【メトロポリタンとナッシュのコンパクトカー vol.1】

え!? アメリカでコンパクトカーを!? GM・フォード・クライスラーじゃないアメ車メーカーの興亡……ナッシュ?カイザー?いくつ知ってる?

2025年2月9日に本牧山頂公園で開催された『24th HOT ROD RAZZLE DAZZLE』の会場となった横浜市・本牧山頂公園には国内では珍しいナッシュのメトロポリタンとランブラーの姿があった。ナッシュはAMCの母体となった高品質かつ高性能な中・小型車にこだわり、ユニークで個性的なクルマ作りを続けたメーカーである。しかし、日本での知名度はあまり高くない。そこで、コンパクトカーを中心にナッシュの主要車種と歴史を解説していこうと思う。

ホットロッドからマッスルカーまでアメ車カスタムや国産旧車が160台!『24th HOT ROD RAZZLE DAZZLE』で見つけた気になるクルマ

MOONEYESスタッフによるカークラブ「CHOP STICKS CAR CLUB」が主催する『24th HOT ROD RAZZLE DAZZLE』が、2025年2月9日に本牧山頂公園で開催された。公共駐車場を会場としたまっとりとしたカーミーティングだったが、集まってきたHOTRODやCUSTOMマシンは超ハイレベル。今回は『HOT ROD RAZZLE DAZZLE』の様子をリポートする。 REPORT&PHOTO:山崎 龍(YAMAZAKI Ryu)

知られざるアメリカンコンパクトカーの世界

オイルショック以前のアメリカ車と言えば、全長5mを超える巨大なボディに、パワフルな大排気量V8エンジンを搭載し、重い車体に柔らかいサスペンションとフカフカの分厚いクッションのシートの組み合わせによる優れた乗り心地、ATやエアコン、パワステ、パワーウインドウなどの装備の充実によるイージードライブ化をいち早く進めたことを思い浮かべる人が多いだろう。しかし、こうしたステロタイプの大型車ばかりがアメリカ車ではない。1950年代前半、ビッグスリーを除く独立系の自動車メーカーは、ヨーロッパ製の小型大衆車に刺激を受けたこともあって、さまざまなコンパクトカーを市場に投入して世に問うていたのだ。

『24th HOT ROD RAZZLE DAZZLE』にエントリーしていたナッシュ・メトロポリタン。ナッシュとオースチンとのジョイントにより1953年に登場したサブコンパクトカーで、当時のアメリカ車としては異様に小さい。(PHOTO:山崎 龍)

1953年に成立したアイゼンハワー政権は州間高速道路の整備に力を入れたことでアメリカのモータリゼーションが加速。それに伴って「レビットタウン」に代表される郊外の住宅開発が進み、白人のヤングファミリーは都市部から移り住むようになった。郊外の住宅街は交通の便が悪く、夫の通勤用のほか、妻の買い物用にもう1台乗用車を持つことが白人中流家庭では当たり前となる。当時、彼らの間でセカンドカーとして人気だったのが、買い物や子どもの送迎、休日のレジャーに便利なステーションワゴンだったが、専業主婦や若い女性の中には、経済性と取り回しの良さからコンパクトカーを選ぶユーザーも少なくなかった。

ドワイト・デイヴィット・アイゼンハワー
(1890年10月14日生~1969年3月28日没)
アメリカの軍人・政治家。テキサスの農家の三男として生まれ、高校卒業後に陸軍士官学校に進学。第一次世界大戦ではフォックス・コナー将軍の副官としてパナマ運河防衛の任に就いた。1932年に陸軍参謀総長ダグラス・マッカーサーの副官となり、マッカーサーのフィリピン軍事顧問に就任の際に指名を受けて副官に就任。1939年までフィリピン軍の育成にあたる。第二次世界大戦の勃発後は北アフリカ方面軍司令官を経て、1943年末に連合軍最高司令官に就任。終戦直前に元帥に昇進。戦後に軍を退役すると共和党の大統領候補として当選を果たし、1953年に第34代アメリカ合衆国大統領となる。在任中は、ハンガリー動乱を静観、インドシナ戦争ではフランスの援助要請を断り、スエズ動乱でも出兵に反対するなど、一貫して米国の軍事介入を否定。そのため、当時は東側諸国に融和的だとして「愚鈍な大統領」との評価もあった。ただし、これらに米軍の介入した場合、ソ連との全面戦争に繋がる可能性も高かったことから、今日では彼の治世を再評価する動きもある。

