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知られざるアメリカンコンパクトカーの世界
オイルショック以前のアメリカ車と言えば、全長5mを超える巨大なボディに、パワフルな大排気量V8エンジンを搭載し、重い車体に柔らかいサスペンションとフカフカの分厚いクッションのシートの組み合わせによる優れた乗り心地、ATやエアコン、パワステ、パワーウインドウなどの装備の充実によるイージードライブ化をいち早く進めたことを思い浮かべる人が多いだろう。しかし、こうしたステロタイプの大型車ばかりがアメリカ車ではない。1950年代前半、ビッグスリーを除く独立系の自動車メーカーは、ヨーロッパ製の小型大衆車に刺激を受けたこともあって、さまざまなコンパクトカーを市場に投入して世に問うていたのだ。

1953年に成立したアイゼンハワー政権は州間高速道路の整備に力を入れたことでアメリカのモータリゼーションが加速。それに伴って「レビットタウン」に代表される郊外の住宅開発が進み、白人のヤングファミリーは都市部から移り住むようになった。郊外の住宅街は交通の便が悪く、夫の通勤用のほか、妻の買い物用にもう1台乗用車を持つことが白人中流家庭では当たり前となる。当時、彼らの間でセカンドカーとして人気だったのが、買い物や子どもの送迎、休日のレジャーに便利なステーションワゴンだったが、専業主婦や若い女性の中には、経済性と取り回しの良さからコンパクトカーを選ぶユーザーも少なくなかった。

(1890年10月14日生~1969年3月28日没)
アメリカの軍人・政治家。テキサスの農家の三男として生まれ、高校卒業後に陸軍士官学校に進学。第一次世界大戦ではフォックス・コナー将軍の副官としてパナマ運河防衛の任に就いた。1932年に陸軍参謀総長ダグラス・マッカーサーの副官となり、マッカーサーのフィリピン軍事顧問に就任の際に指名を受けて副官に就任。1939年までフィリピン軍の育成にあたる。第二次世界大戦の勃発後は北アフリカ方面軍司令官を経て、1943年末に連合軍最高司令官に就任。終戦直前に元帥に昇進。戦後に軍を退役すると共和党の大統領候補として当選を果たし、1953年に第34代アメリカ合衆国大統領となる。在任中は、ハンガリー動乱を静観、インドシナ戦争ではフランスの援助要請を断り、スエズ動乱でも出兵に反対するなど、一貫して米国の軍事介入を否定。そのため、当時は東側諸国に融和的だとして「愚鈍な大統領」との評価もあった。ただし、これらに米軍の介入した場合、ソ連との全面戦争に繋がる可能性も高かったことから、今日では彼の治世を再評価する動きもある。
ところが、GM・フォード・クライスラーの3社は戦後の好景気に支えられて大型車が売れていたこともあり、利幅の薄い小型車にほとんど関心がなく、ヨーロッパから輸入され始めた小型車が、東部のインテリ層を中心ににわかに脚光を集め始めても対抗措置を取ろうとはしなかった。

これに目をつけたのが中小の独立メーカーだった。この時期には中・大型車市場はビッグスリーの寡占化が進んでおり、資本の弱い彼らが対抗するのは次第に難しくなりつつあったのだ。だが、大手メーカーの進出がないコンパクトカー市場は未開拓の市場に思えたのだろう。生き残りのため彼らがこのジャンルに力を注ぐのは当然のことであった。

アメリカ製小型車の先駆けとなったバンタムとクロスレー
アメリカにおけるコンパクトカーの先駆車は、のちにジープの原型となったバンタムBRCを開発したアメリカン・バンタムだった。このメーカーの前身は1929年にデラウェア州に設立されたアメリカン・オースチンで、その名の通りイギリスの小型車におけるパイオニアとなったオースチンのアメリカ現地法人だ。
この頃オースチンは大型車が主流のアメリカ市場でセカンドカー需要を狙い、自社の主力車種であったオースチン・セブンを北米で生産・販売することを企図する。その目論見が当たって市場からは好評を持って迎えられたのだが、過大な製品需要の見積もりと創業間もない時期に世界恐慌に見舞われた不運によって、多額の負債を抱えて1934年に同社は倒産してしまう。その後、ジョージア州でオースチンのディーラーを営んでいたロイ・エバンスがコンパクトカービジネスに可能性を感じて、アメリカン・オースチンの資産を買い取り、1936年に再興したのがアメリカン・バンタムであった。

経営陣を刷新し、生産拠点をペンシルバニア州バトラーに移して心機一転再出発したアメリカン・バンタムは、1937年秋のニューヨーク・オートショーでオースチン・セブンの発展型である新型車・60シリーズを発表し、1938年から市販を開始した。しかし、エバンスの目論見は大きく外れ、ニューモデルの販売台数は計画の1/10にも届かないありさまで、同社は創業から間もなく深刻な経営不振に陥ることになる。

1939年にアメリカン・バンタムは画期的な小型四輪駆動車を開発。契約を獲得したことで起死回生を狙うも、陸軍は同社に必要とする規模の車両製造能力がないと判断され、設計をウィリス・オーバーランドに譲渡し、大部分の生産をウィリスとフォードに任せることになる。このアメリカ陸軍による冷徹な決定に死命を制されたアメリカン・バンタムは終戦と共に自動車製造から撤退し、1956年にアメリカン・ローリング・ミルズに買収されるまでジープ用トレーラーの専業メーカーとなった。

アメリカン・バンタムに続くアメリカ小型車の老舗メーカーが1939年に創業したクロスレーだ。パウエル・クロスレー・ジュニアがオハイオ州シンシナティ(工場はインディアナ州マリオン)に興したこのメーカーは、当初はアメリカン・バンタムの小型車よりも安いことを武器に拡販を図った。

