ネピアはユンカースJumo 204をE102カルベリン、Jumo 205をE103カットラスとしてライセンス生産を開始するも、市場での需要はほとんど無く、商業的には明確な失敗とされた。1930年代半ばという時代において、航空機用ディーゼルエンジンの商業化は時期尚早だった。これはオリジナルを製造していたユンカースでの状況も同じであり、航空機用ディーゼルエンジンが注目されるのは1930年代末、それも軍用を通じてのことだった。
時は流れて第二次世界大戦末期の1944年、イギリス海軍はMTB(Motor Torpedo Boat/高速魚雷艇)の被弾生存策の確立を模索していた。当時のイギリス海軍の魚雷艇は、高速性能を発揮するためにエンジンはイソッタ・フラスキーニやパッカード、ロールスロイスなどの舶用ガソリンエンジンを使っていたのだが、燃料がガソリンだったことから被弾時に炎上しやすいという大きな欠点があった。そこで主要なエンジンメーカーに被弾時でも燃料が引火しにくいディーゼルエンジンの可能性を打診したものの、いずれのメーカーも即答できるだけの材料は持っていなかった。軽量小型高出力の舶用高速ディーゼルは製品的にエアポケットだったのである。
第二次世界大戦の趨勢も決した1945年半ば頃、ネピアはイギリス海軍省の当該部署に対して、画期的な舶用小型高速ディーゼルエンジンを提案した。E130という試作番号が与えられていたこのエンジンは、かつてネピアがユンカースからライセンスを購入した2ストロークサイクル対向ピストン構造を基本としており、カルベリンに似た6気筒エンジンを3基、逆三角形に組み合わせたユニークな構造の18気筒エンジンとなっていた。似た構造としては5年程前に本家のユンカースで6気筒を4基菱形に組み合わせたモデルであるJumo223が試作されており、ネピアがそれを参考にしていたがどうかについては言及は無かったものの、何らかの影響があったのは間違い無かった。
1946年初め、イギリス海軍省はネピアの提案を受け入れ試作契約が締結された。程なくして単気筒の試験用エンジン、このエンジンを3基逆三角形状に組み合わせた3気筒エンジン、そして6気筒×3の試作18気筒エンジン6基の開発製造がスタートした。ここでネピアの水冷2ストロークサイクル対向ピストンディーゼルの具体的な構造を解説しておこう。対向ピストンとは一本の長いシリンダーの両端から燃焼室を共用する形で二つのピストンが挿入されている構造を指す。当然のごとくコンベンショナルなバルブメカは存在せず、吸排気はシリンダー側面に開けられた吸排気ポートを通じて行われる。ポートの開閉はピストンが行うシンプルなピストンバルブ構造である。クランクシャフトはシリンダーの上下それぞれにセットされており、両者はギアトレインで結合されていた。すなわち仮にスペック上は6気筒だとしても、実際には12気筒に等しかったということである。バルブを持たない2ストロークサイクルであれば排気と吸気を同時に行うための掃気行程が必須であり、それには掃気ポンプという名の過給機も必要だったが、これはクランクシャフトの動力を使った機械駆動の遠心圧縮機が使われた。
ネピアの設計において最大の特徴だったのは前述の通り6気筒対向ピストンを3基逆三角形に組み合わせていたことであり、クランクシャフトは三角形のそれぞれの頂点部にセットされていた。6気筒×3シリンダーブロック、それぞれのシリンダーには上下から合計12個のピストンが挿入されており、要するに見た目は6気筒×3の18気筒でありながらピストンは倍の36気筒分が使われていたというまことにユニークなデザインだった。それぞれのクランクシャフトには隣接するシリンダーのコンロッドとピストンが接続されておりクランクシャフト側から見ればV型12気筒エンジンが3基組み合わされているのと同じだった。いずれにしても6気筒分の長さに補機分のプラスアルファを加えたサイズの中に36気筒分のピストンを収めるというムダの無いパッケージングとなっていた。ネピアによるこのユニークなエンジンは、その三角形のシリンダーレイアウトを取って、ギリシャ文字のデルタにちなむ「デルティック」という名称が与えられた。試作時の名称は「デルティックD18」、もしくは「デルティック18」だった。