ところが、GM・フォード・クライスラーの3社は戦後の好景気に支えられて大型車が売れていたこともあり、利幅の薄い小型車にほとんど関心がなく、ヨーロッパから輸入され始めた小型車が、東部のインテリ層を中心ににわかに脚光を集め始めても対抗措置を取ろうとはしなかった。

1956年から州間高速道路(正式名称:ドワイト・デーヴィッド・アイゼンハワー全米州間国防高速道路網)の整備が始まったこともアメリカの自動車市場が拡大した要因でもある。同時に乗用車には快適に長距離ドライブできる性能が求められた。写真はフロリダ州マイアミからメイン州ホールトンまでを結ぶ州間高速道路95号線(I-95)。

これに目をつけたのが中小の独立メーカーだった。この時期には中・大型車市場はビッグスリーの寡占化が進んでおり、資本の弱い彼らが対抗するのは次第に難しくなりつつあったのだ。だが、大手メーカーの進出がないコンパクトカー市場は未開拓の市場に思えたのだろう。生き残りのため彼らがこのジャンルに力を注ぐのは当然のことであった。

モータリゼーションの普及はアメリカ社会に大きな変革をもたらした。第二次世界大戦終結による復員兵士が結婚して家庭を持ったことにより、1940年代後半に深刻な住宅不足が発生。住宅会社社長のウィリアム・J・レビットは建築の世界にフォード流の流れ作業を取り入れることで短期・安価に住宅を建築し、販売することを思いつく。彼の会社が地価の安い郊外に住宅街を造成し、プレハブ住宅を建築して手頃な価格で売り出すと、白人のヤングファミリー(黒人の申込みは拒否され、レビット自身ユダヤ系であるにも関わらず、彼の会社はユダヤ人の客を好まなかった)を中心に申し込みが殺到した。こうして「レビットタウン」と名付けられた新興住宅街が瞬く間に全米に誕生した。これにより中流家庭の白人は郊外に移り住み、アメリカ北部にある都市部のアパートには白人住民の退去に合わせて人種差別の激しかった南部から移り住んできたアフリカ系市民が住み着くようになる(都市のスラム化)。レビットタウンは交通の便が悪い地域にあることがほとんどであったため、夫の通勤用のほか、妻の買い物用にもうセカンドカーとしてステーションワゴンやコンパクトカーを所有する生活が白人中流家庭では当たり前になり、自動車市場はさらに拡大した。なお、レビットタウンでの生活は当時の人気を博したホームドラマ『アイ・ラブ・ルーシー』や『パパは何でも知っている』などから窺い知ることができる。写真は1959年に撮影されたペンシルバニア州のレビットタウンの空撮写真。

アメリカ製小型車の先駆けとなったバンタムとクロスレー

アメリカにおけるコンパクトカーの先駆車は、のちにジープの原型となったバンタムBRCを開発したアメリカン・バンタムだった。このメーカーの前身は1929年にデラウェア州に設立されたアメリカン・オースチンで、その名の通りイギリスの小型車におけるパイオニアとなったオースチンのアメリカ現地法人だ。

この頃オースチンは大型車が主流のアメリカ市場でセカンドカー需要を狙い、自社の主力車種であったオースチン・セブンを北米で生産・販売することを企図する。その目論見が当たって市場からは好評を持って迎えられたのだが、過大な製品需要の見積もりと創業間もない時期に世界恐慌に見舞われた不運によって、多額の負債を抱えて1934年に同社は倒産してしまう。その後、ジョージア州でオースチンのディーラーを営んでいたロイ・エバンスがコンパクトカービジネスに可能性を感じて、アメリカン・オースチンの資産を買い取り、1936年に再興したのがアメリカン・バンタムであった。

