歴史から紐解くブランドの本質【フェラーリ編】

モータースポーツの栄光と美しさの独占こそフェラーリの核心【歴史に見るブランドの本質 Vol.16】

F1での熱狂を体現したような1976年のニキ・ラウダの走り。
F1での熱狂を体現したような1976年のニキ・ラウダの走り。
自動車メーカーは単に商品を売るだけではなく、その歴史やブランドをクルマに載せて売っている。しかし、イメージを確固たるものにする道のりは決して容易ではない。本連載では各メーカーの歴史から、そのブランドを考察する。

もとはレーシングドライバー

フェラーリは皆さんご存知の通り、エンツォ・フェラーリによって1947年に設立された。エンツォはもともとレーシング・ドライバーであり、22歳だった1920年にアルファロメオのドライバーとなった。

車の操縦だけでなく車そのものにも関心が高かったエンツォは、より速い車を求めて優秀なエンジニアをフィアットから引き抜いた。それがヴィットリオ・ヤーノで、この引き抜きは大成功し戦前のアルファロメオの名車を多く産むことになる(ヤーノは第二次世界大戦後フェラーリに合流し、ディーノV6を始めとする名エンジンを産んだ)。

エンツォはドライバーの傍らアルファロメオのディーラーも経営し、1929年に独自のレーシングチーム、スクーデリア・フェラーリを設立する。その後ドライバーとしては引退しチームマネージャーに専念するようになった。1933年、アルファロメオがワークスチームによるレース参戦を休止すると、その活動を事実上引き継ぎ、セミワークス的な体制でレースに参戦した。

右ハンドルの理由

250GTベルリネッタ コンペティツィオーネ。3台のみ製造された貴重な右ハンドル。

スクーデリア・フェラーリの車には跳ね馬のマークが付けられていたが、これは第一次大戦で活躍し戦死したパイロット、フランチェスコ・バラッカの機体に描かれたいたものだ。バラッカの戦死後、バラッカの母親が跳ね馬をモチーフとしたネックレスを従軍していたエンツォに贈ったことがきっかけになっている。

その後エンツォはアルファロメオ首脳陣と対立してアルファロメオを去り、自ら車の開発を始めるが第二次世界大戦が始まってしまう。そして戦後の1947年、ついにフェラーリの名を冠した車を作り始めることとなるのである。もちろん、作るのはレース参加を目的としたレーシング・スポーツカーとそれをベースとしたGTカーである。

ところで、初期のフェラーリのほとんどが右ハンドルだったのはご存知だろうか。これはサーキットの多くは時計回り、つまり右コーナーが多いため右ハンドルの方が重量配分的に有利で、ピットも右側にあるケースが多いためドライバー交代が容易かつ安全だったからである。これはいかにもフェラーリらしいエピソードと言えるだろう。

ピニンファリーナとの独占契約

2012年のジュネーブ・ショーで発表されたF12ベルリネッタがピニンファリーナデザイン最後のモデルとなった。
2012年のジュネーブ・ショー。ここで発表されたF12ベルリネッタがピニンファリーナデザイン最後のモデルとなった。

1950年に始まったフォーミュラワン(F1)にも初年度から参戦、現在に至るまで休みなく参戦している唯一のコンストラクターである。F1コンストラクターチャンピオン16回、ル・マン24時間レース優勝8回、ミッレミリア優勝8回などといった栄光はフェラーリの圧倒的なブランドイメージのベースである。

もうひとつフェラーリの強力なブランドイメージに貢献しているのはピニンファリーナによる美しいデザインであろう。1957年に高級スポーツカーのデザインに関する独占契約をピニンファリーナと結んだことにより、競合他社がピニンファリーナにデザインを依頼できなくなったのだ。栄光と美というスポーツカーにおいて極めて重要な要素を独り占めするブランドは、このように形成されたのである。

1984年トリノ・ショーで発表されたビトゥルボ スパイダー。

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著者プロフィール

山崎 明 近影

山崎 明

1960年、東京・新橋生まれ。1984年慶應義塾大学経済学部卒業、同年電通入社。1989年スイスIMD MBA修了。…