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ローソン、シュワンツ、ガードナーらとの激闘で一時代を築く
WGP(ロードレース世界選手権)3連覇という輝かしい戦歴を誇るウェイン・レイニー。1960年、アメリカ・ロサンゼルス州のダウニーで生まれたレイニーは、幼い頃からダートトラックで腕を磨いた。
1982年にはロードレースに転向し、カワサキのファクトリーチームと契約。すでに全米チャンピオンの座についていたエディ・ローソンのチームメイトとしてAMAスーパーバイク選手権への参戦を開始した。翌年、ローソンはWGPへと転向。チームメイトはウェス・クーリーに変わったが、レイニーは見事にチャンピオンを獲得してみせた。
しかし、カワサキはその年限りでAMAスーパーバイクから撤退。行き場を失ったレイニーに手を差し伸べたのは、1983年にライダーを引退したケニー・ロバーツだった。ロバーツは250ccクラスのGPチームを結成し、そのライダーにレイニーを抜擢したのだ。
期せずしてグランプリサーカスの一員となったレイニーは、ヨーロッパ式の押し掛けスタートに慣れず出遅れることが多かったが、大器の片鱗を発揮。コースレコードとポールポジションを一度ずつ獲得し、ミサノ(イタリア)では表彰台に立つ活躍を見せた。しかし、本人にとっては不本意な成績だったようで、レイニーは翌年のGP参戦のオファーを断り、もう一度アメリカに戻って経験を積むことを決断したのだった。
母国でのレース活動を再開したレイニーは、1986年からホンダと契約してAMAスーパーバイク選手権を戦うことに。1987年にはチャンピオンに返り咲いた。
機は熟した。1988年からレイニーはWGPにカムバック。チーム・ロバーツからラッキーストライクカラーのヤマハYZR500で参戦したレイニーは、7回の表彰台(そのうち優勝1回)を獲得。GP500のルーキーイヤーながら、ランキング3位という見事なリザルトを残した。
いよいよタイトルを目指して臨んだ1989年は、3勝を挙げてチャンピオン争いに絡んだものの、終盤のスウェーデンで転倒。エディ・ローソンが4度目の王者に輝くのを横目で眺めながら、雪辱を誓った。
そして迎えた1990年は、レイニー時代の幕開けとなった。マールボロカラーに衣替えした90年型YZR500(OWC1)のポテンシャルも高く、15戦のうち7勝、表彰台を逃したのはわずか1戦という圧勝ぶり。強さと安定感の両方を身につけたレイニーに敵はいなかった。
1991年はホンダの新エース、ミック・ドゥーハンにタイトル争いをリードされる場面もあったが、最終的には3勝を挙げて逆転。連覇に成功した。
1992年は、画期的な同爆エンジンを得たドゥーハンが開幕ダッシュ。前半の7戦中5勝を挙げて圧倒的リードを築いたが、アッセンの転倒で右足を骨折したことで潮目が変わった。レイニーはそこから猛反撃を開始し、最終的には4ポイント差でロバーツ以来の3連覇を果たした。
もし不運なアクシデントがなければ、1993年もレイニーがタイトルを制していたかもしれない。序盤こそYZR500の車体に悩まされ、ライバルのシュワンツに28ポイントの大量リードを奪われていたレイニーだが、シーズン途中には市販のROCフレームに換装するなどなりふり構わぬ改良を実施。12戦目を迎えた時点では、ついにシュワンツを逆転してポイントリーダーの座にいたのだから。
しかし、運命のミサノでレイニーは激しく転倒。その瞬間、4連覇の夢もライダーとしてのキャリアにも終止符が打たれることとなったのだった。
写真:磯部孝夫(いそべ・たかお)
1949年生まれ。山梨県出身。東京写真専門学校(現東京ビジュアルアーツ)を卒業後、アシスタントを経て独立。1978年から鈴鹿8耐、83年からWGPの撮影を開始。また、マン島TTレースには30年近く通い続けたほか、デイトナ200マイルレースも81年に初めて撮影して以来、幾度も足を運んでいる。