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ホンダ ドリームCB750FOURレーサー(1972年/昭和47年)
1972年 デイトナ200マイルレース出場車(♯10) ライダー:ゲーリー・フィッシャー
量産オートバイで世界初のオーバー200㎞/hを可能にした、1969年(昭和44年)誕生のホンダ ドリームCB750FOUR。エンジンは空冷4ストローク直列4気筒SOHC 2バルブ。排気量は736cc。ボア径xストローク長はΦ61.0mmx63.0mmのロングストロークに設定。最高出力は67馬力を発生した。
写真の黄色いマシンは、アメリカのペンシルベニア州にあるアメリカン・ホンダのディーラー「クラウスホンダ」からの依頼を受け、当時のヨシムラジャパンがチューニングを施した、ロケットカウルやシングルシート装備のレース仕様車。ベースマシンはホンダ ドリームCB750FOUR。
空冷4ストローク直列4気筒SOHC 2バルブ、排気量736ccのエンジンは、レギュレーションに合わせて750cc限界の748.6ccにスープアップ。またハイカムシャフト、強化バルブスプリング、軽量クランクシャフト、ポート研磨、シリンダーヘッド1㎜面研による圧縮比アップ、CRレーシングキャブレター、5速クロスミッションなどでチューニング。
最大のポイントは、バイク初となる4into 1のエキゾーストパイプ。つまり集合マフラーを装着していること。この集合マフラーはヨシムラジャパンの創設者であり“ゴッドハンド”とも呼ばれたポップ吉村氏が発案し、開発・製作したもの。集合管の装着に加え、徹底した各部の軽量化により(細部を削りに削った)、車体重量はノーマルの235kgから、驚愕の160kgまで軽減。何と75kgもの軽量化を実現している。
これらにより最高出力はノーマルの67ps/8000rpmから、97ps以上/9500rpmへと約30馬力のパワーアップを実現。最高出力回転数は1500rpm上昇させるなど、完璧なるレーシングエンジンにチューニング。最高速度は230km/hオーバーを記録した。
当時多くのメーカー関係者は集合マフラーに対し、「理論的な裏付けがない」、「排気がスムーズでない」として否定的な見方をしていた。そのため1気筒毎に排気させる、1気筒=1本の独立マフラーが主流だった(4気筒は4本出しマフラー。2気筒は2本出しマフラー)。
しかしデイトナ200マイルレースなど、アメリカのレースシーンでは、集合管を装備したヨシムラチューンによる写真のホンダCB750FOUR改が大活躍。多くのパーツメーカーがこぞって集合マフラーをリリースし、国内では1974年(昭和49年)、ホンダCB400FOURに量産車初の集合マフラーが採用された。
極東の見知らぬニッポン人がチューニングした4スト4気筒車の“予想外”の速さに加え、これまで聞いたことのないアグレッシブで迫力のある4スト4気筒の集合管サウンドに、多くの人々が魅了。小さな町工場だった日本のバイクチューニングメーカー・ヨシムラの名は国内だけでなく、米国でも知れ渡り、“世界のヨシムラジャパン”に飛躍する大きなきっかけとなった。
ポップ吉村氏のヒストリーは、NHKの人気テレビ番組「プロジェクトX・第141回(2004年4月13日放送)」において、『不屈の町工場・走れ・魂のバイク・本田宗一郎をうならせた伝説の技術者』のタイトルでも放映され、話題を呼んだ。
スズキ GSX-R750レーサー(1986年/昭和61年)
1986年 デイトナ200マイルレース出場車(♯604) ライダー:辻本 聡
1986年のデイトナ200マイルレースに出場した、ヨシムラジャパンのワークスマシン「ヨシムラスズキGSX-R750」。ゼッケン♯604のライダーは、1985年に全日本TT-F1チャンピオンに輝いた、「デイトナ200マイルレースが目標だった」という辻本聡。
マフラーは新技術としてもアメリカで公開された、デュプックス・ヨシムラサイクロンマフラーを装着。1986年のデイトナ200マイルレースには、当時最強の世界GP500ライダーだったエディ・ローソン(※注1)も出場して話題となった。
注1:エディ・ローソンはバイクレースの最高峰「世界GP500ccクラス」でも大活躍したアメリカ人のロードレーサー。世界GP500ccクラスでは1984年、1986年、1988年、1989年にシリーズチャンピオンを獲得。漫画「バリバリ伝説」にも主人公・巨摩郡のライバルとして登場した。
スズキ GSX-R750レーサー(1986年/昭和61年) 鈴鹿8耐仕様
鈴鹿8時間耐久レース出場車(♯12) 3位入賞 ライダー:辻本 聡/ケビン・シュワンツ
写真は空前のバイクブームに沸く1986年(昭和61年)、鈴鹿8時間耐久レースに出場したヨシムラジャパンのワークスマシン「ヨシムラスズキGSX-R750 鈴鹿8耐仕様」。べース車両は当時「国内におけるスズキのフラッグシップモデル」だった、空油冷式4ストローク4気筒DOHC 4バルブ749ccエンジン搭載のGSX-R750。ヨシムラスズキGSX-R750 鈴鹿8耐仕様の排気量は当時のレギュレーションに合わせ、756.1ccにボアアップされた。
1986年の8耐仕様は、ブルーの右1灯式ヘッドライトが特徴。またフルカウルではなくアンダーカウルのないハーフカウルを装備。カウルはヨシムラ400/750トルネードやボンネビルにも装着された小型タイプとなり、スクリーンも低めのものが採用された。
ホンダやヤマハなどの主要ワークスマシン(水冷式エンジン搭載)がフルカウルを装着する中、「ヨシムラスズキGSX-R750 鈴鹿8耐仕様」はハーフカウルを採用。理由の一つは、ライバルの水冷式エンジン搭載車に比べ、空油冷式の「ヨシムラスズキGSX-R750 鈴鹿8耐仕様」は、過酷ともいえる真夏の鈴鹿の蒸し暑さによって熱ダレしてパワーダウンしたこと。その結果、限界までエンジンに走行風を当て、熱ダレを解消する作戦だったともいわれる。
デュプックス・ヨシムラサイクロンマフラーのエキパイはチタン製で、サイレンサーはアルミ製。キャブレターはヨシムラミクニTM-MKNΦ38のマグネシウム製(フラットバルブの強制開閉式/デイトナ200マイルレース出場車のΦ36mmからΦ38mmに拡大)。ホイールは前後17インチの同径。タイヤは前後とも17インチのミシュラン製とし、サイズはF120/60-17・R180/60-17をチョイス。
1986年の鈴鹿8時間耐久レースでは辻本 聡/ケビン・シュワンツのペアにより、3位を獲得した。