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このクルマの最大の特徴は水冷4気筒2バルブDOHC排気量たったの531ccから、当時としては驚異的な最高出力44PSを絞り出すエンジンを搭載していたことですが、他にもユニークなメカニズムを持っていました。
それがリヤの駆動輪に使われたモーターサイクルのようなチェーン駆動のトレーリンクアーム式リヤサスペンションです。結果的にリヤが「加速で浮き、制動で沈む」通常とはまったく異なった姿勢変化をするクルマになりました。
このホンダS500のリヤサスペンションが今回の講義のテーマです。
ホンダS500の概要(その1)
ホンダS500(1963)です。画像のプレートには1964年と書かれていますが、おそらくこの車両の製造年ですね。実際S500の発売が開始されたのは1963年10月でした。
当初ホンダスポーツ360と名付けられ軽自動車として計画されましたが、モータリゼーション振興のための軽自動車カテゴリーにスポーツはそぐわない。したがって当時の運輸省から認可が得られないのではという思惑から、排気量を531ccに拡大、車体も大きくしS500として発売されました。
なお、同時期に発売された軽トラックのホンダ T360はスポーツ360のエンジンをデチューンして搭載していました。
ホンダS500の概要(その2)
フロントの車軸よりエンジン前端が後にある典型的なフロントミッドシップ。2名乗車時の前後荷重配分はフロント51.8%、リヤ48.2%と理想的です。重心高も435mmと現代の基準で比べても驚異の低重心でした。
ブリティッシュ・ライトウェイト・スポーツの文法にのっとったクラシックで美しいプロポーションとスタイルです。
ホンダS500の概要(その3)
S500のシャシーです。エンジン前端が前車軸付近あることがよくわかります。車体骨格はモノコックではなくラダー(梯子型)フレーム。トラックのようなラダーフレームは古臭く思えますがオープンを前提にした場合、当時の技術ではこの方が合理的でした。
トランクスペースに追記した赤い円はスペアタイヤです。トレーリングアーム式のサスペンションの特性を生かした賢いパッケージングです。単純なリヤリジッドアクスルにするとリヤオーバーハングを大きくして無用に全長を長くするか、アクスルハウジングの上に重ねるようにスペアタイヤを置いた場合はトランクスペースの天地が大幅に減っていたはずです。
ホンダS500の概要(その4)
今回のテーマであるリヤサスペンションを車両下方から覗き込んだ画像です。タイヤ内側の左右のアルミ部品がトレーリングアーム。思い切り前に倒されたコイル/ダンパーユニットで支えられています。中央奥に白っぽく見えるのがディファレンシャルギヤハウジンクで、左右のチューブ両端がトレーリングアームのピボットを兼ねています。
手前の大きな黒い部分が車体のスペアタイヤハウス。前方のフロアの一般面とほぼ同じ高さになっていて低くレイアウトされていることがわかります。
ホンダS500 リヤサスペンションの構成
それではホンダS500のリヤサスペンションの構成について解説します。
車両の基本構成はフロントエンジン・リヤドライブで、エンジン・トランスミッションからプロペラシャフトを経由してディファレンシャルギヤボックスに入り、減速され向きを90°変えます。
通常のリジッドアクスルであればアクスルハウジングがサスペンションで支えられ両端にタイヤが取り付けられるのですが、S500はハウジングが車体フレームに固定されています。
ハウジングの両端がトレーリングアームの支点になっていて、そこからトレーリングアームに内蔵されたドライブチェーンでアクスルを駆動します。
ホンダS500 ドライブチェーンケースの内部構造
これがトレーリングアームを兼ねるドライブチェーンケースの内部構造です。
