『ガールズ&パンツァー』で話題となったクリスティー式はアメリカ軍の英雄・パットン将軍も大絶賛!! しかし制式採用の前に世界恐慌が立ち塞がる!

2023年10月の上映から大きな話題を呼んだ『ガールズ&パンツァー 最終章』第4話にて、継続高校のフラッグ車として活躍するのがフィンランド製の自走砲BT-42突撃砲だ。この戦車に採用された「クリスティー式サスペンション」は、優れた悪路走破性に加え被弾による損傷にも強く、履帯を外した状態で車輪走行が可能という特徴を持つ。この戦車の原型となったのが、アメリカの自動車技術者のジョン・W・クリスティーが発明した「クリスティー戦車」だった。「クリスティー式サスペンション開発秘話」今回は1932年4月にバージニア州フォート・マイヤー駐屯地で開催されたT1のデモンストレーションの様子を視察に訪れたジョージ・S・パットン少佐の目線で紹介しよう。

『ガールズ&パンツァー』で活躍するBT-42突撃砲のご先祖様! クリスティー式を採用したM1931とは? 天才エンジニアの苦心が戦車で結実

2023年10月の上映から大きな話題を呼んだ『ガールズ&パンツァー 最終章』第4話にて、継続高校のフラッグ車として活躍するのがフィンランド製の自走砲BT-42突撃砲だ。この戦車に採用された「クリスティー式サスペンション」は、優れた悪路走破性に加え被弾による損傷にも強く、履帯を外した状態で車輪走行が可能という特徴を持つ。この戦車の原型となったのが、アメリカの自動車技術者のジョン・W・クリスティーが発明した「クリスティー戦車」だった。前回はクリスティー式サスペンションとコンバーチブルドライブ(装輪装軌併用式)を採用したM1928が歩兵戦車委員会の審査で落とされるも、改良型の試作を許されるところまで語った。今回は完成した新型試作戦車・M1931を中心に解説して行くことにする。

M1928を全面改良したM1931の実戦部隊での運用試験は1931年春に始まる

M1928の設計を全面的に改め、優れた走行性能はそのままに37mm戦車砲の搭載を考慮した旋回砲塔、避弾経始に優れた車体正面の傾斜装甲などの新機軸を取り入れた本格的な戦車としてクリスティーのM1931は1931年1月に誕生した。

第1騎兵連隊で戦闘車T1の部隊テストを行う第1騎兵連隊の将兵。非武装状態で引き渡された同車は主武装に歩兵用の分隊支援火器・12.7mmブローニングM1918オートマチックライフル(BAR)を加工して装備した。

1931年3月から2ヶ月間に及ぶアバディーン性能試験場で陸軍による性能評価試験で優秀な成績を納めた同車は、砲塔の形状変更、車長用のキューポラと後部ハッチの追加、マフラーの形状変更などの改良を施した上で、さらに8台の増加試作車が製造されることが決まった。このうち3台が「コンバーチブル中戦車T3」の名称で第67歩兵連隊(現・第67機甲連隊)に送られ、4台が「戦闘車T1」の名称で第1騎兵連隊に引き渡され、実戦部隊による運用試験が実施された。

M1931に乗るジョン・W・クリスティー。
ジョン・W・クリスティー(1865年5月6日生~1944年1月11日没)
少年時代に鉄工所で働きながらクーパー・ユニオン(※)で工学を学び、軍艦の砲旋回装置の特許取得によって名声を得、潜水艦の研究、FWD自動車や軍用車両の開発で多大な功績を残した。レーサーとしてアメリカの国内レースやフランスGPにも参加している。第一次世界大戦を契機として軍用車両の開発に着手し、彼の代表作である装甲車両用のクリスティー式サスペンションを発明する。写真は完成したM1931の運転席に座るクリスティー本人。
※クーパー・ユニオンについてはバックナンバーを参照

完成したT3およびT1の部隊引き渡しは1931年12月から始まり、翌1932年3月までに全車納品された。本格的な部隊試験はその年の春からスタートした。
開発者のクリスティーにとって幸いなことに、テストを担当した歩兵連隊と騎兵隊連隊からの評価は上々で、現場からの要請でわずかに改良を加えた以外は、大きな問題も起こすことなく試験は順調に進んでいた。この頃からM1931の高性能ぶりは陸軍関係者以外にも知られるところとなって、軍人や軍属だけでなく、民間の技術者、政治家、新聞記者などが連日のように見学に訪れるようになる。

米陸軍切っての戦車通・ジョージ・S・パットン少佐がT1を視察

そんな1932年4月のある日のこと。バージニア州フォート・マイヤー駐屯地で開催されたT1のデモンストレーションにジョージ・スミス・パットン.Jr騎兵少佐(当時)が視察に訪れた。ご存知の通り、のちの第二次世界大戦の欧州戦線で米機甲部隊を率いて連合軍勝利に貢献する将軍となる人物である。

1943年に撮影されたジョージ・S・パットンJr。この写真の撮影直後に少将から中将へと昇進する。
ジョージ・スミス・パットン.Jr(1885年11月11日生~1945年12月21日没)
アメリカ建国以来の軍人家系に生まれる。陸軍士官学校在籍中にストックホルムオリンピックに近代五種の選手として参加。1916年のパンチョ・ビリャ懲罰遠征ではジョン・パーシングの副官として参戦し、ビリャ個人の護衛隊指揮官フリオ・カルデナス将軍殺害の軍功を挙げ、第一次世界大戦では欧州派遣軍の一員として戦車隊の指揮を執り、ここでも活躍を見せる。戦間期は陸軍省で戦車の戦略・戦術・運用研究を行ういっぽうで、旺盛な戦意を持て余して趣味に走るいっぽうで、飲酒や不倫などし私生活は乱れた。しかし、再び戦争の機運が高まると1934年に中佐、4年後に大佐に進級する頃には本来の自分を取り戻して行く。1939年にドイツが電撃戦でポーランドを降すと、機甲師団の創設が陸軍にとって喫緊の課題となり、その能力が認められて准将を経て少将に昇進。第2機甲師団の旅団長に就任する。第二次世界大戦にアメリカが介入すると、中将になったパットンは北アフリカの第2軍団の司令官となる。ドイツ・アフリカ軍団に敗北した同軍団を立て直し、1943年2月の「カセリーヌ峠の戦い」に勝利する。その後、パットンはシチリア島攻略作戦に参加し、島の中心年であるパレルモを解放し、ライバルのバーナード・モントゴメリーを出し抜いて英軍が攻略を担当するメッシナも陥とす。だが、シェルショック(PTSDの一種)を発症した兵士を殴打したことが世論の批判を集めて後方へ左遷されてしまう。1944年6月に連合軍がノルマンディー上陸作戦に成功すると、連合軍最高司令官のアイゼンハワーの計らいで前線指揮官に復帰。米第3軍を指揮してコブラ作戦を実行し、ファレーズ方面のドイツ軍を一掃してフランス奥深くに侵攻。その後はロレーヌ方面で戦う。同年12月に独白国境のアルデンヌの森でドイツ軍が最後の反抗作戦(バルジの戦い)に出ると、直ちに救援作戦を実施し、孤立していた第101空挺師団を救い出す。その後、ドイツ国内の西ボヘミアへ進出したところで終戦を迎える。戦後はバイエルンの軍政指導を担当するが、インフラ維持のために非ナチ化政策を徹底しなかったことを批判されて失脚。閑職に回されるが、その直後の1945年12月21日に自動車事故により他界する。

