歴史から紐解くブランドの本質【ランボルギーニ編】

カウンタックで始まったランボルギーニ伝説【歴史に見るブランドの本質 Vol.12】

ミウラP400の生産ラインとされる写真。ずらりと並ぶV12エンジンは壮観だが、実際に生産されているとは思えないほど整然としている。
ミウラP400の生産ラインとされる写真。ずらりと並ぶV12エンジンは壮観だが、実際に生産されているとは思えないほど整然としている。
自動車メーカーは単に商品を売るだけではなく、その歴史やブランドをクルマに載せて売っている。しかし、イメージを確固たるものにする道のりは決して容易ではない。本連載では各メーカーの歴史から、そのブランドを考察する。

当初はエレガントなGTから

ランボルギーニはトラクターやエアコンの製造で財をなしたフェルッチオ・ランボルギーニによって創設された。購入したフェラーリに不満があり、直接エンツォ・フェラーリにクレームしたが無視されたので自らスポーツカーの製造に乗り出したという有名な神話があるが、これは作り話で、あくまでビジネスとして始めたという説もある。

ことの真偽はともかく、スポーツカー作りに乗り出したランボルギーニであるが、フェルッチオが目指したのはスーパースポーツではなく豪華で快適なGTだった。実際、初期のランボルギーニで高く評価されたのはスムーズさと静かさだった。この方向性はフェルッチオが社長の間は一貫しており、1970年代に入ってからもエスパーダ、ハラマ、ウラッコといったエレガントなルックスのGT系モデルをラインナップしていた。

このようなフェルッチオの方針とは裏腹に、ランボルギーニの存在感を大きく高めることになったのが1966年発表のミッドシップ2シータースポーツ、ミウラである。ミウラはエンジニアのダラーラとスタンツァーニ、テストドライバーのウォレスの雑談から開発がスタートしたと言われている。フェルッチオは当初ミウラをショーカーと捉えており、生産化するつもりは無かったらしい。しかし顧客からの強い要望で生産化に至ったのだ。

スーパーカー主体となったのは1980年代

現在のランボルギーニの礎を築いたカウンタックLP400。シザーズドアはランボルギーニの代名詞である。

そして、現在のランボルギーニにつながるイメージを決定づけることになるのが1974年にミウラの後継車として発表されたカウンタックである(本来ピエモンテ語ではクンタッチと発音するらしい)。市販化を考慮せずに設計されたミウラは様々な問題を抱えており、抜本的な設計変更が必要だった。

チーフエンジニアのスタンツァーニはエンジンを縦置きにし、ギアボックスを前方に配置するというユニークなレイアウトを採用した。このレイアウトがカウンタックの独特なプロポーションにもつながっている。このカウンタックが世に出た1974年にフェルッチオはランボルギーニ株を全て売却し、社を離れることになった。

フェルッチオの手を離れたランボルギーニは、1980年代に入るとGTカーの生産をやめ、カウンタックとジャルパというミッドシップ2シータースポーツカー主体のメーカーとなった。カウンタックはその強烈な個性から根強い人気を誇った。それ故、経営は常に不安定で様々なオーナーの手に渡りながらも、ランボルギーニは生き延びることとなったのである。

カウンタックによるブランド作り

カウンタックの後継車となったディアブロ。写真は2000年に登場した6.0リッターV12モデル。

カウンタックは16年という長寿モデルとなり、ランボルギーニを象徴するモデルとなった。現在のランボルギーニのブランドイメージはフェルッチオの意思ではなく、カウンタックよって築き上げられているといって良いだろう。

1990年、カウンタックはディアブロに引き継がれたが、そのスタイリングやメカニカルレイアウトはカウンタックを継承するものであった。それ以降現在に至るまですべてのランボルギーニはカウンタックを祖とするスタイリングを継承している。

アルピナチューンが施されたBMW2002。アイコニックな存在だ。

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著者プロフィール

山崎 明 近影

山崎 明

1960年、東京・新橋生まれ。1984年慶應義塾大学経済学部卒業、同年電通入社。1989年スイスIMD MBA修了。…