デファレンシャルギヤボックスで向きを変えられ左右に振り分けられたドライブシャフトが両端のドライブ(駆動)スプロケット(歯数15枚)を回転させます。その回転はドライブチェーンを通してドリブン(被駆動)スプロケット(歯数28枚)を回転させます(この図は車両の左側が描かれているので注意)。
この歯数の違いで減速しギヤ比はスプロケットの歯数の比になります。チェーンによる2次減速比は28/15=1.867で、デファレンシャルギヤボックスでの1次減速比41/13=3.154とあわせて総減速比5.887になります。
現代の基準からするとずいぶん大きい減速比ですが最高出力回転数8500rpmで大きな直径のタイヤを回し、130km/h以上出すための駆動力を得るためには必要な減速比でした。
チェーンは経時劣化で伸びてしまうので、それを外部から調整できる張り調整用テンショナーが下側のチェーンに、高速回転時にチェーンが振動してチェーンがケースに当たらないように振れ止め用アイドラーが上側のチェーンに取り付けられています。
ホンダS500 リヤサスペンションジオメトリー(その1)
S500のチェーン駆動によるユニークなサスペンションジオメトリーを解説します。
このサスペンションはチェーンとスプロケットがアルミケースに内蔵されていることを除けば、機構的にはモーターサイクルのチェーンドライブのスイングアームと同じです。
モーターサイクルとも共通していることですが、車両側面視でのスピンドル(タイヤの中心部)の上下方向の動きはトレーリングアームのピボットまわりの回転運動(橙色の両矢印)になります。しかしタイヤ接地点の動きは加わる力の種類によって変化します。
簡単な方からいうと、フットブレーキで制動する場合はスピンドルと同じトレーリングアームのピボットまわりの回転運動(赤い両矢印)です。ブレーキが掛けられている場合、トレーリングアームとタイヤは一体のものであると考えて差し支えありません。
複雑な動きになるのが加速時です。タイヤを回転中心で支えているスピンドルはトレーリングアームピボットまわりの回転運動ですが、タイヤは回転することができ、張り側のドライブチェーンで動きを規制されます。この時アッパーチェーンはサスペンションのリンクと同じはたらきをするので、結果的にトレーリングアームとアッパーチェーンの延長線の交点が加速時の瞬間中心になります。つまり加速時のタイヤ接地点はこの瞬間中心を中心に回転運動(水色の両矢印)します。
ちなみにエンジンブレーキを掛けた場合はトレーリングアームとロアチェーンの交点が瞬間中心になるのですが、S500の場合ドライブチェーンスプロケットとトレーリングアームの回転中心が同軸なので、エンブレ時の瞬間中心と加速時の瞬間中心は一致しています。
ホンダS500 リヤサスペンションジオメトリー(その2)
前の図を立体的に表現したものです。チェーンが内蔵されたトレーリングアームとタイヤはオフセットしていますが後車軸に対して回転軸が平行なのでタイヤ接地点も全く同じ動きになることがわかります。
チェーンがトレーリングアームに内蔵されているのでスクーターに多い「ユニットスイング式」と同じだと思われるかも知れませんが、S500のリヤサスペンションは異なります。ユニットスイング式はエンジンやクラッチ、変速機までスイング(トレーリング)アームと一体で動きますが、S500はドライブスプロケットまでは車体側に支持されているからです。これはエンジンが車体に固定されているチェーン駆動のモーターサイクルと同じです。
ホンダS500 制動時の力の釣り合い
それでは車両全体の力の釣り合いと姿勢変化を考えましょう。
まず制動時の力の釣り合いです。ブレーキペダルを踏むと前後タイヤと路面の間に制動力が生じます。これはある割合で配分されるのですが、今回はフロント70%、リヤ30%で配分されると仮定します。
一方車体の重心には制動力の反力である前向きの慣性力が生じます。ブレーキを掛けるとドライバーの体にも前につんのめりますが、同じように車体にも前向きの力が生じます。これを慣性力といいます。
