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葵の御紋はココで生まれた?
昨夜から「一日ずっと曇りで雨は降らない」と自信たっぷりに力説していた天気予報が完璧にハズれた。宿のパーキングからバイクを出そうとしたとたん灰色の空が泣きだす。雨装備への変更を強いられ、出発が半時間遅れた。
いつ雨が降ろうが降るまいが、それはぜんぜん気象庁のせいじゃないが、なんとなくあの連中が悪い気がして、気象庁を口ぎたなく罵りながら走り出す。その天罰なのか、たちまち雨足が強くなり、タカハシは全身びちゃびちゃの濡れネズミになった。
徳川将軍家のマーク「三つ葉葵」の家紋の由来には諸説あるが、家康のおじいちゃんにあたる松平清康が、吉田城攻めで活躍した本多正忠から、ここ伊奈城で譲り受けた「立ち葵」をリメイクしたものだともいわれる。もっと人気があってもおかしくない伊奈城址だが、訪れる人はほとんどなく、田んぼの真ん中に小さな本丸跡(の模擬櫓)がポツンと寂しげにたたずんでいるだけだった。
伊那城址をあとに国道1号を北上しはじめると、名鉄名古屋本線 小田渕駅あたりでフューエルメーターが動いた。トリップ361.0km地点で、フューエルメーターは残1目盛り。同時にガソリンマークの表示が点滅し、ガス欠警告が始まった。
岡崎市へ続く東海道には、藤川宿をはじめとして、江戸情緒あふれる町並みが数多く残っている。とはいえ、それは現在の国道1号ではない。今では脇道となり、途切れ途切れに走っている旧東海道の沿線だ。
家康 生誕の地へ
藤川宿が遠のくにつれ雨も遠のき、路面が乾きはじめた。岡崎城に差しかかるころには、晴れ間も覗きだす。岡崎城は、家康的には素晴らしい見所だが、ガス欠的にはあまり意味ないので、大手門を眺めただけで先を急ぐことにした。
桶狭間へは用足しに
ツーリング中にトイレに行きたくなるのは自然の摂理。生理的欲求に急き立てられ、血まなこでトイレを探していたタカハシは、ふと気づいたときにはすでに桶狭間古戦場前にいた。ほとんどの古戦場にはトイレがあることを本能的に察知していたからである。
トイレさえ済ませれば満足のタカハシだったが、ここは家康が大活躍したあの桶狭間だ。せっかくだからと場内をネチネチ執念深く見物し、写真を撮って回った。だが、そのあと調べてみると、じつは家康は、桶狭間とほぼ無縁の人物だったことが判明。参戦はしたものの、どこかの城へ飯を運んだ程度で戦闘が終わり、岡崎のお家に帰ったそうだ。ろくに歴史を知らないのに歴史っぽい記事を書こうとすると、こういうミスが起きる。
たぶんいないと思うが、もしこの記事を読んでいる小中学生がいたら、せめて歴史と地理はしっかり学んでおこう。大人になってバイク記事を書くとき困るからだ。ただ、そもそもバイク記事を書く人なんかになると、生きてるだけでもだいぶ困るので、できればこっち方面には堕ちず、あっち方面の公務員か銀行員に成り上がれるよう学習に励むとよい。
遥かなる旅路の果てに
名古屋市を東西に突っ切る国道1号のほとんどは旧東海道とは無関係だ。江戸時代、この区間の東海道は海上路になっていて、旅人は舟で伊勢湾を往き来していたからだ。
現代の国道1号は、名古屋市街を通ってぐるりと湾を迂回し、木曽川と長良川・揖斐川を立て続けに渡る。そしてガス欠チャレンジ初の三重県入りが達成された。
四日市に入るとひたひたと夕闇が忍び寄ってきた。しかたない、今日はもうガス欠をあきらめて明日に持ち越そうと、手近なホテルへ右折を始めたとき、ガタガタぷすんとあっさりエンジンが止まった。クラッチを切り、惰性でバイクを転がしてスルッとホテルへ滑り込む。長かったガス欠旅もここで終わり。そしてGSX-S125は、めでたくガス欠チャレンジ新記録、457.3kmを打ち立てた。
日本橋から四日市まで、ワンタンク11ℓの実走燃費は41.6km/ℓだった。カタログの燃費(WMTCモード)は43.5km/ℓだから、その差はわずか1.9km。まあ誤差の範囲だ。つまり、もしバイクの燃費を知りたければ、メーカーが表示している正確無比のカタログデータをチラッと見れば十分で、いちいちマジで走って調べるようなヤツはAFOだけだということだ。