1938年型アメリカン・バンタム60クーペ。前身のアメリカン・オースチン・カー・カンパニーの基本設計を引き継いでいたが、アレクシス・デ・サクノフスキー伯爵にスタイリングの変更を依頼。メカニズムはオースチンの特許権を侵害しないように改良を加えられている。

経営陣を刷新し、生産拠点をペンシルバニア州バトラーに移して心機一転再出発したアメリカン・バンタムは、1937年秋のニューヨーク・オートショーでオースチン・セブンの発展型である新型車・60シリーズを発表し、1938年から市販を開始した。しかし、エバンスの目論見は大きく外れ、ニューモデルの販売台数は計画の1/10にも届かないありさまで、同社は創業から間もなく深刻な経営不振に陥ることになる。

1940年型アメリカン・バンタム65ロードスター。アメリカン・バンタムにはトラックからウッディワゴンまで様々な派生モデルが存在したが、生産台数は全タイプ合わせて6000台ほどに留まった。

1939年にアメリカン・バンタムは画期的な小型四輪駆動車を開発。契約を獲得したことで起死回生を狙うも、陸軍は同社に必要とする規模の車両製造能力がないと判断され、設計をウィリス・オーバーランドに譲渡し、大部分の生産をウィリスとフォードに任せることになる。このアメリカ陸軍による冷徹な決定に死命を制されたアメリカン・バンタムは終戦と共に自動車製造から撤退し、1956年にアメリカン・ローリング・ミルズに買収されるまでジープ用トレーラーの専業メーカーとなった。

アメリカン・バンタムの代表作にして最高傑作の小型軍用車BRC-40。自社技術者のハロルド・クリストとフリーランスのカール・プロブストの共同開発によって誕生した。ウィリスMB/フォードGPWの開発ベースとなったが、同社には陸軍が必要とする規模の車両生産能力がないと判断し、大量発注はされなかった。

アメリカン・バンタムに続くアメリカ小型車の老舗メーカーが1939年に創業したクロスレーだ。パウエル・クロスレー・ジュニアがオハイオ州シンシナティ(工場はインディアナ州マリオン)に興したこのメーカーは、当初はアメリカン・バンタムの小型車よりも安いことを武器に拡販を図った。

コンパクトカーに特化した独立メーカーのクロスレーが製造・販売した1946年型4CC2ドアセダン。同社にとっては初の戦後型モデルで、アメリカの量産車として初めてSOHCエンジンを採用。1949年には4輪すべてにディスクブレーキを採用するなど新機軸を数多く盛り込んだ小型車だった。特徴的なスタイリングはダットサンDB5にコピーされた。

第二次世界大戦による生産中断を挟み、1948年のピーク時には2万7000台を生産したものの、新型車に搭載したべべルギアを用いる革新的かつ軽量小型の0.72L直列4気筒SOHC「コブラ」エンジンは、銅と打ち抜き鋼(つまりは板金加工で作られたパワーユニット)で製造されたことで耐久性に難があった。加えて整備性も良くないことから市場での悪評を招き、それが原因で1952年に事業停止を余儀なくされる。

クロスレーの戦後型モデルに搭載された0.72L直列4気筒SOHC「コブラ」エンジン。もともとはB-17爆撃機の発電用補助にロイド・テイラーが開発した銅と打ち抜き鋼によって製造された高効率エンジンで、戦後クロスレーが権利を買い取って乗用車用に改良した。しかし、適切なメンテナンスが受けられた軍用はともかく、不特定多数が使用する乗用車用としては耐久性と整備性に問題があり、エンジンの腐食や故障でクロスレーの評判を落とすことになる。

独立系メーカーによる1950年代前半のコンパクトカーブーム

戦前からの小型車のパイオニアが相次いでマーケットから脱落する中、1950年代前半のコンパクトカー市場は、ナッシュ 、カイザー、ウィリス、ハドソンなどの中小メーカーが担うことになる。ただし、アメリカの自動車産業にあってコンパクトカー市場はあくまでもニッチなものであり、これらすべてのメーカーが順風満帆な経営ができるほど規模は大きくはなかった。

