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DB4GT Zagato(1960-1963)
250GT SWBに対抗するべく
1959年9月のロンドン・モーターショーでデビューしたコンペティションバージョンの「DB4」というべき「DB4GT」だったが、アストンマーティンのレース部門の責任者で、同社のゼネラルマネージャーも務めていたジョン・ワイアは、フェラーリのニューマシン、250GT SWBに対抗するためにそのライトウェイトバージョンの必要性を感じていた。そんな時に彼の目に留まったのが、同じロンドン・ショーで発表されたブリストル 406 ザガートだった。
実はこの406ザガートは、ワイアの友人で、イギリスメーカーとイタリアのカロッツェリアを仲介する仕事をしていたトニー・クロークが働きかけ、実現したプロジェクトのひとつであった。早速ワイアはクロークを通じてザガートへアプローチ。1959年末に契約に成功する。
その際、ザガート側でデザイン担当に指名されたのがエルコーレ・スパーダだ。後にアルファロメオSZ2 、TZ1、TZ2、ランチア・フルヴィア・スポルト・ザガートなど数々の名作を世に送り出すことになるスパーダだが、この時はまだ1960年3月に入社したばかりの新人デザイナーであった。
DB4GTよりさらに軽い1159kgの車重を実現
スパーダの回想によると、入社して間もなく同年10月のロンドン・ショー、11月のトリノ・ショーに出品する3台のプロトタイプのデザインを命じられたという。そのひとつが、DB4GTザガートであったのだ。
1960年の春にアストンマーティンからザガートにモックアップのエンジンを搭載したローリングシャシーが送られてくると、早速彼はメカニカルパートをギリギリでクリアするアウトラインを設定。それをもとに極力ノーズを低くするためにエンジンのヘッドカバーをクリアする2本のパワーバルジ、大きなカウルド・ヘッドランプをもつマッシブなボディをデザインした。
こうして10月のロンドン・ショーで発表されたDB4GTザガートは、DB4GTよりさらに軽い1159kgの車重を実現したうえ、圧縮比を9.7:1へと高めることで318PSを発生する3670cc直6ユニットを搭載していたが、DB4よりも1400ポンドも高い価格設定が災し、わずか19台の製造にとどまった。このうちシャシーナンバー0191、0193、0182(1 VEV)、0183(2 VEV)の4台は、コンペティション用としてさらに軽量化されたDP207/209仕様で製造されている。
ジム・クラークもステアリングを握った
そんなDB4GTザガートのレースデビューは1961年4月のこと。グッドウッドで行われたフォードウォーター・トロフィーにスターリング・モスがドライブで出場したものの、マイク・パークスの250GT SWB、イネス・アイルランドのDB4GTに次ぐ3位に終わった。
続くル・マン24時間にもセミワークスのエセックス・レーシングから3台(1 VEV、2 VEV)、プライベーターから1台のDB4GTザガートが出場するが、いずれもリタイア。その後もRAC TTなど様々なレースに出場(あのジム・クラークもステアリングを握っている)する中で、7月にエイントリー・サーキットで行われたF1イギリスGPのサポートレースが、唯一のビッグレースでの優勝といえる。
また日本においては、1963年に鈴鹿サーキットで行われた第1回日本グランプリにフランス人ドライバー、ジョゼ・ロジンスキーがドライブするDB4GTザガートが出場。これは1961年のル・マンにプライベーターのジャン・ケルガンがエントリーしたシャシーナンバー0180で、ピエール・デュメイの250GT SWBやフシュケ・フォン・ハンシュタインのポルシェ356Bカレラ2と接戦を演じ、観客を大いに沸かせた。
今でも製造された19台すべてが現存するDB4GTザガートだが、1991年にサンクション2と呼ばれるコンティニュエーション・モデルが4台製造されたのに続き、2019年にはアストンマーティンとザガートの提携60周年、そしてザガートの創業100周年を記念して、アストンマーティン・ワークスがコンティニュエーション・モデルを製作。DBS GT ザガートとのセットで、19台限定で販売されている。