したことで、そのままオークランドのエンジニアとして勤務した。1916年にGM5代目社長だったチャールズ・W・ナッシュが立ち上げた自身の自動車メーカーに引き抜かれ、1952年に引退するまでナッシュ社の主任エンジニアとして活躍した。在職中、彼はOHVとゴム製のエンジンマウントを備えた近代的な6気筒エンジンの開発、「ウェザーアイ」に代表される空調システム、モノコックボディの「ユニボディ」、風洞実験の成果による「エアフライト」、人間工学に基づいて設計されたダッシュボード、市販車用シートベルトの開発と導入など、ナッシュ社に用いるさまざまな新技術の開発に貢献した。

なお、この時代のアメリカ車のトレンドはワイド&ローで、ナッシュ・アンバサダーと600もこの流行に沿っており、車内空間は先代より広くなっていた。いずれも当時最新の流行だったファストバック・スタイルだったのが特徴である。この時代のナッシュの個性となった「エアフライト」にはフェンダーアーチの切り欠きがないことからボディ剛性が高く、衝突安全性能が向上するという副次的なメリットも存在した(宣伝広告ではむしろこちらを強調した)。

だが、「エンベロープボディ」は前輪をボディが覆うことでハンドルの切れ角が制限されてしまい、競合するライバルメーカーの乗用車に比べると回転半径が大きくなるという弱点があった。国土が広いアメリカではさほど問題とはならなかったようだが、これを嫌ったライバルメーカーはナッシュ=ケルビネーター流の「エンベロープボディ」に追随することはほぼなかった。

フルフラットシートは車中泊か恋愛仕様か!? ホンダS-MXの源流はアメリカンメーカー「ナッシュ」の”ベッド・イン・ア・カー”だった!

高品質かつ高性能な中・小型車にこだわり、ユニークで個性的なクルマ作りを続けたナッシュ社の連載記事の2回目は、創業者チャールズ・W・ナッシュが1917年にトーマス・B・ジェフリー・カンパニーを買収してナッシュ・モーターズを設立したところから画期的な小型車エイジャックスの発表、高級車のナッシュ・アンバサダー・エイトの販売、そして、1936年に同社の乗用車に設定された「ベッド・イン・ア・カー」までを紹介する。「恋愛仕様」を謳い文句にホンダがリリースしたS-MXに先駆けること60年。このナッシュがユーザーに提案した「ベッド・イン・ア・カー」は、元祖「走るラブホ」として当時の若者から絶大な支持を集めた装備でもあった。 REPORT:山崎 龍

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2025年2月9日に本牧山頂公園で開催された『24th HOT ROD RAZZLE DAZZLE』の会場となった横浜市・本牧山頂公園には国内では珍しいナッシュのメトロポリタンとランブラーの姿があった。ナッシュはAMCの母体となった高品質かつ高性能な中・小型車にこだわり、ユニークで個性的なクルマ作りを続けたメーカーである。しかし、日本での知名度はあまり高くない。そこで、コンパクトカーを中心にナッシュの主要車種と歴史を解説していこうと思う。

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著者プロフィール

山崎 龍 近影

山崎 龍

フリーライター。1973年東京生まれ。自動車雑誌編集者を経てフリーに。クルマやバイクが一応の専門だが、…