1950年型ナッシュ・ランブラー・コンバーティブル・ランドー。当時としては革新的な高級コンパクトカーとして人気を博した。前輪をボディが覆うスタイリングは「エンベロープボディ」を採用した「エアフライト」と呼ばれる特徴的なスタイリングが、この時代のナッシュ車の特徴となる。

それというのも車体の小さなコンパクトカーとは言え、開発コストや製造コスト、広告宣伝費は中・大型車とほとんど変わりはなく、安く済むのは原材料費と輸送コストだけだった。それでいて販売価格を上げられないというジレンマがあったからだ。コンパクトカーで充分な利益を出すためには台数を売らなければならないが、ビッグスリーの中型車は量産効果により圧倒的に価格が安く、下位グレードのエントリーモデルなら中小メーカーのコンパクトカーとほとんど変わらない価格で買えたのだ。しかも、当時のアメリカではコンパクトカーのリセールバリューは低く、新車の購入から手放すまでのトータルコストで考えれば、ユーザーがコンパクトカーを積極的に選ぶモチベーションに欠けるのも致し方がないことだった。

1951年型カイザー・ヘンリーJ・2ドアセダン。「中古車しか買えない裕福でない購入者」をターゲットに、シボレー150よりも200ドル安く販売された。コスト低減のため無駄を省き、当初はトランクにリッドが切られていなかったほど。当時のアメリカの小型車としては珍しい 2.2L直列4気筒エンジンを搭載している。日本の東日本重工(のちの三菱)でもノックダウン生産された。

また、コンパクトカーの最大のメリットは経済性にあるわけだが、1950~1955年当時のアメリカにおけるガソリン平均価格は1ガロン(約3.8L)あたり27セント強(1ドル150円として現在の価値で邦貨換算すると352円≒約92.6円/L)と水よりも安いことに加え、メンテナンスコストはビッグスリーの大衆車と変わらず、販売面でたいしてアピールポイントにならなかったのだ。

1954年型ウィリス ・エアロ・イーグル2ドアハードトップ。1952年から1955年にかけてアメリカ合衆国で最初にウィリス・オーバーランド社、合併後カイザー・ウィリス社によって製造された乗用車のシリーズ。パッカードの元エンジニアだったクライド・バトンによって経済的なコンパクトカーとして設計された。1960年~1971年にかけてはブラジルで現地生産されている。

おまけにヨーロッパから輸入されたVWタイプIやシトロエン2CV、ルノー 4CV、ルノー・ドーフィンなどの小型大衆車が、小さなエンジンで効率的に走るように軽量・小型な設計がなされていたのに対し、これらのアメリカ製コンパクトカーは大型車をそのまま縮小コピーしたような作りで、車体はずっと大きく重かった。しかもその多くが独立したシャシーを持つ(=モノコックではない)コンベンショナルな設計に、2.6~3.8Lの直列6気筒エンジンを搭載していた。

1954年型ハドソン・ジェット・2ドアファミリークラブセダン。1950年に発表されたフィアット1400に刺激を受けて1953~1954年にかけて製造された3.3L直列6気筒エンジンを積むコンパクトカー。それなりにヒットしたがハドソンがナッシュと合併し、AMCの設立に伴い生産を終了した。

このようなクルマ作りでは、ビッグスリー流の豪華で贅沢な大型車に慣らされたアメリカのユーザーには訴求力が乏しく、ぎこちないスタイリング、貧弱な性能、脆弱な流通の「安物」と嘲笑されるのも致し方ないことだったのかもしれない。

中小メーカーの群雄割拠が終わりビッグスリーが本格的に参入する1960年代

だが、今も昔もアメリカの自動車市場は巨大である。1950~1954年までのコンパクトカーの総販売台数を合計すると、カイザー・ヘンリーJが12万6000台強、ハドソン・ジェットが3万5000台、ウィリス・エアロが各タイプ合わせて9万1000台、さらにナッシュ・ランブラーが14万台で、年間平均販売台数は7万7000台前後とニッチ市場とはいえ、そのパイは決して小さいものではなかった。

あるいは市場を独占できるほどの有力な1台があれば商業的には成功を収めたのかもしれない。だが、需要が4つのメーカーに分散していたため、それぞれのメーカーが充分な利益を上げるには些か足りなかったのだ。

