ポルシェ、BMW、メルセデス・ベンツなどが参加する自動運転の最前線

ポルシェが推進する効率的なAI学習「AI デルタ・ラーニング・リサーチ・プロジェクト」とは?

いかにして効率的にAIに学習させるか、自動車メーカーを跨いで研究が続く「AI デルタ・ラーニング・リサーチ・プロジェクト」
「AI デルタ・ラーニング・リサーチ・プロジェクト」のイメージ
自動車に搭載されているAIのニュートラルネットワークは、使用環境やセンサー技術が変わると、幾度となくゼロから学習することを余儀なくされる。現在、自動車業界全体が進めている「AI デルタ・ラーニング・リサーチ・プロジェクト(AI Delta Learning research project)」は、この問題を解決し、その労力を大幅に削減することを目的としている。

自動運転車両のAIに「違い」を認識させるには?

いかにして効率的にAIに学習させるか、自動車メーカーを跨いで研究が続く「AI デルタ・ラーニング・リサーチ・プロジェクト」
同じ一時停止のサインでも、国が変われば表示手段が変わる。人間であれば、容易に対応できるが、AIでは、そうはいかないという。

例えば「一時停止」の標識は、ドイツでは赤色で八角形、中央に「STOP」の文字がある。日本では三角形に日本語で「止まれ」が加えられ、中国では漢字一文字の「停」を使用、アルジェリアでは手を挙げたイラストが使われるなど様々な例外がある。海外で運転するドライバーの多くは、この小さな違いに問題を感じることはないが、自動運転車両に搭載されている人工知能(AI)は、このような違いを処理できず、改めて再教育する必要があるという。

刻々と変化する事象への対応には多くの時間と人的コストがかかり、自律走行の開発全体を遅らせる原因となっている。そこで自動車業界は、自律走行車に新たな事象を選択的に教える方法の開発を目的とした「AI デルタ・ラーニング・リサーチ・プロジェクト」を共同で推進している。このプロジェクトでは、自動運転車両に新しい事象を選択的に教える方法を模索。つまり今回の例で言えば、将来的に自動運転車両に次のことを教えればよいことになる。「今回、『一時停止』の標識をのぞいて、変更はありません」と。

この課題の重要性は、ドイツ連邦経済・エネルギー省から資金提供を受けている「AI デルタ・ラーニング・リサーチ・プロジェクト」の参加者リストを見れば明らかだろう。ポルシェ、BMW、メルセデス・ベンツなどの自動車メーカー、ボッシュやCARIADなどパーツサプライヤー、ミュンヘン工科大学やシュトゥットガルト大学など9つの大学がパートナーとして参加している。

ポルシェ・エンジニアリングのAIとビッグデータ担当シニアマネージャーのヨアキム・シャーパー(Joachim Schaper)は、次のように現在の状況を説明する。

「この取り組みの目的は、ある運転状況から別の運転状況まで、それぞれの事象を個別に訓練することなく推測できるようにするため、これまで必要とされてきた労力を減らすことにあります。現在、どのプロバイダーも単独でこの課題に対応できず、メーカーを越えた協力が必要になったのです」

2020年からスタートした「AI デルタ・ラーニング・リサーチ・プロジェクト」

いかにして効率的にAIに学習させるか、自動車メーカーを跨いで研究が続く「AI デルタ・ラーニング・リサーチ・プロジェクト」
AIに対する効率的な学習手段を研究するために、自動車メーカーやパーツサプライヤー、大学や研究機関も含めた「AI デルタ・ラーニング・リサーチ・プロジェクト」が、2020年からスタートした。

「AI デルタ・ラーニング・リサーチ・プロジェクト」は、コネクテッド・ドライビングや自律型ドライビングの推進を目的として、ドイツ自動車工業会が進めるAI開発の一環となる。2020年1月から18のパートナー企業からなる約100名が参加し、「AI デルタ ラーニング」の研究に取り組んできた。プロジェクト内のワークショップでは、どのアプローチが有望で、どのアプローチが行き詰まっているかについて、専門家が意見交換を行っている。