慣性力はタイヤと路面で生じる前後制動力の合計と大きさが同じで向きが逆の力になります。制動力が働く路面と慣性力が働く重心は上下に重心高さ分だけずれているので、それを釣り合わせるように後輪から前輪へと荷重移動します。
タイヤと路面にはたらく前後の制動力と荷重移動、重心にはたらく慣性力は上下は重心の高さで前後位置がホイールベースをブレーキ配分の比に分けたところ、図の「制動力の合力点」で一点に交わり釣り合います。
前後タイヤの接地点と制動力の合力点を結ぶ三角形は制動力配分によって変わります。制動力配分が50:50であれば合力点はホイールベースの中央で二等辺三角形に、フロントだけあるいはリヤだけにブレーキをかけると制動力の合力点はリヤタイヤあるいはフロントタイヤの真上になって直角三角形になります。
クルマは自動的に前後配分されてしまうので意識することはありませんが、モーターサイクルの場合はライダーがコントロールするので意識しやすいですね。
ホンダS500加速時の力の釣り合い
次は加速時の力の釣り合いです。アクセルペダルを踏むとタイヤと路面の間に駆動力が生じます。S500のような後輪駆動車であれば駆動力は100%リヤに加わります。ちなみに前輪駆動ならフロント100%、4輪駆動ならその時の前後駆動力で配分されます。
一方車体の重心には駆動力の反力である後ろ向きの慣性力が生じます。アクセルを踏むとドライバーの体がシートに押し付けられますが、同じように車体にも後向きの力が生じます。これが慣性力です。
慣性力は駆動力と大きさが同じで向きが逆の力になります。駆動力が働く路面と重心は上下に重心の高さ分だけずれているので、それを釣り合わせるように前輪から後輪へと荷重移動します。
駆動力と前後タイヤ接地点での荷重移動、重心にはたらく慣性力は上下は重心の高さでフロントタイヤの真上にある「駆動力の合力点」で一点に交わり釣り合います。
前後タイヤの接地点と駆動力の合力点を結ぶ三角形は直角三角形になります。
ちなみに前輪駆動なら駆動力の合力点はリヤタイヤの真上の直角三角形、4輪駆動で駆動力配分が50:50であれば二等辺三角形になります。
ホンダS500 制動時の姿勢変化
前後のタイヤ接地点と制動力の合力点を結ぶ三角形の斜辺の傾きは、じつはアンチダイブ率/アンチリフト率100%のラインを表しています。この線上にサスペンションの瞬間中心があると制動時に姿勢変化が全くおきません。
このラインより瞬間中心が下側にあるとアンチダイブ率/アンチリフト率が0-100%、路面にあると0%、路面より下にあるとマイナス(荷重移動よりも大袈裟に姿勢変化する)になります。
ではこの100%ラインより上に瞬間中心があるとどうなるのでしょう? アンチダイブ率/アンチリフト率が100%を超え、荷重移動とは逆の姿勢変化をします。フロントであれば制動時に持ち上がり、リヤであれば制動時に沈み込みます。
ホンダS500のリヤサスがまさにこの例で、接地点とトレーリングアームの回転中心を結んだ線はアンチリフト率100%ラインの上にあり、制動力の前後配分を70:30にした場合、アンチリフト高さ595mm、アンチリフト率137%になります。
アンチリフト高さ(ALH)の作図は制動力の合力点を通る垂直線と、リヤタイヤの接地点とトレーリングアームの回転中心を結んで延長した線の交点の路面からの高さです。
アンチリフト率(ALR)はアンチリフト高さ(ALH)を重心高(CGH)で割って百分率で表したものです。この137%というのは、荷重移動で生じるリヤが持ち上がる自然な姿勢変化に対して、その大きさの37%分だけ、逆にリヤサスが縮んでリヤが沈むという特殊な挙動を示しています。
ブレーキ時にリヤサスペンションが縮んで車体が沈むというのは好ましい現象ではありません。軽くブレーキを掛けるだけならいいのですが、限界に近いブレーキングではリヤ荷重が抜けてスリップしてしまう可能性があります。現代のクルマであればアンチリフト率は必ず100%以下に設定します。
