74式戦車は名前のとおり1974年9月に制式採用された。大戦後初の国産戦車「61式戦車」の後継にあたる。74式の開発計画は61式の制式化翌年から始まっていたそうだ。開発に13年間をかけたことになる。
本車の特徴は姿勢変化を自在に行なえることだ。ストロークの大きい油気圧式サスペンションの採用により車体を前後左右に大きく傾けることができる。これは「姿勢変換」と呼ばれるもの。姿勢を変えて地形の起伏に応じて潜み、いわゆる待ち伏せが行なえる。
この姿勢変換は、自在に動く油気圧サスはもとより脚周りの設定自体も大きく関係しているようだ。74式の車体を支えている転輪は大径のものが片側に5つ取り付けられているのみで、履帯の上部支持輪などはつけられていない。この構成で大きな可動域を作り出し、それが自在な姿勢を取れることにつながる。数字で見ると車高を上下に各20㎝、前後に各6度ずつ、左右には各9度、それぞれ動かせる。
油気圧サスはタフに使われる戦車の機構としては意外とデリケートなもののようで、マメな整備を必要とするようだ。こうした整備性などの部分で敬遠されたか、諸外国軍の戦車で74式のように大きく動く脚周りを持つものは少ないと思う。
姿勢制御は砲塔の設計にも影響を及ぼすものだった。姿勢変換を利用することで結果的に主砲の可動域を大きくできる(戦車専門誌によると主砲の可動角度が「-6(マイナス6度)~+9(プラス9度)」だったものを、姿勢変換と合わせると「-12~+15度」にまで増やせるという)。また、車体が大きく動くということは、主砲の可動範囲自体は小さくてもかまわないことになる。だから砲塔の高さを低くした。これで被弾する確率を抑えられる。さらに砲塔の形は傾斜角をとる避弾経始(ひだんけいし:弾をハジき逸らす)を考慮した形状で防御性を上げた。これらの仕組みや設定で74式の外観はローダウンした力強いものとなった。このフォルムに惹かれる方は多いと思う。
主砲にはビッカース社製51口径105㎜ライフル砲「L7A1」を日本製鋼所でライセンス生産したものを搭載する。制式化当時、米・英軍などの戦車で多用されていたものだ。主砲はレーザー測遠機と弾道コンピューターで射撃制御する。命中率は優れたものだ。副武装には、主砲同軸の74式車載7.62㎜機関銃1丁、砲塔上面に12.7㎜重機関銃M2を1丁装備する。
使用砲弾は、当初、徹甲弾に装弾筒付高速徹甲弾(APDS)、榴弾に粘着榴弾(HEP)があった。徹甲弾はのちに装弾筒付翼安定徹甲弾(APFSDS:M735弾)に更新された。現在は93式APFSDS、多目的対戦車榴弾(HEAT-MP)を標準装備する。演習弾(TP)や77式空包も射撃できる。
エンジンは三菱製の空冷2サイクルV型10気筒ターボ・ディーゼル。これを、変速機と一体化(パワーパック)させて車体後部に配置、起動輪も車体後部に配置されるレイアウトとなった。この構成や配置は国産戦車として初めてのもの。61式戦車では研究こそされたが量産実用化できずにいた設計が、74式の時代になって実現できたものだという。
夜間の投光機を兼ねた赤外線暗視装置が装備された車両が一部存在するほか、車体前面に排土板のドーザーブレードや地雷原処理ローラーを装着したタイプも運用されている。改修を受けたタイプも少数あり、パッシブ式赤外線暗視装置やレーザー検知装置等を装備した74式戦車(G)型は通称「74式戦車(改)」と呼ばれ、これは4両(試作車1両も加えられる)が製作された。第1機甲教育隊(駒門駐屯地)に置かれ運用されたが当車で終了。ごく少数の希少車となった。
74式戦車は1989年度までに873両が調達された。東西冷戦が終わると、それまでの戦闘様相や紛争・戦争のありよう、脅威対象の変化が言われ始める。結果、戦車保有数の削減が始まり、90式戦車の登場と相まって74式戦車は1999年度から退役を始め、現在も順次リタイアの作業が続いている。現役最後の姿を目に留めておきたいわけだが、感染拡大防止等のため各地の駐屯地記念行事などは中止等の措置が続いたままだと思われ、やるせない状態にある。