速さと強さを兼ね備え、3連覇の偉業を成し遂げたウェイン・レイニー【磯部孝夫カメラマンが紡いだWGPの世界】

1980年代から、国内外の二輪レースをファインダーに収めてきた磯部孝夫カメラマン。その秘蔵フィルムをもとに、かつて数多くのファンを魅了したライダーやレースを振り返ってみたい。今回の主役は、WGP(ロードレース世界選手権)500ccクラス3連覇という偉業を成し遂げたウェイン・レイニーだ。

PHOTO●磯部孝夫(ISOBE Takao)

ローソン、シュワンツ、ガードナーらとの激闘で一時代を築く

ウェイン・レイニーはWGP 500ccクラスに1988年から参戦開始。1990年から3年連続チャンピオンとなるなど、一時代を築いた。

WGP(ロードレース世界選手権)3連覇という輝かしい戦歴を誇るウェイン・レイニー。1960年、アメリカ・ロサンゼルス州のダウニーで生まれたレイニーは、幼い頃からダートトラックで腕を磨いた。

1982年にはロードレースに転向し、カワサキのファクトリーチームと契約。すでに全米チャンピオンの座についていたエディ・ローソンのチームメイトとしてAMAスーパーバイク選手権への参戦を開始した。翌年、ローソンはWGPへと転向。チームメイトはウェス・クーリーに変わったが、レイニーは見事にチャンピオンを獲得してみせた。

しかし、カワサキはその年限りでAMAスーパーバイクから撤退。行き場を失ったレイニーに手を差し伸べたのは、1983年にライダーを引退したケニー・ロバーツだった。ロバーツは250ccクラスのGPチームを結成し、そのライダーにレイニーを抜擢したのだ。

期せずしてグランプリサーカスの一員となったレイニーは、ヨーロッパ式の押し掛けスタートに慣れず出遅れることが多かったが、大器の片鱗を発揮。コースレコードとポールポジションを一度ずつ獲得し、ミサノ(イタリア)では表彰台に立つ活躍を見せた。しかし、本人にとっては不本意な成績だったようで、レイニーは翌年のGP参戦のオファーを断り、もう一度アメリカに戻って経験を積むことを決断したのだった。

母国でのレース活動を再開したレイニーは、1986年からホンダと契約してAMAスーパーバイク選手権を戦うことに。1987年にはチャンピオンに返り咲いた。

機は熟した。1988年からレイニーはWGPにカムバック。チーム・ロバーツからラッキーストライクカラーのヤマハYZR500で参戦したレイニーは、7回の表彰台(そのうち優勝1回)を獲得。GP500のルーキーイヤーながら、ランキング3位という見事なリザルトを残した。

いよいよタイトルを目指して臨んだ1989年は、3勝を挙げてチャンピオン争いに絡んだものの、終盤のスウェーデンで転倒。エディ・ローソンが4度目の王者に輝くのを横目で眺めながら、雪辱を誓った。

そして迎えた1990年は、レイニー時代の幕開けとなった。マールボロカラーに衣替えした90年型YZR500(OWC1)のポテンシャルも高く、15戦のうち7勝、表彰台を逃したのはわずか1戦という圧勝ぶり。強さと安定感の両方を身につけたレイニーに敵はいなかった。

1991年はホンダの新エース、ミック・ドゥーハンにタイトル争いをリードされる場面もあったが、最終的には3勝を挙げて逆転。連覇に成功した。

1992年は、画期的な同爆エンジンを得たドゥーハンが開幕ダッシュ。前半の7戦中5勝を挙げて圧倒的リードを築いたが、アッセンの転倒で右足を骨折したことで潮目が変わった。レイニーはそこから猛反撃を開始し、最終的には4ポイント差でロバーツ以来の3連覇を果たした。

もし不運なアクシデントがなければ、1993年もレイニーがタイトルを制していたかもしれない。序盤こそYZR500の車体に悩まされ、ライバルのシュワンツに28ポイントの大量リードを奪われていたレイニーだが、シーズン途中には市販のROCフレームに換装するなどなりふり構わぬ改良を実施。12戦目を迎えた時点では、ついにシュワンツを逆転してポイントリーダーの座にいたのだから。

しかし、運命のミサノでレイニーは激しく転倒。その瞬間、4連覇の夢もライダーとしてのキャリアにも終止符が打たれることとなったのだった。

1988年のアメリカGP。ラグナセカのコークスクリューをラッキーストライクカラーのYZR500が駆け下りる。WGP 500ccの2戦目を母国で迎えたレイニーは、4位でチェッカーを受けた。
1988年は1勝、ランキング3位とGP500ルーキーとしては出色のリザルト。第7戦のオーストリアGPでも3位に入る活躍を見せた。
GP史に残る激戦となった1989年。ポイント争いでホンダのローソンを途中までリードしていたレイニーだが、アンダーストーブ(スウェーデン)で痛恨の転倒を喫し、涙を呑むことに。写真は第10戦のフランスGP。ホールショットを奪ったレイニーだが徐々に遅れをとり、ローソンが逆転ウィン。
必勝を期して臨んだ1990シーズン。緒戦の日本GPは幸先良くポール・トゥ・ウィンを決めて見せた。
2位のガードナーを従えてのウイニングラン。鈴鹿に駆けつけた大観衆の声援に、レイニーは軽く左手を挙げて応える。
鈴鹿の表彰台で「どうだ!」と言わんばかりの笑顔でガードナーを見つめるレイニー。手にしているのは、レーシングウェアを提供していた南海部品のキャップだ。

写真:磯部孝夫(いそべ・たかお)

磯部孝夫

1949年生まれ。山梨県出身。東京写真専門学校(現東京ビジュアルアーツ)を卒業後、アシスタントを経て独立。1978年から鈴鹿8耐、83年からWGPの撮影を開始。また、マン島TTレースには30年近く通い続けたほか、デイトナ200マイルレースも81年に初めて撮影して以来、幾度も足を運んでいる。


キーワードで検索する

著者プロフィール

MotorFan編集部 近影

MotorFan編集部