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MX-03はコンセプトカーだが真面目に空力を考えたデザインだった
MX-03は1985年の東京モーターショーで日本デビュー。マツダ・ブースには、発表して間もない2代目RX-7(FC)も展示されていた。そのどちらのデザインにも関わったのが、初代RX-7(SA)のキーデザイナーでもあった小野隆だ。実は東京モーターショーから直後の85年末でマツダを退職。現在は御殿場でフリーランスデザイナーとして活動している。
キースケッチを描き、スケールモデルの風洞実験まで担当
「昔のことだし、他の仕事で忙しかったので、MX-03について細かい記憶はないけれど、それでよければ」と、小野はオンライン・インタビューに応じてくれた。まずはMX-03に関わることになった経緯を聞くと・・。
「MX-03の計画が持ち上がって、上司から『やってみろ』と言われた。『忙しくてできませんよ』と話した記憶があります」。量産の制約のないコンセプトカーは、デザイナーにとってやりたいことが出来る好機のはずだが、当時の小野はそれどころではなかったらしい。
小野は初代RX-7に続いて、2代目のFC型でもエクステリアのキーデザイナーを務めた。MX-03の開発が始まるとき、FC型のクーペはすでに手離れしていたが、カブリオレのデザインが佳境を迎えていたという。「ソフトトップをクレイモデルで造形して、そのデータファイルを作っていた頃だったと思う」。
それでもMX-03のプロジェクトに参画した小野は、「キースケッチを描いて、フルサイズのテープドローイングをざっくりと引くところまではやった覚えがある」という。
85年末発売の『カースタイリング』誌第59号に、MX-03のスケッチやクレイモデルが掲載されている。それをオンラインで画面共有し、記憶を辿っていただくと・・。
「2と4は私が描いたもので間違いない。4はかなりアイデアが固まった状態だから、これがキースケッチですね」と小野。これで彼がMX-03のキーデザイナーだと判明した。さらに風洞実験中のスケールモデルや原寸大クレイモデルの写真については・・。
「別案の写真に見える人影は、私ですね」と小野は少し驚いたように語る。「記憶が欠落しているけれど、スケールモデルの風洞実験まで担当したようです」。その後のプロセスは後輩デザイナーに託し、「FCの仕事が忙しかったので、フルサイズのクレイモデルを見に行くこともあまりなかった」とのことだ。
F1から発想したインテグレーテッド・ウイング。フェラーリやNSXより早くそれを採用していた
小野はSA型RX-7の頃から空力にこだわってきた。「デザインを説明するときに、派手なプレゼンテーションをするのは苦手。いちばん説得力があるのは空力だと考えて、空力の話ばかりしていたんです」。
MX-03はハイパワーなスリーローター・ターボを積む次世代高級クーペのコンセプトカー。RX-7のようなスポーツカーとはデザインの切り口が異なるが、小野はここでも空力から発想した。「ハイパワーということが、デザインの大きなキーになった。パワーアイコンとしてわかりやすいカタチを作りたいという思いで、ボディにインテグレートした特徴的なリヤウイングを考えた」
その発想の原点にはF1があったという。1981年のロータス88だ。
「ロータス88は空力の権化のようなマシン。サイドポンツーンの面がリヤに延びてウイングのエンドプレートになる。このデザインに強い衝撃を受けて、いつか量産車でそういうデザインができないかと頭をよぎったことを覚えている。量産車ではなかなか難しいけれど、MX-03はコンセプトカーだからチャレンジしてみよう、と」
かくして「ロータス88がひとつのヒントになった」というMX-03のリヤウイングだが、ロータス88が左右のエンドプレートの間に水平のウイングを設けていたのに対して、MX-03はボディサイドから連続面でウイングを立ち上げたところが新しい。まさにインテグレーテッド・ウィングだ。
ちなみにMX-03が85年にデビューして以降、87年のフェラーリF40、89年シカゴショーのNS-Xコンセプト(量産NSXは90年)や同年東京ショーのピニンファリーナ・ミトス、さらに95年のフェラーリF50など、インテグレーテッド・ウィングが相次いだ。それらに先んじてMX-03が世に出ていたという事実は特筆に値するだろう。