第一次世界大戦で戦車隊を指揮した経験から戦車の戦術的・戦略的な重要性を認識したパットンは、大戦後に機甲戦力整備の重要性を陸軍内で説いて回った。陸軍内で彼の名は「戦車の第一人者」として知らぬ者はいないほどだったが、同時に上層部からは「軍の秩序を乱すやっかい者」として存在を煙たがられてもいた。前世紀から続く歩兵や騎兵、砲兵を主戦力とする戦略思想が未だに信奉されていた当時の米陸軍では、所詮戦車は歩兵支援のための補助兵器に過ぎないとの認識が一般的であり、彼の主張を理解できる人間は少なかったことが多くの賛同者を得られなかった理由とされている。

第一次世界大戦時のパットン。後方に見える戦車は当時米陸軍が運用したルノーFT-17。

それに加えて、結果さえ出せば上官の非難や叱責も気に留めないというパットンの傲慢な性格、裕福な実家を背景に営内で貴族のような贅沢な生活を送ったことが上官や同僚の嫉妬の対象になっていたこと、さらには平和な時代に持て余した旺盛な戦意の吐口とするように、酒に溺れたり、家族に癇癪を起こしたり、娘の親友だったジーン・ゴードンと不倫関係になったりと素行の悪さも影響を及ぼしていたようだ。

パットンの愛人だったジーン・ゴードンは、第二次世界大戦が勃発すると彼の少しでも近くにいたいと赤十字看護助手訓練コースを履修してイギリスに赴任した。
ジーン・ゴードン(1915年2月4日生~1946年1月8日没)
裕福な資産家の娘として生まれたジーン・ゴードンは、パットンの次女ルース・エレンの親友であり、パットンの愛人であった。パットンとの出会いは1930年代に休暇でルースのもとを訪れたときに、ハワイ師団勤務の父・パットンを紹介されたことに始まる。この時期のパットンは軍務と私生活に不満を抱え精神的に衰弱していたことあり、満ち足りない生活から救いを求めるように若く美しいジーンに惹かれたようだ。ジーンもパットンをひと目で好意を抱き、ふたりが男女の関係になるのにそれほど時間は掛からなかったという。その後もふたりの関係は切れることなく続き、第二次世界大戦中にジーンはパットンの少しでも近くにいたいと、赤十字の看護婦を志願して欧州に赴任。兵士殴打事件でノルマンディー上陸作戦の陽動部隊指揮官という閑職に追いやられたパットンと、赴任先であるイギリスで逢瀬を重ねたとも伝えられている。終戦後、パットンが自動車事故で他界すると、アメリカ本土に帰国していたジーンは悲嘆に暮れ、パットンの死から2週間後の1946年1月8日に自殺した。彼女の遺体は自室でパットンの写真を胸に抱いた状態で発見されている。なお、パットンとジーンの不適切な関係は妻であるベアトリスも把握しており、その事実が彼女を大いに苦しめた。一時は家庭不破の原因となり、パットン夫妻は離婚寸前にまでなった。

戦間期のパットンは、その指揮官としての資質と作戦能力の高さから1923年に指揮参謀大学に入学して参謀教育、1931年に将来の将官候補として陸軍大学で教育を受けてはいたものの、彼に与えられた職務は陸軍省に出仕して戦略・戦術・戦車の運用研究を行ったほかは、災害救助部隊の指揮、2回のハワイ師団勤務(2度目は師団参謀として赴任)と、中央での出世コースから外れたものだった。事実、彼の出世は能力に比して遅く、1920年に少佐の地位を拝命してから中佐に進級するまで14年も掛かっている。

クリスティー戦車の理解者であったパットンは同車の採用を強く支持

満たされない戦間期の日々にあってもパットンの機甲戦力整備にかける情熱と戦車の性能を見抜く目には些かの曇りもなかった。彼はM1919の登場からクリスティーが作る戦車の資質の高さを理解しており、その約10年後に登場するM1928については、貧弱な武装に不満を抱いてはいたものの、その機動性の高さから「メキシコ国境のパトロール用に最適」として採用を支持していた。そんなM1928が快速性はそのままに、火力と防御力を改善した本格的な戦車に生まれ変わったと聞き、どうにも辛抱できなくなって、陸軍大学の卒業を間近に控えた多忙な時期にも関わらず、ワシントンD.C.の陸軍大学からクルマを飛ばしてT1のデモンストレーション会場へと馳せ参じたというわけだ。

クリスティー初の戦車となったM1919中戦車。履帯を外した状態で走行可能なコンバーチブルドライブ(装輪装軌併用式)を採用したことが最大の特徴。サスペンションは車体中央のボギーに備わるリーフスプリングのみで、前後の巨大な転輪はサスペンション機構を持たず、ソリッドタイヤを履くことから乗り心地は劣悪だった。

来賓席の最前列に陣取り、フィールドを恐るべきスピードで縦横無尽に走り回るT1の姿を見たパットンは、これこそ自分が求めていた走・攻・守のバランスに優れた戦車であることを確信した。当初は見学だけで済ますつもりであったが、疾走する戦車の姿を見ていると自らその性能を試してみたいとの思いがフツフツと沸き立ち、とうとう自分の気持ちを抑えられなくなった彼は、デモ走行を終えてT1が戻って来ると、飛び入りで試乗しようと戦車に近づいて一気に車体を駆け上ったのだ。もちろん、これは試験部隊のスケジュールにはない行動である。