メルセデス・ベンツの自律走行の専門家であり、このプロジェクトの責任者を務めるモフセン・セファティ(Mohsen Sefati)は、「最終的には、AIの知識移転を可能にする手法のカタログ的なものを提供したいと考えています」と、プロジェクトの最終目的を説明する。

最初に示した「一時停止」の例には、自動運転車両の交通事象を分析するAIのニューラルネットワークに基本的な弱点が隠されている。ニューラルネットワークは人間の脳に似た構造を持っているが、いくつかの重要な点で異なっているという。例えばニューラルネットワークは、1回の大規模なトレーニングで一気に能力を獲得することしかできない。つまり、細かい状況の変化を随時アップデートしていくことが不可能なのである。

ちょっとした変更であっても、自動運転技術の開発には膨大な努力が必要とされる。例えば、多くの自動運転車両には、以前は解像度2メガピクセルのカメラが搭載されていた。これを高性能の800万画素カメラに交換したとしても、基本的な機能は何も変わっていない。

例えば人間の脳であれば前方にある樹木がより鮮明に表現されていたとしても、それは「木」にしか見えないだろう。しかし、AIはより高い解像度で物体を認識するためには、何百万ものスナップショットを必要とする。車両に搭載されているカメラやレーダーセンサーの位置が少し変わっただけでも、完全な再学習が必要となるのである。

左ハンドルか右ハンドルのように、些細に見えるが大きな変化を専門家は「ドメインチェンジ」と呼ぶ。例えば、明るい日差しから突然の吹雪が吹く状況にも、人間のドライバーであれば簡単に適応することができる。状況の変化を直感的に認識し、自分の知識をベースに変化に対応する。しかし、AIのニューラルネットワークには、まだそれができない。

天気の良い日のドライブで訓練されたシステムは、雨が降ると路面への反射によって環境を認識できずシステムが混乱してしまう。未知の天候や、左側通行から右側通行への変化、信号機の形状の違いなども同様だ。また、Eスクーターのような全く新しい物体が交通機関として登場した場合、自動運転車両は新しい物体に対するトレーニングを行う必要がある。

膨大な人的資源が必要とされるAIの学習

いかにして効率的にAIに学習させるか、自動車メーカーを跨いで研究が続く「AI デルタ・ラーニング・リサーチ・プロジェクト」
あらゆる環境が同時多発的に発生する交通環境において、AIにちょっとした変更点を認識させるためにも膨大な人的資源が必要とされてきた。

このような変化に対して、これまではアルゴリズムに変更点(数学や物理において変更点は「デルタ」と呼ばれる)のみを教えることができなかった。新しい領域に慣れるためには、修正が加えられた完全なデータセットが必要となる。これは学生が新しい単語を覚えるたびに、辞書を全部調べ直さなければならないようなものである。

このような学習は、膨大なリソースを必要とする。ポルシェ・エンジニアリングからAIデルタ・ラーニング・プロジェクトに参加している、博士課程学生のトビアス・カルブ(Tobias Kalb)は、「現在、自動運転のトレーニングには7万ものグラフィック・プロセッサー・アワーが必要です」と説明。実際、ニューラルネットワークの学習には多数の「グラフィック・プロセッシング・ユニット(GPU)」が並列に使用されており、その労力は甚大だと言わざるをえない。

さらに、ニューラルネットワークには「アノテーション画像」が必要となる。これは実際の交通状況で撮影された画像に、他の車両、レーンなどの路面表示、クラッシュバリアなどの重要な要素がマークされているもの。この作業を人間が手作業で行った場合、都市部の交通環境で撮影された1枚のスナップショットに注釈を付けるには1時間以上かかってしまう。歩行者、横断歩道、工事現場のコーンなどすべての画像に注釈を入れなければならないのだ。このラベリングは部分的に自動化することができるものの、そのためには大規模な計算能力が必要となる。

また、ニューラルネットワークは、新しい領域に適応しなければならないときに、学習したことを忘れてしまうことがある。カルブは「リアルな記憶がないのです」と指摘する。カルブ自身も、アメリカの交通状況を学習したAIモジュールを使った時、この現象を経験した。