リヤスポイラーだけではない空力オリエンテッドなデザイン
空力オリエンテッドなデザインはリヤスポイラーだけでなく、ホイールアーチにも及んでいる。3BOX車ではルーフ上面を流れてきた風がリヤデッキの後端に当たるようにすると、車体後方の渦流域が小さくなって空気抵抗が減る。だから80年代後半からリヤデッキの高いプロポーションがトレンドになっていくのだが、MX-03はリヤデッキを低く抑えながらインテグレーテッド・ウィングを採用した。その効果を高めるのが、リヤウインドウを囲む額縁状の黒いガーニッシュだ。
「その額縁の断面をエッジにすることで気流を整えて、それをウィングに当てようと考えた」と小野。ルーフエンドで気流が渦を巻いてしまったら、ウィングが意味をなさなくなる。エッジでスパッと風を剥離させ、乱れの少ない気流をウイング上面に導けば、空気抵抗が減るしダウンフォースも稼げるというわけだ。ルーフ上面流だけでなくキャビン側面の気流もウイングに導くべく、クォーターウインドウは後方に向けて強く絞り込まれている。
MX-03のエクステリアでもうひとつ特徴的なのが、凹凸や抑揚のないフラットなボディサイドだろう。SA型RX-7ではホイールアーチに沿ってリップの出っ張りがあったが、FC型ではフェンダー全体を膨らませたブリスターフェンダーを採用し、リップを廃止してフェンダーとタイヤを面一にした。その考え方をさらに進化させたのが、MX-03のフラットなボディサイドだ。
SA型からFC型を経験し、小野は空力のノウハウを蓄積していた。「MX-03のディテールの空力処理でわかりやすいのは、フロントのホイールオープニングです。タイヤの後ろ側に斜めの面を設けた」。同様の処理はFC型にもある。「ホイールアーチに気流が引っかからなくなって、ボディサイドの流れがきれいになる。FCで試してみたら、かなり効果があったんです」
「MX-03のデザインは空力オリエンテッド。コンセプトカーとはいえ、空力に真面目に取り組んだデザインだったとあらためて思う」と小野。実際、MX-03はCd=0.25という、当時としては画期的な空気抵抗係数を叩き出していた。
ワクワクできる時代を駆け抜けたデザイナー。その言葉にカーデザインの魅力を再認識したい
1985年末にマツダを退職した小野は、御殿場のムーンクラフトに移籍した。当時からレーシングカーデザイナーとして著名だった由良拓也の会社だ。由良は「風が見える男」と言われた空力のスペシャリスト。それゆえ後日、マツダのデザイナーから「小野さんは空力が好きすぎてムーンクラフトに行った」と聞かされたものだ。
「それもまんざら嘘ではないです」と小野は笑う。しかし真意は違ったようだ。RX-7は初代から米国IMSAのレースに挑戦していた。そうしたレースカーのデザインにも関わるなかで、小野はコンストラクターが集まる御殿場に通い、その道のプロが作るFRPパーツの軽さを知り、さらにカーボンファイバー成形に興味を抱くようになったという。「材料からクルマのデザインを考える。御殿場でそれを見たことが転職のきっかけになった」。
辞めたとはいえマツダと縁が切れたわけではなく、例えば1989年の東京モーターショーのファミリア・スポルト4をデザインした。グループBのWRCマシンを想起させるショーカーだ。ムーンクラフトが設立したデザイン会社のファトラスタイリングに移ってからはマツダの新ブランド、M2のデザインにも協力。初代ロードスターに3リットル・V6を積んだM2 1006のグラマラスなボディは、実は小野が手掛けたものだった。
78年の初代RX-7から85年の2代目RX-7とMX-03を経て、89年のスポルト4や92年のM2 1006まで。そんな、クルマ好きが心底ワクワクできる時代を、デザイナーとして駆け抜けた小野隆。カーデザインがその根底に持つ魅力を再認識できる言葉を、今回のインタビューで聞けたように思う。心揺さぶるデザインを生み出すのはブランドでも市場調査でもなく、空力や材料といったサイエンスへのこだわりなのだ。
小野隆(おの・たかし)。1971年東洋工業(現マツダ)入社。初代〜2代目RX-7、MX-03などのエクステリアを歴任し、85年末に退職。ムーンクラフト、ファトラスタイリングを経て、2000年に個人事務所のタークデザインを設立した。