クリスティーが1928年に開発したM1928。軽量な車体に強力なリバティL-12エンジンを搭載したことから装軌走行時68km/h、装輪走行時110km/hの最高速度を発揮した。この戦車を再設計し、砲塔を備えた本格的な戦車に生まれ変わったのがM1931だ。

パットンらしい強引なやり方でT1を飛び入り試乗

「軍曹、そこを退きたまえ。今度はワシがテストする番だ」
有無を言わさぬパットンの行動に周囲が唖然として見つめる中、戦車の上に仁王立ちした彼は、その鋭い眼光で戦車長を睨みつけ、尊大な態度で試乗を求めた。この不当な要求に困惑した表情を浮かべるのはT1の戦車長である。パットンの行動はまったくの予定外のことであり、当然のことながら事前にそのような話は聞かされていない。
「少佐殿、誠に失礼ながら小官はそのような話を聞いておりませんが……」

1945年に撮影された陸軍大将に昇進したパットン。ラッカー塗装仕上げの儀礼ヘルメット、ドレスユニフォームの上衣、乗馬ズボン、乗馬用ブーツという個性的な軍服の着こなし。騎兵科出身という軍歴が終生彼のアイデンティティとなっていたようだ。

鬼のようなパットンにひと睨みされればベテランの下士官でも身が縮こまる。蛇に睨まれたカエルのように怯えの色を見せた戦車長であったが、はたと自分の職責を思い出し、か細い声を絞り出してパットンの要求を不当としてやんわりと拒否した。するとパットンの表情は不機嫌そうなものに変わる。

ケンタッキー州にある「パットンミュージアム」に展示される彼が愛用した拳銃。右腰のホルスターには少尉時代にコルト社へ特注した唐草模様の見事なエングレービング(彫刻)が施され、象牙製のグリップをあしらったシルバーフィニッシュのコルト・シングル・アクションアーミー(SAA)、左腰には同じく象牙グリップ製に交換されたS&W M35を収めていた。1916年のパンチョ・ビリャ懲罰遠征では、このSAAでビリャの護衛隊指揮官であったユリオ・カルデナス将軍ら3人を射殺した。M35は1935年に追加購入したので、1932年4月のT1デモンストレーションの際には身につけていない。

「いいかね、軍曹。知らないなら教えてやるが、ワシは合衆国陸軍から戦車に関する戦略・戦術・運用研究を任せられているジョージ・S・パットン少佐だ。そのワシがT1の試乗をしなくてどうするのかね? ワシの試乗がスケジュールに入っていないと言うのなら、それは貴様が予定表を見落としただけだろう。そのカボチャみたいな頭をワシのコルトで吹き飛ばされたくないのならとっとと席を譲らんかっ!」

そう発するやいなや、パットンはキューポラの中に半身を潜める戦車長の襟首を掴んで車外へと放り出した。次の瞬間、ベチャっという鈍い音と共に演習場の泥の中に沈んだ彼は、汚れた顔を起こして救いを求めるように上官のほうに眼差しを向ける。だが、パットンの人となりを噂で耳にしていた上官は、何かを諦めたように肩をすくめて静かに首を横に振るのみだった。

その様子を車上から確認したパットンはニヤリと笑い「やはりワシの試乗は予定に入っていたようだな。オイ、誰かヘルメットとゴーグルを寄越せ! 暫しこの戦車を借りるぞ!」と満足そうに言葉を残してから砲塔の中に潜る。そして、今度は操縦手に向かって「いいか、発進したら演習場を全速力で突っ走れ。全速力でだぞ! 貴様にタマがついているのならワシを振り落とさんばかりのスピードで走ってみせろ!」と檄を飛ばした。

車上で「戦場の風」を感じたパットン

ヘルメットとゴーグルを身に付けたパットンが大声でドライバーに発進の指示を出す。すると彼を乗せたT1はエンジンの轟音を響かせながら猛烈な勢いで加速し、最高速度に達した状態で起伏をものともせずにフィールドを駆け抜けて行く。
「やはり端で見ているのと実際に試乗するのは違うな。コイツの走りっぷりと来たらまるでオフロード用のスポーツカーじゃないか! 重量はM1928に比べて1.4t増しの10tになったと聞いていたが、不整地の走行性能は充分すぎるほど速いし、乗り心地も悪くない!」

アバディーン性能試験場を試走するM1931。クリスティー式サスペンションの恩恵で悪路走破製は高かった。

M1931の最高速度は装軌走行時で45km/h、舗装路の装輪走行時に70km/hとM1928に比べて6割程度に低下したが、それでも当時の平均的な戦車の倍以上のスピードであり、充分すぎるほどの速度性能であった。また、コイルバネを用いたクリスティー式サスペンションの恩恵もあって路面の凹凸を乗り越えたときの突き上げはパットンの予想よりもずっと少なかった。

特許出願のため米特許商標庁にクリスティーが提出したM1928の構造図。ストロークの大きなクリスティーサスペンションやコンバーチブルドライブ(装輪装軌併用式)の仕組み、第1転輪の操舵システムがわかりやすく図面化されている。

「この戦車のスピードと機動力は大きな武器になる。T1が量産されれば戦車を中心とする機械化部隊が敵陣深く侵入し、短時間のうちに敵の弱点である戦略的要衝や補給拠点を撃滅する電撃戦が可能になる。そうなれば戦争の形態そのものが大きく変わるだろう。やはり、ワシの目に狂いはなかった。この戦車こそワシが長年欲していた理想の戦車だ!」

感極まったパットンは気がつくと自分に言い聞かせるように疾走する戦車の上でそう叫んでいた。根っからの軍人だったパットンにとっては、身体に受ける土埃混じりの走行風でさえなんとも心地良く感じられる。「これは戦の風だな」。そう呟いた彼はまんじりと目を閉じる。すると彼の脳裏に浮かんだのは小アジアの平原を敵軍に向けて疾走する古代ローマのヘタロイ(重装騎兵)の姿だった。一団の中にパットンもいた。傍らに目をやれば漆黒の馬・ブケファロスに騎乗し、指揮官先頭で軍を統率するアレキサンダー大王の姿が見える。そこで彼はこの光景が前世の自分が体験した記憶であることに気づくのであった。

