“古き良きアメリカの象徴・もっともアメリカらしいクルマ”として今も人気の「トライシェビー」はシボレー初のV8エンジン搭載モデル!

キャデラックと並んで1950年代のアメ車を代表するのが1955~1957年にかけて生産された「トライシェビー」ことシボレーだ。デビューから70年近くが経過した現在でも、多くのアメリカ人が“もっともアメリカらしいクルマ”として愛して止まないこのモデルは、世界中に大勢のファンを持つ。ここ日本でも『MOONEYES Street Car Nationals®』をはじめとしたアメリカ車のイベントの常連車種で、エントリー台数も際立って多い。トライシェビーはなぜここまで人々から愛されるのか? それはこのクルマが“古き良きアメリカ”のアイコンとなっているだけでなく、美しくスタイリング、扱いやすいボディサイズ、名機シボレー・スモールブロックエンジンを初搭載するなど新機軸を多く盛り込んだことにより、エポックメイキングな存在になったからでもある。この歴史に残る名車の開発を担当したのは、GMが誇る稀代のエンジニアだったエド・コールだ。そんな彼を中心にトライシェビー登場までのストーリーをお送りする「トライシェビー誕生物語 vol.1」。

1955~57年の3年間に製造された”もっともアメリカらしい”クルマ

巨大なテールフィンを備えた華麗なスタイリングのキャデラックとともに、1950年代の“古き良きアメリカ”を象徴し、“もっともアメリカらしいクルマ”として今日でもファンの心を掴んで離さないのが、1955~1957年にかけて生産されたシボレーだ。

『36th Anniversary MOONEYES Street Car Nationals®』の会場に並ぶトライシェビー(3つのシボレーの意味)。1955~1957年にかけて生産されたシボレーをファンは特別な感慨を込めてこのように呼ぶ。北米を中心に世界的に人気がある車種で、アメリカ車のイベントではエントリーが多い車種でもある。

アメリカ人が特別な感慨を込めて「トライシェビー」あるいは「トライファイブ」と呼ぶこのモデルは、基本的には内外装の意匠とメカニズムがわずかに異なるだけの同一の個体であり、1955年型が177万5952台、1956年型が162万3386台、1957年型が155万5316台と、今日の基準で見るとケタが一桁違うのではないか、とにわかには信じられないほど売れまくった。

1955年型シボレー・ベルエア2ドアセダン。トライシェビーはトリムレベルと装備によって廉価版の150(ワン・フィフティ)、普及グレードの210(ツー・テン)、そして最上級のベルエアの3つのグレードが用意された。設定されたボディも豊富で、グレードとの組み合わせにより膨大なバリエーションを持つ。
■1955年型シボレー・ベルエア2ドアセダン
Specifications
全長×全幅×全高(mm):4968×1854×1499
ホイールベース(mm):2921
車両重量:(V8)1451.5kg・(直6)1450.6kg
エンジン:265cu-in(4343cc)V型8気筒OHV
235cu-in(3859cc)直列6気筒OHV
最後出力:(V8)162hp/4400rpm
(直6)136hp/4200rpm
最大トルク:(V8)35.5kg‐m/2200rpm
(直6)28.9kg‐m/2200rpm
燃料供給装置:キャブレター
トランスミッション:3速MT・2速「パワーグライド」AT・3速「ターボグライド」AT
駆動方式:FR
プラットフォーム:GM Aボディ
サスペンション形式(前):ウィッシュボーン/コイル(後):縦置半楕円リーフ
ブレーキ形式(前・後):ドラム
タイヤサイズ(前・後):OE 6.70D15LT 4PR・OE 6.70D15LT 6PR
新車価格(全シリーズ):1666~2571ドル

もちろん、トライシェビーは単なる商業的な大ヒット作というだけではない。デビューから70年近くが経過した現在でも多くのファンに愛され、もはや“崇拝の対象”といって良いほどになっている。それはなぜなのかと言えば、スタイリングが美しかっただけではなく、そのデビューが極めて衝撃的であり、当時としてはエポックメイキングな存在であったからだ。

フォードの戦後型乗用車が新たな時代を切り開く
斬新な「シューボックス」スタイルが消費者の心を掴む

第二次世界大戦が終結し、再び平和が訪れるとアメリカの自動車産業は戦前型乗用車の生産再開から出発した。しかし、戦争中の4年ものブランクは埋めがたいものがあり、ニューモデルを求める大衆の旺盛な消費欲求に応えるのにスタイル・性能ともに陳腐化した古いモデルでは対応が難しくなっていた。そこで各社は新たな時代を切り開くニューモデルの開発に勤しむことになるのだが、その先陣を切ったのがフォードがリリースした1949年型フォード/カスタムであった。

