清水浩の「19世紀の技術を使い続けるのは、もうやめよう」 第2回

脱・温暖化その手法 第2回 なぜこの連載を始めることになったのか ーこの連載を始めたい理由・その必要性—

温暖化の原因は、未だに19世紀の技術を使い続けている現代社会に問題があるという清水浩氏。清水氏はかつて慶應大学教授として、8輪のスーパーEVセダン"Eliica"(エリーカ)などを開発した人物。ここでは、毎週日曜日にEVの権威である清水氏に、これまでの経験、そして現在展開しているEV事業から見える「今」から理想とする社会へのヒントを綴っていただこう。

書籍執筆は早急の事態の周知、解決には繋がらなかった

連載を始めたい理由は、温暖化を抜本的かつ、人々が思うより圧倒的な速さで解決しなくてはならないと思うためである。

しかも、その方法はCO2を減らすための現代の技術を使い、普及させれば良いということである。

それを可能にするには、多くの人々に、なるほどと思って頂き、それが世論になって、日本全体を動かすムーブメントになることが必要であると考えるためでもある。実はこの「現代の技術」ということが大きなポイントになってくる。追って説明したいので、少し気にとどめておいていただきたい。

温暖化を解決するにはムーブメントが必要だという思いを持ったのは昨日、今日のことではない。例えば2007年に『温暖化防止のために 一科学者からアル・ゴア氏への提言』(ランダムハウス講談社)という本を書いた。それに続いて、『脱「ひとり勝ち」文明論』(ミシマ社)という書籍も書いた。けれどもそれで何かが変わった訳ではなかった。やはり、書籍を出版するだけでは、世界を動かすような大きな動きとはなり得なかったのである。

それから10年以上が経ち、温暖化の深刻さが社会に浸透してきた。また当時の技術がさらに進化した。このために、今なら温暖化を抜本的に解決するという考えが受け入れられ易いと考えるようになった。

その浸透のさせ方として、まず今回のように、SNSを使うということも、当時とは異なることである。

15台以上の電気自動車を開発した経験を活かして

では、なぜ温暖化が抜本的に解決できると考えているかを理解して頂くために、エリーカなどを始め15台以上の電気自動車を開発に至った私の経歴についてお話しておきたい。

小さい頃を思い出してみると、そう言えば、もの心が付く頃から、車が好きだった。車の音が聞こえると、矢も楯もたまらず、飛び出していくという子だった。

大学は当然機械工学に行き車をやるつもりだったが、入学した1966年当時は自動車公害と交通事故が最大の社会問題だった。そこで自分の職業を自動車とすることに迷いを感じた。その結果、応用物理という、当時最も基礎的と思える分野を選び、そこで学びながら、自分の行き先を考えることとした。

ということから、長いまわり道があって、最初の就職先は国立公害研究所(現・国立環境研究所)で、そこでの研究から、ようやく電気自動車の研究にたどり着けたのは1970年代の終わり頃である。

筆者が初めて作ったスバルレオーネベースの電気自動車。ボンネットの中に左右1輪ずつ電気モーターを付けた。これで、左右の回転差がある旋回時にも滑らかに走れることを確かめた。その結果がインホイールモーターの開発につながった。

1988年には温暖化が地球的問題として浮上し、電気自動車は温暖化対策にもなることから、この研究・開発をさらに進めて来た。

1997年に慶應大学の環境情報学部に転職し、環境関係の講義をしながら電気自動車の開発と温暖化への対応を考えて来た。その中で、インホイールモーターによる8輪駆動のカズ(KAZ)やエリーカ(ELIICA)といった電気自動車を生み出して来た。エリーカではイタリア・ナルドのテストコースで、370.3km/hの最高速度を記録することに成功した。

その後、2013年に定年退職をして今、株式会社e-Gle(イーグル)の社長をしている。e-Gleではインホイールモーターを中心とした、電気自動車の要素技術の開発を行っている。

ということで、温暖化問題に関しては1988年になされた初めの議論から耳にしていたことから、これの対策はどんな技術的手段を使うのかにあるのだと考え、研究開発をして来たということである。

そんな経験から、これからできるだけわかりやすくそして合理的な考え方で、温暖化を避けるための考え方とその理由について語って行きたいと思っている。

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著者プロフィール

清水 浩 近影

清水 浩

1947年宮城県仙台市生まれ。東北大学工学部博士課程修了後、国立環境研究所(旧国立公害研究所)に入る。8…