イタリア・ポンペイの牧師の家に残されていたアレクサンドロス三世のモザイク画(アレキサンダー・モザイク)。
アレクサンドロス3世
(紀元前356年7月20日生~紀元前323年6月10日没)
「アレキサンダー大王」として知られるアレクサンドロス3世は、20歳にしてマケドニア王位を継承し、イストロス川方面に遠征してトラキア人を征伐し、全ギリシアに手中に収めた。その後、東方(メソポタミアなどの中東方面)に進出し、戦いで勝利した地を併合し、強国アケメネス朝ペルシアを撃破して版図を広げた。しかし、際限のない彼の長征は軍の負担となり、兵士たちの懇願もあってインド遠征を区切りに帰国を決意。バビロンに戻ったところで病没した。

霊魂の存在と輪廻転生を信じていたパットンは、自身をカルタゴの猛将ハンニバル・バルカの生まれ変わりと公言しており、アレキサンダー大王と共にローマの軍団兵の一員として戦場を駆け巡ったとも、ナポレオンの参謀として幾多の作戦に従事したとも主張した。

1667年にイタリアのカプアで発見されたハンニバル・バルカの胸像。現在はナポリ国立考古学博物館にて保存されている。
ハンニバル・バルカ
(紀元前247年生~紀元前183年頃没)
地中海貿易で栄えたフェニキア人の国家・カルタゴの名将。紀元前221年に軍司令官に就任したハンニバルは、イベリア半島戦線のエブロ川南方を制圧。紀元前218年にピレネー山脈を越えガリアに侵入、さらにアルプス山脈を越えてイタリア半島に進軍したことで第二次ポエニ戦争の開戦となった。その後は「トレビアの戦い」「トラシメヌス湖畔の戦い」と連勝し、戦史上の金字塔として名高い「カンネーの戦い」において包囲殲滅を成功させる。ところが、プブリウス・スキピオがローマ軍の指揮官に就任すると、戦争の主導権はローマに移る。ハンニバル軍がアプリア地方に封じ込められると、シチリア島を拠点に北アフリカのカルタゴ本土に直接攻撃を加えた。「ザマの戦い」でローマが勝利すると、多額の賠償金を支払い両国は停戦。戦後処理でも辣腕を振るって政治家としても能力を発揮するが、反ハンニバル派によるクーデターで失脚。シリアに逃れるものの、追手に迫られて最終的には自害した。

戦争を心から愛し、最後の戦場で最後の銃弾によって倒れることを理想の死としていた彼は、近代軍の士官としては珍しいロマンチストであった。ただし、単なる妄想癖の持ち主とも言い切れなかったようで、ときに心霊的な直感によって前世の記憶を思い出すかのように戦場となる地形を把握し、何ら前触れもないにも関わらず敵の攻勢を予測したという。それでいて戦車のような新兵器の重要性をいち早く見出すような先見性を持ち、大胆かつ緻密な作戦で勝利を確実なものとする合理性も身につけていた、こうした二律背反する個性を内に秘めた奇妙な軍人がジョージ・S・パットンという男であった。

霊魂の存在と輪廻転生を信じていたパットンにはオカルトめいた逸話がいくつも残されている。その際たるものが1944年12月の「バルジの戦い」のことで、ザール方面の攻略に当たっていた米第3軍はパットンの第六感により急遽作戦を中止し、部隊移動の準備をを命じた。その直後に連合軍が予期せぬ大攻勢がアルデンヌで始まり、この方面の守りの薄かった連合軍は窮地に陥る。19日の会議で対策が協議されると、パットンは「48時間以内に現在の戦線から移動が可能」と答え、連合軍首脳を驚愕させる。すでにこの時点で部隊は移動を開始しており、先鋒はバストーニュ近郊に到着して戦闘を始めていた。その後もドイツ国内に進撃した第3軍はモーゼル川を渡河した時点でパットンは進撃を中止し、防御陣地の構築するように命じている。その翌日にドイツ軍の予期せぬ猛攻が始まったが、これを最小の被害で撃退している。こうしたパットンの超感覚を間近で見ていたオマー・ブラッドレイ将軍は戦後になって「パットンの心霊的な直感は陸軍情報部のもたらす情報よりも役立った」と答えている。なお、終戦後一時帰国したパットンは自身の子供達に「私は近くヨーロッパで死ぬから部下たちの眠るルクセンブルクの軍人墓地に埋葬してほしい」と希望を伝えている。「戦争は終わったのに?」と訝しがる子供たちであったが、その言葉の通り1945年12月21日に事故死している。写真は「バルジの戦い」におけるパットン指揮下の第3軍。

戦車の試乗を終えて開発者のクリスティーと対峙する

思う存分走り回ってT1の試乗を終えたパットンが関係者のもとに戻ってくると、車上での上機嫌が嘘のような仏頂面で戦車から降り立った。すかさず彼は「この戦車を作ったクリスティーとかいうクソッタレはいるか!」と駐屯地全体に響く大声で叫んだ。

シチリア島パレルモでライバルの英陸軍のバーナード・モントゴメリー将軍と握手するパットン。世渡りが上手なタイプとは言えないパットンだったが、地位相応の人身掌握術は身につけており、毛嫌いしていたモントゴメリーとも写真のように笑顔で握手をする社交性はあった。

パットンの怒声を聞いた連隊の将兵と来賓は何事があったかと彼を注視し、不安を感じて騒めいた。感情をあらわにしたパットンがズンズンと力強い足取りでこちらに近づいて来ると、人々は恐怖を感じて竦み上がり、我関せずと沈黙して彼から視線を外す。そんな中で静寂を打ち破ったのはひとりの初老の男の一言だった。

「私がクリスティーだが」

不機嫌そうな表情でそう答えたクリスティーは、来賓席から人々をかき分けて前に進み出た。この日の彼はT1の改良と今後の試験内容について第1騎兵連隊と打ち合わせをするために駐屯地を訪れており、そのついでとばかりに自身の開発した戦車のデモンストレーションを見学していたのである。

M1931の車長席に立つクリスティー。天才にありがちな意固地さで周囲と軋轢を起こすことが多かった彼もまた、パットンと同様に世渡りが上手なタイプとは言えなかった。

クリスティーの姿を認めたパットンは足を止めて「ほう」と呟くと、値踏みをするように彼の頭からつま先までを舐め回すように見る。だが、それもほんの刹那のこと。クリスティーに向けて再びパットンは歩みを進めた。やがてふたりは10cmほどの間合いで互いの顔を凝視する。身長187cmのパットンは長身のクリスティーよりもさらに背が高く、軍の栄光と権威を一身に纏ったかのような堂々としたその姿にクリスティーは実際の背丈以上に大きく見えたことだろう。

