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日米貿易摩擦から生まれた産物
レクサスは1989年、アメリカにおいて誕生したブランドである。その誕生の背景は以下の通りだ。1970年代は2度のオイルショックに見舞われ、燃費の良い日本車の評価は非常に高まった。一方のアメリカのビッグスリーの製品は燃費が悪いだけでなく、その品質にも大きな問題を抱えていた。1980年代になると日本車の人気は決定的となり、日米貿易摩擦という政治問題にまで発展していく。
そこで政治的な解決策として日本車の輸出自主規制が行われることとなった。需要がどうであれ、日本からの輸出台数に制限がかけられたのである。
日本車の需要が増えるばかりの状態で台数に制限をかけられたわけで、日本車を扱うディーラーは販売価格にプレミアムを付けて売るようになった。つまり定価よりも大幅に高い価格でも日本車は売れたのである。このままではディーラーを潤すだけなので、日本車メーカーはより高価なモデルを用意する必要性に迫られたのだ。しかし、それまでの日本車のイメージは小型大衆車であり、車格にふさわしいブランドを新たに構築する必要があった。先鞭をつけたのはホンダで、1986年にレジェンドを擁してアキュラを立ち上げた。
「完璧への飽くなき追求」
1989年、トヨタはレクサスを、日産はインフィニティを、ともにアメリカでは重要なV8エンジンを搭載した本格的高級車を擁して立ち上げた。しかし両者のスタンスは大きく異なり、インフィニティは日本の伝統的文化に基づいた新しい高級車像という情緒的なアプローチでプレミアム性を構築しようとしたのに対し、レクサスはもの作りに徹底的にこだわって欧米の高級車をはるかに超える品質や機能という実質的価値で勝負にでたのである。
レクサスの広告コミュニケーションは「完璧への飽くなき追求」というキャッチフレーズとともにその品質を徹底的に訴求した。またディーラーサービスにも徹底的にこだわり、それまでのアメリカのディーラーでは考えられなかったような手厚いおもてなしを提供した。
このアプローチは日本車の高品質イメージを有効に活用しつつも車格的な差別化にも成功し、結果レクサスは瞬時にアメリカにおいてプレミアムブランドとしてのポジションを確立することに成功したのである。
遅れた日本への導入
一方ヨーロッパやアジアにおいては、状況は少々異なっていた。アメリカほどの販売台数を見込めなかったせいか、レクサス車をトヨタディーラーで併売してしまったのである。車そのものは高く評価されたが、トヨタブランドとの差別化ができず、ブランド構築がうまくいかなかったのである。
日本でのレクサスブランド導入は2005年と大幅に遅れた。この理由は日本にはクラウンがあり、トヨタディーラーで高級車を売ることに問題がなかったことと、トヨタブランドの上に別ブランドを作ることに当時の豊田英二会長が難色を示したからと言われている。そのため日本でもドイツプレミアムブランドが販売台数を伸ばし、無視できなくなってきた2005年というタイミングになったのだ。