ホンダS500 加速時の姿勢変化(その1)
後輪駆動車の場合、駆動力と前後タイヤでの荷重移動、重心にはたらく慣性力は重心の高さで、フロントタイヤの真上にある「駆動力の合力点」で一点に交わり釣り合います。図のように、この合力点と底辺がホイールベース間の路面で直角三角形が描けます。
じつはこの直角三角形の斜辺がアンチスクォート率100%のラインを表しています。この線上にサスペンションの瞬間中心があると加速時にまったく姿勢変化しないのです。
このラインより瞬間中心が下側にあるとアンチスクォート率が0-100%の間に、路面にあると0%、路面よりさらに下にあるとアンチスクォート率がマイナス(荷重移動よりも大袈裟に姿勢変化する)になります。
ではこの100%ラインより上に瞬間中心があるとどうなるのでしょう? アンチスクォート率が100%を超え、荷重移動とは逆の姿勢変化をします。つまり加速時にはリヤ荷重が増えるにもかかわらず加速時に持ち上がってしまいます。
ホンダS500のリヤサスがまさにこの例です。前に説明しましたが、加速時の瞬間中心はトレーリングアームとアッパーチェーンの延長線の交点になります。
アンチスクォート高さ(ASH)は、前輪の中心を通る垂直線と、リヤタイヤの接地点から加速時の瞬間中心を結ぶ延長線の交点の路面からの高さです。アンチスクォート率(ASR)はアンチスクォート高さ(ASH)を重心高(CGH)で割って百分率で表したものです。
ホンダS500のアンチスクォート率の231%というのは、加速時の荷重移動でリヤが沈み込むという自然な姿勢変化に対して、131%に相当する分も逆にリヤサスが伸びてリヤが浮き上がるという特殊な挙動を表しています。
100%を超えるアンチスクワット率も問題です。ましてや231%というのはかなり異常。加速した瞬間は後輪荷重が上乗せされ、グリップが増加するのですが、次の瞬間その反動で荷重が抜けてしまいます。場合によってはグリップ~スリップをくり返して不安定になることもあります。現代のクルマでは必ず100%以下、モーターサイクルでも100%前後に設定しています。
ホンダS500 加速時の姿勢変化(その2)
ここまでの解説で「リヤがチェーンドライブのトレーリングアームだったからリヤが浮くようになったのですね!」と思われた方も多いでしょうが、必ずしもそうではないのです。
たとえばこの図のようにドライブスプロケットとドリブンスプロケットが同じ直径、同じ歯数で2次減速がなかったと仮定した場合、加速時の瞬間中心はトレーリングアームの傾きの無限遠方になります。タイヤ接地点の動きも全く同じとなって、作図するとアンチスクォート高さ(ASH)140mm、アンチスクォート率32%と至ってノーマルな値になってしまいます。この値は加速時のリヤ沈み込みが32%(おおよそ1/3)ほど少なくなるということです。
さらにありえない話だとは思いますが、チェーンで逆に増速していたらアンチスクォート率がマイナスになり大袈裟にリヤを沈ませて加速したはずです。
したがって、ホンダS500が特異な加速姿勢になった本当の理由は「チェーンで2次減速しちゃったから」です。
ではなぜ、わざわざチェーンで2次減速したのでしょうか? 答えは意外と簡単です。ギヤ比が5.887なんて大きな減速比のファイナルドライブは当時の加工機ではつくれなかったのです。
当時の状況を想像すると…
「2段で減速するしかない!」と決まったら、そこからはホンダイズムの本領発揮!
「これならバイクと同じスイングアーム式のサスで独懸にできるぞ!」
「そうだこのサスの間にスペアタイヤを置けばトランクが広くできる!」
「加減速でリヤの動きが変です!」「問題ない!オレが責任を取る!」
本田宗一郎とエンジニア達のワイガヤで今の形になっていったのだと想像します。
…エンジニアにとって、つくづくいい時代だったなぁ…とうらやましく思います。