しかし、クリスティーもただの技術者ではない。物理法則と機械工学の徒である彼は、たとえ周囲の評価を得られなくとも、己が信じる技術と信念に基づいて様々な機械を発明し続けてきたのだ。これまでの人生で相手が間違っていると感じたときは、たとえそれが誰であっても媚び諂うことなく己を貫いてきた。それは目の前の居丈高な将校も例外ではなかった。

「アンタがクリスティーか……」
そう呟いたパットンはクリスティーの目をじっと睨みつけた。両者の間を短くも長い沈黙の時間が流れる。だが、先に静寂を破ったのはパットンの方だった。
「いい戦車を作ったな」
そう言って片頬を上げるパットン。後世の戦史研究家が「パットンスマイル」と呼んだ彼独特の笑みを浮かべると、何が起こるか冷や冷やしながら何が起こるか見守っていた人々はホッと安堵のため息を漏らす。

陸軍の試作中戦車T1。当時の米陸軍はルノーFT-17のライセンス生産版であるM1917が主力をしており、開発中の試作戦車もクリスティーの戦車に比べれば旧態然としたものばかりであった。

「コイツはワシが知る限りアメリカでいちばん……いや世界でいちばんの性能を持つ最高の戦車だ! ワシはすっかりこの戦車に魅せられちまった。コイツは合衆国陸軍を地上最強の軍隊にするのに欠かせない装備だ。しかも、だ。こんな途方もないスピードで走る戦車を一体どんなアホウが作ったのかと思えば、ワシと同じく気骨のあるクソッタレとくるじゃないか。まったくもって素晴らしい。戦車もアンタも。ワシはアンタのことがすっかり気に入ったよ。我々のために素晴らしい戦車を作ってくれたことに心から感謝したい。アンタを抱きしめてその頬っぺたにキスしてやりたいくらいになっ! 兵士諸君、そして来賓のみなさん、ワシはここに宣言する。ワシはワシに与えられた権限を使って、コイツが制式採用されるように最大限努力することを誓う!」

そう一席ぶったパットンは破顔一笑してクリスティーの両肩をがっしりと掴んだ。その様子を眺めていた人々はふたりに向けて万雷の拍手を送る。兵士の中には指笛を吹いて歓声を上げる者もいた。

T1に続いて1930年代に試作されたT2中戦車。T1の拡大発展版であったがこちらも量産には至らなかった。

パットンの派手なパフォーマンスに周囲が盛り上がりを見せる中、ひとり冷静だったのがクリスティーだ。「少佐、やりすぎだよ。これでは茶番だ」とパットンにだけ聞こえるように小声で囁く。彼は以前からパットンのことをよく知っていた。M1919を発表した際には実車をこと細かく検分してから専門的な質問を投げかけてきた若き将校、M1928のデモ走行の際には、そのスピードに感嘆の声を漏らし、開発者である自分を大袈裟なほど褒め称えてくれた壮年の将校、それが目の前の男だということは最初からわかっていたことだ。そして、彼が第一次世界大戦で上げた軍功とその尊大さが上層部の不興を買っていることも……。

第二次世界大戦中に撮影された負傷兵を見舞うパットン。彼は勇敢に戦う兵士を称賛する一方で、臆病者や卑怯者を徹頭徹尾嫌い軽蔑した。こうした彼の性格が1943年8月の「兵士殴打事件」へと繋がる。

それに対してパットンは笑顔を崩すことなくこう返した。
「将校たる者、これくらいの腹芸ができなくては部下の人心掌握などできんよ。それにアンタとアンタの戦車が合衆国に必要なことは嘘偽りのない事実なのだ。だが、陸軍内にはその価値を理解できない連中も多い。正直なところ採用への道のりは険しいかもしれんが、ワシは宣言通り、アンタの戦車が採用されることに協力を惜しむつもりはない」

その言葉を聞いたクリスティーはどのように返事をすれば良いのか戸惑っていたが、パットンがすっと右手を差し出したのを見て、彼にしては珍しく、ぎこちない笑みを浮かべてその手を取ることにした。

試乗後に顔見知りの代議士が突き付けた現実
それに対する軍人パットンの返答は……?

多少のハプニングはあったものの、フォート・マイヤー駐屯地で開催された試作戦車のデモンストレーションは恙なく終わった。終了後もパットンとクリスティーは意見交換を繰り返し、ふたりが別れるときには「友人」と言って差し支えないほどの親しい間柄になっていたという。クリスティーと別れ、上機嫌で従兵の待つスタッフカーに戻ろうとするパットンに、身なりの良い中年紳士が背後から声をかけて来た。
「やあ、ジョージ。今日は面白いショーを見せてもらったよ。キミはすっかりあの戦車を気に入ったみたいだね。誠に結構なことだ」

中将時代のパットンのポートレイト。常に軍人らしくありたいと考えていた彼は、「戦闘用の面構え」と彼自身が呼んでいた厳しい表情の写真が多く残されているが、気を許した人間には、このような笑みを浮かべた表情を見せることもあった。

その声を聞いたパットンの表情はたちまち曇り、もとの厳しい軍人の面構えに戻る。振り返って声の主を一瞥すると、パットンの想像通り、ワシントンD.C.勤務で顔を知った上院議員であった。
「フン、アンタか。ワシをファーストネームで呼ぶ権利は、家族と上司、そして親しい友人にしか与えていないのだがね」
議員は人当たりの良い笑みを浮かべているが、その目はけっして笑ってはいない。骨の髄まで軍人だったパットンは陸軍省長官を務めたドワイト・フィリー・デービスのような数少ない例外を除いて政治家という人種を生理的に嫌悪していた。

「デビスカップ」の創設者として知られるドワイト・フィリー・デービスはテニスからの引退後、政治家として活躍。カルビン・クーリッジ大統領のもとで陸軍長官を務めた。
ドワイト・フィリー・デービス
(1879年7月5日生~1945年11月28日没)
1925~1929年にかけて陸軍長官、1925~1932年にかけてフィリピン総督を務めたアメリカの政治家。ハーバード大学在学中にテニス選手として活躍し、ホルコム・ウォード、マルコム・ホイットマンとともに「ハーバードの3人組」と呼ばれる。1899~1901年にかけて全米ダブルスを3連覇し、1901年のウィンブルドン選手権で男子ダブルス準優勝している。テニスとの結びつきから米英対抗戦の「デビスカップ」を創設。現在まで続く男子テニス国際大会へと発展した。第一次世界大戦が勃発すると少佐の階級を得て第69歩兵連隊の参謀長を務めた。その後、政界に進んだデービスは陸軍次官補を経て陸軍長官に就任。パットンの機構戦略拡充案を高く評価し、実現を目指したが予算不足により断念している。