何もない高速道路や広大な地平線の画像を数多く見てきたAIは、空を確実に識別することができていた。しかし、ドイツのデータセットを使ってモデルを学習させたところ問題が発生。2回目の学習では、アメリカの画像を提示した時、ニューラルネットワークが空を識別できなくなってしまったのだ。ドイツの画像では曇っていたり、建物で視界が遮られていたりすることが多かったためだという。

「これまでは、このような場合、両方のデータセットを使ってモデルを再学習していました」とカルブ。しかし、この作業には時間がかかり、データセットが大きすぎて保存できないなど、ある時点で限界が訪れてしまう。カルブは実験の結果、より良い解決策を見つけている。

「代表的な画像を提示することで、十分に知識をリフレッシュすることができました。例えば、アメリカやドイツの風景をすべてモデルに再提示するのではなく、特に典型的な高速道路の遠景を撮影した写真を数十枚選びました。それだけで、アルゴリズムは空の様子を思い出すことができたのです」

研究結果が自動車業界に多大な貢献をもたらす可能性

いかにして効率的にAIに学習させるか、自動車メーカーを跨いで研究が続く「AI デルタ・ラーニング・リサーチ・プロジェクト」
「AI デルタ・ラーニング・リサーチ・プロジェクト」のスタートから1年を経て、すでに様々な成果が積み重ねられており、今後の自動運転車両の開発におけるコストを大幅に削減することが期待されている。

「AI デルタ・ラーニング・リサーチ・プロジェクト」が目指すのは、カルブが示したような作業の最適化にある。プロジェクトパートナーは、現在6つのアプリケーション分野について、それぞれのAIを迅速かつ簡単に訓練する方法を模索している。これにはセンサー技術の変更や、未知の気象条件への適応などが含まれている。そして実績のあった解決策は、プロジェクトに参加している組織間で共有される。

現在、研究が進められているアプローチとして、2基のAIがお互いにトレーニングを行う試みがある。まず、教師AIモデルをこの目的のために構築。教師AIモデルは、あるクラスの課題(例えば標識など)がマークされたトレーニングデータを受け取る。そして、もう一方の学生AIモデルもデータセットが与えられるが、こちらのデータセットには木やクルマ、道路など、他のものがマークされている状態となっている。

教える側のシステムは、生徒が新しい概念(標識)を学ぶ際、自分の知識を生徒に伝える。つまり、生徒側が自分の持っていない「標識」を認識できるようにする。その後、生徒は次のシステムの先生となる。この「知識の蒸留」とも言える方法は、自動車メーカーが自動車のシステムをローカライズする際の時間を大幅に短縮することができる。あるモデルを新たなマーケットに導入する場合、自動運転のトレーニングを行う際に必要なのは、地域の標識に対して異なる教師モデルを使用すればよく、その他のデータはすべてそのまま使用できるという訳だ。

現在、このプロジェクトにおいて研究者たちが試していることの多くはまだ実験的な要素が強い。どのような方法が最終的にAIのニューラルネットワークを新しい領域に適応させるのに最適なのか、予測することはまだできていないのである。それでもカルブは「いくつかの方法を上手に組み合わせることで、解決できるのではないか」と期待している。

プロジェクトの開始から1年が経過し、関係者はポジティブな感触を手にしているようだ。メルセデス・ベンツのプロジェクトマネージャーのセファティも「プロジェクトは順調に進んでいます」と断言。このプロジェクトが終了する2022年末には、AI デルタ・ラーニングに関する最適な手法を示すことが期待されており、これは自動車業界全体に大きな利益をもたらす可能性がある。

ポルシェにおけるAIスペシャリストのヨアキム・シャーパーは、「トレーニングの行程が高度に自動化されれば、品質を高めながらコストを大幅に節約できる可能性があります」と指摘する。彼はまた、自動運転車両開発における人的資源の投入は、AI デルタ・ラーニングによって半減できると試算している。

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