ファルコンは1959年にフォードがリリースしたビッグスリー初のコンパクトカー。ギャラクシーの縮小版としてFRレイアウトの手堅い設計で開発されている。のちにプラットフォームや基本となるメカニズムを流用したマスタングが登場し、爆発的なヒット作となった。

その結果、ごく一部の例外を除いてこれらのアメリカ製コンパクトカーは市場から姿を消し、多くのメーカーが廃業するか、他社との合併を余儀なくされた。アメリカのユーザーが小さいことの魅力に気づき、小型車が再び脚光を集めるのは、1957年の不況を経てVWタイプIの輸入が本格化する1950年代後半になってからのことになる。

この時期に市場に投入されたフォード・ファルコン、シボレー・コルベア、プリムス・ヴァリアント、スチュードベイカー・ラークなどは比較的小さな車体を生かし、スポーティな味付けを施したことで消費者(とくに若年層のユーザー)からは概ね好意的に受け入れられた。

1960年に登場した革新的なコンパクトカーのシボレー・コルベア。GMのエド・コールにより、RRレイアウト、空冷水平対向6気筒エンジン、4輪独立懸架などの新機軸を採用した。1962年にはターボチャージャーを搭載したモンツァ・スパイダーが選べるようになり、同年デビューのオールズモビルF85とともに量産車としては世界初の市販ターボ車となった(実は一般的に世界初とされる1973年のBMW2002ターボより10年も早かった)。のちに消費者運動家のラルフ ・ネーダーが「危険な欠陥車」とのネガティブ・キャンペーンを張ったことによる影響で売上が激減した。

このような次世代のコンパクトカーは、ラークを除いてゼロから新設計され、長期にわたる生産により開発コストを賄ってお釣りが出る程度には利益をあげた。これらの新しいコンパクトカーは、充分な資金をかけ、大規模なディーラーネットワークによる販売力があってこその成功だったとも言える。

しかし、それでもビッグスリーが販売の主力としていた中・大型車に比べれば利益率は決して高いとは言えなかった。1960年代以降、ビッグスリーのコンパクトカーに対する情熱はすぐに覚めてしまい、オイルショックによるガソリン価格が高騰するまで、アメリカ市場は利益率の良い中・大型車を中心に動いて行くことになる。

ラークは独立メーカーのスチュードベイカー が1959年にリリースした同社初のコンパクトカーだ。発売初年度のボディバリエーションは、2ドアセダンとハードトップ、4ドアセダン、2ドアワゴンの計4種類で、エンジンは2.8L直列6気筒サイドバルブ「チャンピオン」と4.2LV型8気筒OHV(のちに直6はOHV化、V8は4.7Lへと排気量を拡大)を選べた。オーバーハングを削ったボディは取り回しが良く、ロングホイールベースにより小さな車体でも大人6人がゆったり乗ることができた(日欧では大型車クラスのサイズなので当たり前と言えば当たり前であるが)。派手さのないシンプルなスタイリングは保守的なユーザーから 支持され、経営が苦しくなってきたスチュードベイカー にとっては貴重なヒット作となった。

そのようなアメリカ車にあって一貫してコンパクトカー市場に注力していたのがアメリカン・モーターズ・コーポレーション(AMC)であり、その前身となるナッシュ・モーターズであった。現在の日本ではすっかり忘れ去られたメーカーではあるが、1960年代までは独自の技術とユニークな個性、チャールズ・W・ナッシュやジョージ・W・メイソンらの卓越した経営手腕でビッグスリーを向こうに回してよく善戦した。次回からはそんなナッシュの物語を紐解いて行くことにする。

フロントマスクをカスタマイズしているので一見するとわかりにくいが、『24th HOT ROD RAZZLE DAZZLE』に参加していた1955年型ナッシュ・ランブラーワゴン。国内ではなかなかお目にかかれないランブラーのコンパクトカーだ。(PHOTO:山崎 龍)

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著者プロフィール

山崎 龍 近影

山崎 龍

フリーライター。1973年東京生まれ。自動車雑誌編集者を経てフリーに。クルマやバイクが一応の専門だが、…