1949年型フォード・カスタム2ドアセダン。ランニングボード(ドア外側にあったステップボード)を廃し、ボディとフェンダーが一体化された近代的なスタイルが人気を集めた。その形状から「シューボックス」の異名を持つ。なお、この時代は各ディビジョンの主力乗用車は単一車種しかなく、車名にディビジョン名と同じ名称が使われることが多く、基準車に装備とトリム違いで複数のグレードを用意するのが当時のアメリカ車では一般的だった。

サイドバルブ式のV型8気筒&直列6気筒エンジンやシャシーなどの基本メカニズムこそ旧来の車種から流用していたものの、新開発されたボディはカウルフードが一段と低くなり、フェンダーとボディが一体になったフラッシュサーフェイス化されたスタイリングはじつに画期的で、当時の人々にとっては輝かしい未来を感じさせるまったく新しいものであった。しかも、フォード/カスタムは見た目だけではなかった。フェンダーの張り出しを廃したことで、その分キャビンの拡幅がなされ、居住性が大幅に向上していたのだ。

1932年の登場以来、長らくフォードの主力エンジンの座にあったサイドバルブ式の239cu-in(3.9L)「フラットヘッド」V8。スタイリングが一新された1949年型フォード/カスタムにも引き続き搭載された。1950年代初頭、V8エンジンをラインナップしていたのはキャデラック、クライスラー、フォードの3ブランドのみだった。

この斬新なスタイリングにより同車は商業的に大きな成功を収め、それを横目で見ていたライバルたちのニューモデルもこぞってそれに習った。これらのフラッシュサーフェイス化されたボディは、その特徴的な形状からいつしか「シューボックス(靴箱)」の愛称で呼ばれることになる。

フォードが人気を集める一方で
GMの屋台骨を支えるシボレーはトレンドに取り残される

戦後の乗用車販売でスタートダッシュを決めたフォードに対し、自動車業界の巨人・GMの旗色は芳しいものではなかった。とくに問題となっていたのが、大衆車ブランドのシボレー・デヴィジョンであった。GMの売上の70~75%を稼ぎ出す会社の中枢部門である製品に肝心の商品にまるで魅力がなかったのである。

1950年型シボレー・ベルエア4ドアセダン。1941年に発表されたフリートラインから年次改良によって発展し、1949年にシボレー初の戦後型乗用車として登場した。戦前型からスタイリングは改められたものの高いボンネットや独立したリアフェンダーなど、フォード/カスタムに比べると古色蒼然としており、登場時から新鮮味はなかった。

シボレーのスタイリングはモデルイヤー制によって、戦前型から徐々にモダナイズドしていたが、もはやそれも限界だった。ハッキリ言ってしまえば、当時のアメリカ自動車工業界の中でもっとも古臭く、流行のスタイリングから大きく遅れをとっていたのが、GMの屋台骨を支えるシボレーだったのだ。

しかも、クルマの心臓とも言えるエンジンは、フォードに対抗するV8を持っておらず、1929年に登場した「ストーブボルト」の改良型である235cu-in(3.9L)直6OHV「ブルーフレーム」エンジンを依然として使用し続けていた。

1929年に登場した「ストーブボルト」を改良した「ブルーフレーム」エンジン。直6OHVの基本設計は踏襲しつつ、排気量は194cu-in(3.2L)から235cu-in(3.9L)へと拡大。それに伴って油圧リフターの採用や高圧縮比化(6.5:1から7.5:1へ)など改良が施されている。さらにパワートレインは2速「パワーグライド」ATが新たに選べるようになり、3.55:1のリアデフの採用などの変更が加えられた。

スタイリングもメカニズムも何もかもが古くなり、すっかり消費者から飽きられていたシボレーの大衆車は、「まるでハーバート・フーヴァー御用達の服飾屋がデザインしたクルマだ」と自動車専門誌から酷評される始末であった。