第二次世界大戦による生産中断を挟み、1948年のピーク時には2万7000台を生産したものの、新型車に搭載したべべルギアを用いる革新的かつ軽量小型の0.72L直列4気筒SOHC「コブラ」エンジンは、銅と打ち抜き鋼(つまりは板金加工で作られたパワーユニット)で製造されたことで耐久性に難があった。加えて整備性も良くないことから市場での悪評を招き、それが原因で1952年に事業停止を余儀なくされる。

独立系メーカーによる1950年代前半のコンパクトカーブーム
戦前からの小型車のパイオニアが相次いでマーケットから脱落する中、1950年代前半のコンパクトカー市場は、ナッシュ 、カイザー、ウィリス、ハドソンなどの中小メーカーが担うことになる。ただし、アメリカの自動車産業にあってコンパクトカー市場はあくまでもニッチなものであり、これらすべてのメーカーが順風満帆な経営ができるほど規模は大きくはなかった。

それというのも車体の小さなコンパクトカーとは言え、開発コストや製造コスト、広告宣伝費は中・大型車とほとんど変わりはなく、安く済むのは原材料費と輸送コストだけだった。それでいて販売価格を上げられないというジレンマがあったからだ。コンパクトカーで充分な利益を出すためには台数を売らなければならないが、ビッグスリーの中型車は量産効果により圧倒的に価格が安く、下位グレードのエントリーモデルなら中小メーカーのコンパクトカーとほとんど変わらない価格で買えたのだ。しかも、当時のアメリカではコンパクトカーのリセールバリューは低く、新車の購入から手放すまでのトータルコストで考えれば、ユーザーがコンパクトカーを積極的に選ぶモチベーションに欠けるのも致し方がないことだった。

また、コンパクトカーの最大のメリットは経済性にあるわけだが、1950~1955年当時のアメリカにおけるガソリン平均価格は1ガロン(約3.8L)あたり27セント強(1ドル150円として現在の価値で邦貨換算すると352円≒約92.6円/L)と水よりも安いことに加え、メンテナンスコストはビッグスリーの大衆車と変わらず、販売面でたいしてアピールポイントにならなかったのだ。

おまけにヨーロッパから輸入されたVWタイプIやシトロエン2CV、ルノー 4CV、ルノー・ドーフィンなどの小型大衆車が、小さなエンジンで効率的に走るように軽量・小型な設計がなされていたのに対し、これらのアメリカ製コンパクトカーは大型車をそのまま縮小コピーしたような作りで、車体はずっと大きく重かった。しかもその多くが独立したシャシーを持つ(=モノコックではない)コンベンショナルな設計に、2.6~3.8Lの直列6気筒エンジンを搭載していた。

このようなクルマ作りでは、ビッグスリー流の豪華で贅沢な大型車に慣らされたアメリカのユーザーには訴求力が乏しく、ぎこちないスタイリング、貧弱な性能、脆弱な流通の「安物」と嘲笑されるのも致し方ないことだったのかもしれない。
中小メーカーの群雄割拠が終わりビッグスリーが本格的に参入する1960年代
だが、今も昔もアメリカの自動車市場は巨大である。1950~1954年までのコンパクトカーの総販売台数を合計すると、カイザー・ヘンリーJが12万6000台強、ハドソン・ジェットが3万5000台、ウィリス・エアロが各タイプ合わせて9万1000台、さらにナッシュ・ランブラーが14万台で、年間平均販売台数は7万7000台前後とニッチ市場とはいえ、そのパイは決して小さいものではなかった。
あるいは市場を独占できるほどの有力な1台があれば商業的には成功を収めたのかもしれない。だが、需要が4つのメーカーに分散していたため、それぞれのメーカーが充分な利益を上げるには些か足りなかったのだ。

その結果、ごく一部の例外を除いてこれらのアメリカ製コンパクトカーは市場から姿を消し、多くのメーカーが廃業するか、他社との合併を余儀なくされた。アメリカのユーザーが小さいことの魅力に気づき、小型車が再び脚光を集めるのは、1957年の不況を経てVWタイプIの輸入が本格化する1950年代後半になってからのことになる。
この時期に市場に投入されたフォード・ファルコン、シボレー・コルベア、プリムス・ヴァリアント、スチュードベイカー・ラークなどは比較的小さな車体を生かし、スポーティな味付けを施したことで消費者(とくに若年層のユーザー)からは概ね好意的に受け入れられた。

このような次世代のコンパクトカーは、ラークを除いてゼロから新設計され、長期にわたる生産により開発コストを賄ってお釣りが出る程度には利益をあげた。これらの新しいコンパクトカーは、充分な資金をかけ、大規模なディーラーネットワークによる販売力があってこその成功だったとも言える。
しかし、それでもビッグスリーが販売の主力としていた中・大型車に比べれば利益率は決して高いとは言えなかった。1960年代以降、ビッグスリーのコンパクトカーに対する情熱はすぐに覚めてしまい、オイルショックによるガソリン価格が高騰するまで、アメリカ市場は利益率の良い中・大型車を中心に動いて行くことになる。

そのようなアメリカ車にあって一貫してコンパクトカー市場に注力していたのがアメリカン・モーターズ・コーポレーション(AMC)であり、その前身となるナッシュ・モーターズであった。現在の日本ではすっかり忘れ去られたメーカーではあるが、1960年代までは独自の技術とユニークな個性、チャールズ・W・ナッシュやジョージ・W・メイソンらの卓越した経営手腕でビッグスリーを向こうに回してよく善戦した。次回からはそんなナッシュの物語を紐解いて行くことにする。
