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300キロオーバーを記録した12日後、彼はこの世を去った…
フルチューンのパンテーラが歴史の動かした!
1981年11月17日、日本自動車研究所・通称:谷田部の高速周回路。ここに、81年を締めくくるべく日本を代表するチューンドマシン16台が集結し、最高速計測会が開催された。そしてこの日、日本のチューニング史が大きく動いた。
チューニング技術がまだ未熟だったあの頃、誰が最初に300km/hを叩き出すのか?とライバル同士が熱くなっていたが、ついに夢の300km/hオーバーマシンが誕生したのである。
ゲーリー・アラン・光永氏オーナーの深紅のパンテーラ。「光永パンテーラ」の名は、往年のクルマ好きならば一度は耳にしたことがあるのではないだろうか。それほど、この時代のオーバー300km/hは大ニュースだったのだ。
では、その伝説誕生の瞬間を振り返っていこう。
フェラーリBBより速い!空前絶後の300km/hオーバー!
ドライバー:高橋国光
最高速計測で、307.69km/hという驚異的なこの記録は、OPTION計測での歴代1位(当時)であるだけでなく、記憶する限り、谷田部におけるストリートバージョンとしてのベストだ。この部門での最高記録は、4年前(1977年)にフェラーリBBにおける筆者(=望月修氏)自身がマークした、277.99km/hがレコードであったが、これがあっさりと29km/hもオーバーされたわけである。
オーナーの光永氏が入念に時間と手間をかけただけあって、そのチューニング内容は素晴らしく、大記録樹立も当然、という感がある。
エンジンはシボレーLS7。これにCAN-AM用、NASCAR用、その他のレース用パーツを数多く組み込み、全体として極めてバランスよくチューニングされている。
チューニング&テストランの過程で、何回かのトラブルを経験しており、目標パワー680psをかなり下回った状態での出走ということであったが、ビッグV8の威力はいかんなく発揮された。
谷田部はバンク内で強い走行抵抗がかかり、その上で、ストレートは約1200mとそう長くはない。この条件下で300km/hオーバーは立派である。もし、5〜6kmのストレートを駆け抜ければ320km/hあたりをマークするのではなかろうか。
このクルマのハンドルを握った、高橋国光選手の話によると、ストレート後半では多少、浮き気味であった、とのこと。したがって、残された課題として、空力対策ということになろうか。スポイラー、ウイングなどをうまく活用すれば、リフト減少と同時に空気抵抗も小さく押さえることが可能であり、谷田部での310km/h突破も夢ではなかったのだが…。
「光永パンテーラSPL.」オーバー300km/hのメカニズム
307.69km/hという不滅の大記録をマークしたパンテーラは、オーナーのゲーリー・アラン・光永氏が1年もの時間を費やして作り上げた、スーパーマシンだ。マシンはシャシーNo.0009、つまり9台めに製作された1971年型だ。
エンジンはシボレーLS7ハイパフォーマンス。排気量467CID(7654cc)V8。Dポート付アルミヘッド、ハンク・ザ・クランク製クロモリ・クランク、カレロ鍛造コンロッド、BRCピストン、ローラーカム/ロッカーホーリー850cfmダブル・ポンプ・キャブレター、ホーリー・ストリップドミネーター・ミッドライズドin.マニホールドなどを備える。ソニック・テスト済ブロックやタフトライド処理の施されたパーツで、耐久性は抜群となっている。
パワーはテスト時600bhp(SAE・gloss)。ボディ重量は1300kgと軽量なので、パワーウエイトレシオは2.24と、究極的な値を示す。
サスペンションはGT4そのもの。KONIのダブル・アジャスタブル・ショック、ウレタンブッシュをもつ高度なものだ。ブレーキはハースト・エアハード製ベンチレーテッド・ディスク。
600psのパワーは、ZF5DSトランスアクスルと、強化型ダブルフック・ハーフシャフトに、余すところなく伝えられる。このパワーを支えるのは、ピレリP7。225/50VR15と285/40VR15のハイグレードタイヤと、ゴッティの3ピースホイールだ。最高速トライ時には、同じゴッティの10J-16、14J-19ホイールに、レーシングを装備。テストコースの走行に備えていた。
光永氏は、このマシンの目標を200mph(322km/h)に定めていたという。酷いウエット路面でのゼロヨントライでは、12.54秒という記録を持っている。ドライならば、おそらく10秒台をマークする可能性を秘めたマシンだ。
まさかの結末
望月氏のレポートにもあるように、この時の光永パンテーラは万全の状態ではなかった。前日までABR細木エンジニアリング・細木勝氏が組み上げ作業をし、テスト走行は1度のみ。本来ならば、更に記録を塗り替えるべく谷田部テストに再登場するマシンだったはずなのだが…。
この307.69km/h達成の紹介記事が載った翌月のOPTION誌(1982年3月号)で、まさか光永氏の訃報をお伝えすることになるなど、誰が予想できただろうか。
伝説の真紅のパンテーラと共に・・・【OPTION誌1982年3月号より】
OPTIONの読者ならずとも、カーマニアならご存知かもしれない。本誌OPTの82年2月号、谷田部最高速トライアルで、市販車では前人未到の307.69km/hという記録を打ち立てた、パンテーラSPLのゲーリー・A・光永氏が自動車事故で他界された。それも、あの最速パンテーラを運転中に、である。
光永氏が自他ともに認めるカーマニアだったことは、言うまでもない。パンテーラも82年2月号で紹介したとおり、1年以上をかけてコツコツと仕上げた意欲作だ。600ps以上という、シボレーLS7のチューン度や、ボディ補強、F1を思わせるブレーキ関係の仕上がり…。オーバー300km/hは、出るべくして出た、とも言えるが、未だに信じられないような記録だった。
生前、光永氏が「長いカー人生の中で、1番嬉しいことだよ。僕のマシンが日本一になったんだからね。でも、目標は200マイル、320km/hだよ!」と語っていたことを思い出す。
OPTIONとしては、哀悼を表する意味で、幻のマシンとなった、あの真紅のパンテーラに、今月の表紙を飾ってもらうことにした。
光永氏の冥福を祈りたい。
終わりに
307.69km/hを記録した12日後、雑誌の取材帰りにパンテーラをドライブしていた光永氏は、そのパンテーラで事故を起こし、他界してしまったのだ。
ただ、誤解の無いように記させていただくと、パンテーラをドライブ中に…とあるが、決して最高速アタック中に事故が起きたのではない。帰宅中、自宅まであとからわずかという一般道で起こった悲劇だった。当時のニュースでは「暴走車が」や「違法改造車が」など散々バッシングされた。しかし、その真実は、誰もが遭遇しかねない、不幸な交通事故だったということを覚えておいてほしい。[OPTION 1982年2月号/3月号より]