尊敬できる強い敵と正々堂々戦って勝つことにしか興味のないパットンにとって、打算と駆け引き、嘘と裏切り、嫉妬と陰謀が渦巻く政治の世界は理解がし難く、できればそのような世界で生きる連中とは関わり合いになりたくないと考えていた。しかしながら、政治の中枢である首都勤務ともなれば、必然的に政治家や役人、産業界などのロビイストとも顔見知りになる機会が増える。ワシントンD.C.での勤務はアイゼンハワーのようなかけがえのない親友が得られた反面、パットンが思う「好ましからざる人々」と付き合わざるを得なくなったことが彼にとってはストレスであった。今、声をかけて来た代議士もそのような職務の上で縁を持ったひとりであり、パットンは彼を友人と認めていない。

1950年末にNATO最高司令官に就任したアイゼンハワーは、1952年7月に軍を退役。同年の米大統領選挙では共和党の大統領候補となり、民主党候補のロバート・タフトを下して第34代米大統領となる。この勝利により20年ぶりに共和党は政権を奪回した。
ドワイト・デイヴィット・アイゼンハワー(1890年10月14日生~1969年3月28日没)
アメリカの軍人・政治家。テキサスの農家の三男として生まれた彼は、高校卒業後に陸軍士官学校に進学する。第一次世界大戦には参加せず、フォックス・コナー将軍の副官としてパナマ運河防衛の任に当たった。1932年に陸軍参謀総長ダグラス・マッカーサーの副官となり、彼が職を解かれてフィリピン軍事顧問に就任すると、マッカーサーの指名により副官として赴任。1939年までフィリピン軍の育成に当たる。第二次世界大戦の勃発後は北アフリカ方面軍司令官を経て、1943年末に連合軍最高司令官に就任。終戦直前に元帥の地位を得る。戦後に軍を退役したアイゼンハワーは共和党の大統領候補となり、1953年に第34代アメリカ合衆国大統領となる。しかし、ハンガリー動乱には手出しをせず、インドシナ戦争ではフランスの援助要請を断り、スエズ動乱では英米の出兵に反対するなど、一貫して米国の軍事介入を否定したことから、当時は東側諸国に融和的だとして「愚鈍な大統領」との評価もあった。ただし、これらに米軍の介入した場合、ソ連との全面戦争に繋がる可能性も高かったことから、今日では彼の治世を再評価する動きもある。

「で、上院議員のアンタが軍人のワシにいったい何の用があるんだね? お茶のお誘いなら丁重にお断りさせて頂くが……?」
「ハハハハ、相変わらずだね、ジョージ。もちろん、あの戦車のことだよ。クリスティーの作った戦車は本当に素晴らしい。キミの見立て通り、現時点で世界最高の性能を持つ戦車だ。それは私も認めるよ」
議員から出た予想外の戦車に対する褒め言葉だったが、パットンは警戒して彼の言葉を額面通りには受け取らない。

「しかしだね、合衆国政府はクリスティーの戦車を採用することは絶対にないよ。世界大恐慌によってアメリカ社会が疲弊し切っているんだ。税収は落ち込み、財政も非常に厳しい状況にある。合衆国政府のどこにあんな高価なオモチャを買う余裕があるんだい? キミも知ってのことと思うが、首都では第一次世界大戦に従軍し、不況で生活が困窮した復員兵たちが、河川敷にキャンプを張って軍人恩給の支払い繰り下げを求めて連日のようにデモ行進を行っている。だが、恩給の即時支払いは財政難を理由に上院で否決された。そんなときに新型戦車の調達だなんて世論が許さんよ。もしもそんな予算があるのなら経済の立て直しや福祉に使うべきだと私は思うのだがね?」

1929年9月4日に始まったアメリカの株価暴落に端を発した世界恐慌により、アメリカ経済は低迷し、失業者が街に溢れた。これに対し、ハーバート・フーヴァー大統領は有効な対策を打てず、次代大統領のフランクリン・ルーズベルトがニューディール政策を実施するまでアメリカ経済は未曾有の不況に喘ぐことになる。

ほら来た。やはり財政を理由に新型戦車の調達を否定して来たか。だが、然るべき軍事力があってこそ国家は存在し得るのだ。経済や福祉、個人の自由や権利などは国がなくなってしまえば論じることもできん。そうした問題は軍備を整備したあとで考えてもけっして遅くはない。まず最優先すべきは国防だろうに……そう考えるパットンは、あまりにも軍人らしい軍人であり過ぎた。彼は議員の言葉を聞いてもその主張に耳を傾ける気は毛頭なかった。

本文中で議員が述べていた「不況で生活が困窮した復員兵たちが、河川敷にキャンプを張って軍人恩給の支払い繰り下げを求めて日のようにデモ行進を行っている」とは”ボーナスアーミー”のこと。仕事を失い、生活に困窮した第一次世界大戦の復員兵が1932年春ごろからワシントンD.Cに集まり始め、6月には3万人以上が軍人恩給の支払い繰り下げを求めてデモ行進を始めた。彼らは秩序だって行動しており、暴動や略奪などの問題行動を起こさなかったが、フーヴァー大統領は武力で解散を図った。7月28日には鎮圧部隊の警察官が元軍人ふたりを射殺したことでデモ隊と警察が激しく激突した。これを受けてフーヴァーはマッカーサー陸軍参謀総長に鎮圧を命令。ボーナスアーミーを「共産主義者による連邦政府に対する破壊工作」と考えたマッカーサーは直ちに陸軍部隊を派遣。デモ隊に対して必要以上の武力を行使し、河川敷の野営地を強襲し、女性や子供を含む多数の死傷者を出してしまう。これが社会的な批判を集めたことで、マッカーサーの参謀総長解任の要因へと繋がり、フーヴァーは再選をかけた同年11月の大統領選でフランクリン・ルーズベルトに大差をつけられて敗れることになる。なお、このときの鎮圧部隊指揮官がパットンであった。彼は退役軍人による主張の正当性を認めていて1度は任務を拒否したが、マッカーサーが抗命罪をちらつかせたことで、やむなく出動している。後年パットンはこの事件のことを「自分の軍歴の中でもっとも不名誉な任務」と語っている。パットンは上官の命令を実行したに過ぎず、責任なしとされてこの件で一切の処分を受けてはいない。

