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ミッレミリアの事故から生まれた初代ジュリエッタの軽量レーサー
比較的高年式のエントリーが多かった『さいたまイタフラミーティング2023』の会場で、 ひと際異彩を放っていたのが、1960年のジュネーブ・サロンで発表されたアルファロメオ・ジュリエッタSZだった。
第二次世界大戦前は現在のフェラーリのような高級車メーカーだったアルファロメオは、戦後、大衆車メーカーへと転身する。しかし、モータースポーツへの情熱は相変わらずで、1951年のF1撤退後もスポーツカーレースの世界で活躍を続けていた。ジュリエッタSZが誕生したのも、1956年のミッレミリア(1927~1957年にイタリアで行われた公道レース)での事故が大きく影響している。
1953年にワークス活動を停止していたアルファロメオだったが、この年のミッレミリアでの勝利を望んでおり、ジュリエッタ・スプリント・ヴェローチェでエントリーした5チームのプライベーターを支援していた。ところが、そのうちのドーレとカルロのレート・ディ・ブリオーロ兄弟が駆るマシンが、レース中にコントロールを失い橋の欄干に激突し、そのままオンブローネ川に飛び込んでしまう。幸いにして兄弟は一命を取り留めたがマシンは大破。後日、アルファロメオに愛機のリペアを依頼するも修理不能と宣告されてしまった。
諦めきれなかったブリオーロ兄弟は、同じミラノ市内にあるカロッツェリア・ザガートを訪れて修理を相談した。するとデザイナーのエリオ・ザガートは「ボディは完全に作り直しにはなるが……」と断った上で修復を承諾した。エリオはペチャンコになった兄弟の愛機からどうにか使えそうな鋼板フロアを使用し、その上にチューブラフレームとアルミパネルで作られた流麗なボディを架装したのだ。それと並行して廃車から降ろした1.3L直列4気筒DOHCエンジンは圧縮比を9.7:1まで引き上げ、最高出力は100psへと向上。変速機は新たにフルシンクロの5速MT組み合わされた。
こうして修理が終わったブリオーロ兄弟のマシンは、以前に比べて120kgも軽くなった車体とあって、小排気量ながら最高速度は200km/hにも達した。
その後のレースでの活躍は華々しく、兄弟のマシンに敗れたライバルたちはこぞってザガートに同じマシンの製作を依頼したのだ。最終的に世に送り出された台数は18台。のちにこのマシンはジュリエッタSVZと呼ばれるようになる。
レースでのSVZが活躍からカタログモデルのジュリエッタSZが誕生
SVZの高性能ぶりに目を見張ったアルファロメオは、ザガートに対してモータースポーツへの参戦を前提としたアルミボディを使ったカタログモデルの製作を発注する。それが1960年のジュネーブショーで発表されたジュリエッタSZであった。
ジュリエットSZは当時ザガートに所属していたエルコーレ・スパーダの手でスタイリングをリファインし、オールアルミ製ボディやプレキシガラスの使用など軽量化の徹底はSVZ譲りで、速く、美しく、そして大変高価なクルマとなった。
同車の総生産台数は217台。そのうち、1962年の生産終了間際には空力性能の向上のため、オリジナルの「コーダ・トンダ(ラウンドテール)」を「コーダ・トロンカ(カムテール)」に改められ、ディスクブレーキを新たに装備したモデルが30台生産された。なお、コーダ・トンダの前期型をSZ1、コーダ・トロンカの後期型をSZ2と呼ばれている。
特徴的なボートテールが美しいアルファロメオ・スパイダー・シリーズ1
1966年~1993年の長きに渡って生産が続いた初代アルファロメオ・スパイダー。その中でも最初の4年間に生産されたシリーズ1をテールの下がった独特なリアデザインから「ボートテール」と呼ぶ。このクルマの美しいスタイリングはカロッツェリア・ピニンファリーナが担当しているが、息子のセルジョではなく、引退する前の最後の仕事としてバッティスタが手掛けている。
そのスタイリングの源流を辿ると、1956年のトリノ・ショーで発表されたスーパーフロー(引退したレーシングカーの6C 3000CMを改造したショーカー)へと辿り着く。メカニズムは1962年に誕生したジュリアシリーズのものを使用し、それにピニンファリーナが長年の研究の成果である空力ボディを架装したというわけだ。
心臓部に1.6L直列4気筒DOHCを搭載したスパイダー・デュエットとしてデビューした同車は、1967年に1.75Lに排気量が拡大されて1750スパイダー・ヴェローチェとなり、1968年にエントリーグレードとして排気量を1.3Lに縮小したスパイダー1300ジュニアが追加されている。
1970年の大幅なMCでスパイダーがシリーズ2に進化するとボートテールは廃止され、より空力性能に優れた直線的なコーダ・トロンカボディとなった。