「経済の失敗はアンタたち政治家の責任だろう。そのツケを軍に回して欲しくないものだな。断言しても良いが合衆国は10年以内に再びヨーロッパで戦争をする。それまでに然るべき戦力を整えておかなくては大勢の若者が死ぬことになるのだぞ。そうなれば軍備を疎かにしたアンタたちの責任になる。わかっているのかっ!?」

第一次世界大戦の敗戦と世界恐慌により政治・経済・人心のいずれも疲弊していたドイツでは、ヴェルサイユ体制の打破をスローガンにしたヒトラー率いるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が勢力を伸ばし、国民の支持を受けて1932年7月の国政選挙で第1党になり、翌1933年1月にヒトラーが首相に任命される。戦争の足音は再び近づいていたが、この時点ではまだ世界はその危険性を認識していなかった。

怒気を孕んだ声でパットンが吠える。だが、相手はそれに怯むことなく冷静に反論を加えてきた。
「ヨーロッパで戦争だって? いったいどことキミは戦うつもりなんだい? 中央同盟はすでになく、その盟主だったドイツは多額の賠償金とハイパーインフレで経済はボロボロ。ベルサイユ条約で軍備は厳しく制限され、国内政治は各派入り乱れての騒乱状態にあるじゃないか。それに合衆国はもう二度と再び旧大陸に干渉することはないよ。モンロー主義ってやつサ。それが国民の総意というものだ。キミが戦争狂なのは私も知っているが、もう少し現実を見たほうが良いのではないかね? まあ、これ以上の議論は時間の無駄だな。いずれにしても私はあの戦車の採用はないと信じるよ。それでは失礼する」

米陸軍士官学校・ウェストポイントに建立されたパットンの銅像。騎兵隊を指揮し、南北戦争と先住民(インディアン)戦争を戦ったジョージ・アームストロング・カスター将軍と並び、現在でもパットンはアメリカ人に人気のある軍人である。なお、今回の記事は各種記録とパットンが妻・ベアトリスに向けて綴った手紙をもとに再構成した。パットンに話しかけた議員が誰なのかは、手紙の中に記述がなかったため不明である。

そう言い残して去って行く議員を「政治屋め!」と呟いて憎々しげに見送るパットン。彼の第六感は次の戦争がそう遠くないことを告げていた。にも関わらず、米陸軍の機甲戦力は第一次世界大戦の終結時点からほとんど変わっていない。「このままでは取り返しのつかないことになる」と焦りを感じた彼はワシントンD.Cに戻り次第、各方面にクリスティー戦車の採用を働きかけることをあらためて決意した。この日から新型戦車採用へ向けての彼の戦いは始まったのだ。

■参考文献
・猛将パットン “ガソリンある限り前進せよ” 
著:チャールス・ホワイティング/訳:田辺一雄(サンケイ新聞社出版局刊)
・パットン対ロンメル 軍神の戦場
著:デニス・ショウォルター/訳:大山 晶(原書房刊)
・PATTON A GENIUS FOR WAR
著:CARLO D’ESTE(Harper Perennial刊)
・米英機甲部隊 “全戦車、発進せよ!”
著:ケネス・マクセイ/訳:菊池 晨(サンケイ新聞社出版局刊)
・世界の戦車メカニカル大図鑑
著:上田 信(大日本絵画刊)
・月刊PANZER各号
(アルゴノート刊)
・パットン大戦車軍団(原題:PATTON)
監督:フランクリン・J・シャフナー/脚本:フランシス・フォード・コッポラ(20世紀フォックス)
・WEAPONS AND WARFARE/CHRISTIE TANKShttps://weaponsandwarfare.com/2020/08/25/christie-tanks/#google_vignette 2024年3月1日閲覧)
・SPORTS CAR DIGEST/J. Walter Christiehttps://sportscardigest.com/j-walter-christie 2024年3月1日閲覧)
・OUTER LIMITS OF ARMORhttps://www.historynet.com/outer-limits-armor 2024年3月1日閲覧)
・TOP WAR/John Walter Christie and his tankshttps://en.topwar.ru/58982-dzhon-uolter-kristi-i-ego-tanki.html  2024年3月1日閲覧)
・Military History Encyclopedia on the Web/Christie M1931/ Medium Tank T3/ Combat Car T1http://www.historyofwar.org/articles/weapons_christie_M1931_medium_tank_T3.html 2024年3月1日閲覧)
・Tank Archives/Christie M1931https://www.tankarchives.ca/2016/11/christie-m1931.html 2024年3月1日閲覧)
・Альтернативная История/Юрий Пашолок. Передовое проклятье инженера Кристиhttps://alternathistory.ru/yurij-pasholok-peredovoe-proklyate-inzhenera-kristi 2024年3月1日閲覧)
・WikipediA J. Walter Christiehttps://en.wikipedia.org/wiki/J._Walter_Christie 2024年3月1日閲覧)
・WikipediA George S. Pattonhttps://en.wikipedia.org/wiki/George_S._Patton 2024年3月1日閲覧)
・WikipediA Jean Gordon (Red Cross)https://en.wikipedia.org/wiki/Jean_Gordon_(Red_Cross)) 2024年3月1日閲覧)
・WikipediA Dwight F. Davishttps://en.wikipedia.org/wiki/Dwight_F._Davis 2024年3月1日閲覧)
・WikipediA Dwight D. Eisenhowerhttps://en.wikipedia.org/wiki/Dwight_D._Eisenhower 2024年3月1日閲覧)
・Soldier Against Soldier: The Story of the Bonus Armyhttps://www.npr.org/2005/02/13/4494446/soldier-against-soldier-the-story-of-the-bonus-army 2024年3月1日閲覧)
・WikipediA Bonus Armyhttps://en.wikipedia.org/wiki/Bonus_Army 2024年3月1日閲覧)

3月27日ついに発売! 特典には新作OVA「タイチョウ・ウォー!」も収録!!
『ガールズ&パンツァー 最終章』第4話 Blu-ray&DVD

冬季無限軌道杯の準決勝となる大洗女子学園vs継続高校戦と聖グロリアーナ女学院vs黒森峰女学園戦を納めた『ガールズ&パンツァー 最終章』第4話のBlu-ray&DVDが3月27日に発売される! 特典には新作OVA「タイチョウ・ウォー!」をはじめ『最終章』第4話上映記念舞台挨拶や「大洗あんこう祭2023スペシャルステージ」など豪華特典が満載。これは買いだ!

『ガールズ&パンツァー 最終章』第4話(Blu-ray)
『ガールズ&パンツァー 最終章』第4話
発売日:2024年3月27日(水)
Blu-ray特装限定版:8580円(税込)
DVD:6380円(税込)
※特典・仕様は予告なく変更になる場合がございます。
※特装限定版は予告なく生産を終了する場合がございます。
(C)GIRLS und PANZER Finale Projekt

また、取り扱い店ごとに異なる特典も用意されている。特典の内容については下のムービーと合わせてオフィシャルサイトをチェックしよう! 収録される新作OVA「タイチョウ・ウォー!」の予告映像も必見だ。

『ガールズ&パンツァー 最終章』第4話 Blu-ray特装限定版 特典ディスクダイジェスト
『ガールズ&パンツァー 最終章』第4話 Blu-ray&DVD 法人特典紹介
『ガールズ&パンツァー 最終章』第4話Blu-ray&DVD収録 新作OVA「タイチョウ・ウォー!」予告映像
『ガールズ&パンツァー 最終章』第4話Blu-ray&DVD収録
新作OVA「タイチョウ・ウォー!」
【あらすじ】
若者の戦車離れが危惧される昨今。次世代に高校戦車道の魅力を伝えるべく、各校の隊長が集まりサミットが開かれていた。各々が自由にアイデアを出すが、会議はどんどん迷走していって…?
【スタッフ】
監督:水島 努/脚本:吉田玲子/作画監督:杉本 功/アニメーション制作:アクタス
【キャスト】
西住みほ:渕上 舞/河嶋 桃:植田佳奈/ダージリン:喜多村英梨/ケイ:川澄綾子/アンチョビ:吉岡麻耶/カチューシャ:金元寿子/エリカ:生天目仁美/西 絹代、鴨乃橋:瀬戸麻沙美/ミカ:能登麻美子/マリー:原 由実/エクレール:東山奈央/エル:中村 桜/マイコ:大橋歩夕/ケビ子:飯沼南実/ソフィア、祐子:橋本ちなみ

クリスティー式サスペンション開発秘話のバックナンバーはこちら!

■第1回

『ガールズ&パンツァー』はクルマネタの宝庫! 大ヒット上映中の『最終章』第4話も見逃すな! キミはクリスティー式サスペンションを知っているか?

2023年10月6日(金)から劇場上映が始まった『ガールズ&パンツァー 最終章』第4話。第3話の上映からじつに2年ぶりの新作ということで一日千秋の思いで新作の上映を待ち望んだファンも多かったことだろう。もちろん、今回もそんなファンの期待を上回る超極上のエンタメ作品となっている。今回、大洗女子学園戦車道チームが対決するのは継続高校だ。『劇場版』でも活躍したミカ・アキ・ミッコが搭乗するBT-42突撃砲が強敵として西住みほら主人公たちの前に立ちはだかる! フィンランドがモチーフの学校なのでT-26やT-34などの旧ソ連製戦車も登場するゾ。今回はそんな継続高校にフィーチャーする。

■第2回

『ガールズ&パンツァー 劇場版』や『最終章』第4話で活躍する「継続高校」BT-42突撃砲のクリスティー式サスペンションとは? その成り立ちを探る!

2023年11月23日(木祝)から4D上映もスタートし、ますます人気が加熱する『ガールズ&パンツァー 最終章』。主人公・西住みほが乗るIV号戦車が試合開幕とともに撃破され、大波乱の試合展開となった第4話。対する継続高校は得意の機動戦を展開し、しかもフィンランドをモチーフとする学校だけに雪上戦にも長けている。そんな同校のミカ、アキ、ミッコが搭乗するフラッグ車がBT-42突撃砲だ。この自走砲は鹵獲した旧ソ連製のBT-7にイギリス製の榴弾砲を組み合わせたフィンランドの独自開発車輌で、足まわりにはアメリカ人技術者ジョン・W・クリスティーが発明した「クリスティー式サスペンション」が使用されている。ミリタリーファンやガルパンファンにはすっかりお馴染みのクリスティーだが、優れた自動車技術者であったにも関わらずなぜかクルマ好きにはその名は知られていない。そこで今回は『ガールズ&パンツァー 最終章』第4話の情報とともに、クリスティーの前半生を彼の開発したクルマとともに紹介していこう。

■第3回

『ガールズ&パンツァー』でも話題の「クリスティー式サスペンション」を発明した天才エンジニアが辿った苦難の道! 戦車開発がブレイクスルー

2023年10月の上映から大きな話題を呼んだ『ガールズ&パンツァー 最終章』第4話。にて、継続高校のフラッグ車として活躍するのがフィンランド製の自走砲BT-42突撃砲だ。この戦車に採用された「クリスティー式サスペンション」は、優れた悪路走破性に加え被弾による損傷にも強く、履帯を外した状態で車輪走行が可能という特徴を持つ。前回はこの戦車用サスペンションを発明したアメリカの自動車技術者ジョン・W・クリスティーの前半生を、彼の開発した「ダイレクト・ドライブ方式」FWD自動車とともに紹介した。今回はその続きとして、レース活動を縮小し、自動車ビジネスを断念したあとの彼の人生を見て行くことにしよう。

■第4回

『ガールズ&パンツァー』で活躍するBT-42突撃砲のご先祖様! クリスティー式を採用したM1931とは? 天才エンジニアの苦心が戦車で結実

2023年10月の上映から大きな話題を呼んだ『ガールズ&パンツァー 最終章』第4話にて、継続高校のフラッグ車として活躍するのがフィンランド製の自走砲BT-42突撃砲だ。この戦車に採用された「クリスティー式サスペンション」は、優れた悪路走破性に加え被弾による損傷にも強く、履帯を外した状態で車輪走行が可能という特徴を持つ。この戦車の原型となったのが、アメリカの自動車技術者のジョン・W・クリスティーが発明した「クリスティー戦車」だった。前回はクリスティー式サスペンションとコンバーチブルドライブ(装輪装軌併用式)を採用したM1928が歩兵戦車委員会の審査で落とされるも、改良型の試作を許されるところまで語った。今回は完成した新型試作戦車・M1931を中心に解説して行くことにする。

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著者プロフィール

山崎 龍 近影

山崎 龍

フリーライター。1973年東京生まれ。自動車雑誌編集者を経てフリーに。クルマやバイクが一応の専門だが、…