ハーバート・フーヴァー
ハーバート・フーヴァー
(1874年8月10日生~1964年10月20日没)
第21代アメリカ合衆国大統領(任期1929年3月~1933年3月)。スタンフォード大学を卒業後、鉱山技師を経て共和党から政界に入る。1921年に第3代商務長官に就任。約7年の任期中に飢餓に苦しむソ連やドイツに食料支援を行うが、アメリカ国民からは敵性国家として見られていた両国だけに物議を呼んだ。1928年の第36回アメリカ合衆国大統領選挙では「どの鍋にも鶏1羽を、どのガレージにも2台のクルマを!」のスローガンを掲げて戦い、民主党のアル・スミスを退けて大統領に就任する。しかし、就任直後の1929年に発生した世界恐慌では充分な対策を取ることができず、1932年の「ボーナスアーミー」(不況下で生活苦にあえぐ退役軍人たちが首都ワシントンでデモを起こした事件)では、鎮圧に当たったマッカーサーの暴走を許し、多数の死傷者を出したことから国民の信頼を失う。次の第37回大統領選では民主党のフランクリン・ルーズベルトに大敗して政界を引退した。

1950年代初頭の時点では、GMの販売力で新車セールスを辛うじて維持していたが、早晩対策を取らなければ業界2位のフォードにしてやられることは疑いようもなく、それはそのままGMの販売首位からの転落を意味していた。

猛追するフォードに対しGMは新型シボレーの開発で巻き返しを図る

1951年末、この状況に危機感を覚えたGM社長のチャールズ・ウィルソンは、社長補佐のハーロウ・カーティス(当時。1953年にウィルソンの後任としてGM社長に就任する)にシボレー・ディビジョンを立て直す起爆剤となる新型車を2年以内に開発するように命じた。通常、自動車の開発は早くても3年、ときには4~5年ほど必要になる。ウィルソンの下した命令は、それだけこの当時のGMが危機感を持っていたことの現れでもあった。

チャールズ・ウィルソン
チャールズ・ウィルソン
(1890年7月18日生~1961年9月26日没)
1909年に大学で電気工学の学位を取得後、ウェスティングハウス・エレクトリック・カンパニーに入社し、自動車用電気機器のエンジニアとなる。第一次世界大戦中に陸海軍向けの無線用発電機の開発で実績を残す。1919年にGM子会社のレミー・エレクトロニック(現・レミー・インターナショナル)に取締役として転職。グループ内での功績から1941年にGM社長に就任する。第二次世界大戦が勃発するとGMの各工場を民需から軍需へと生産を切り替え、戦車、トラック、航空機の生産を指揮した。その功績が認められ、1946年に米政府から功労勲章を授与される。1953年1月にアイゼンハワー政権が成立すると、共和党員だった彼のもとに国防長官のポストがオファーされる。それを受託した彼はGM社長を辞任した。国防長官となった彼は大統領とダレス国務長官の政策に基づいて通常戦力を削減し、大量報復戦略(ニュールック戦略)に基づく核戦力の強化に尽力した。第2期アイゼンハワー政権が成立して間もない1957年10月に国防長官を辞任。辞任の翌日に自由勲章を授与されている。なお、第二次世界対戦勃発後に米上院国防委員会で彼が残した「GMにとって良いことは米国にとっても良いことであり、その逆も同様です」との言葉はのちの引用も多く、あまりにも有名。1969年に自動車殿堂入りする。

社長から勅命を受けたカーティスは、新型車には従来のシボレーに欠けていた、若々しく、精錬されたスタイリングを持ち、スポーティな乗り味こそが何よりも必要だと考え、それを実現するためにはフォードを上回る性能のV8エンジンの開発が何よりも不可欠になると思っていた。しかし、彼に与えられた時間は少ない。この難局を乗り切るには、GM社員に似つかわしくない変わり者との風聞はあるものの、社内でも屈指のエンジニアであるエド・コールに頼るしかない。彼はコールを起用することに一切の迷いはなかった。

ハーロウ・カーティス
ハーロウ・カーティス
(1893年8月15日生~1962年11月3日没)
20歳でGMに入社し、ACスパークプラグ部門で昇進、36歳のときに部長職に就く。大恐慌時代でも同部門は利益を出し続けたことから、その経営手腕を見込まれてビュイックディビジョンの支配人に抜擢される。1948年にGM副社長職。1953年にアイゼンハワー政権の国防長官に就任したチャールズ・ウィルソンの後任としてGM社長となる。彼が副社長時代に開発を指揮した1955年型シボレーの記録的なヒットにより、GMは莫大な利益を上げ、年間10億ドルの利益を上げた最初の企業となった。1958年に財務部門出身のフレデリック・G・ドナーに社長の座を譲ってビジネス界を引退。1959年には友人であり、同じく引退した元GM副社長のハリー・W・アンダーソンを狩猟中の事故で誤って射殺した。1962年に自宅で心臓発作のため死去。1971年に自動車殿堂入りする。

一匹狼のエンジニア、エド・コールが社長の勅命により新型シボレー開発に挑む

エド・コールという男は、官僚主義が支配するGMの中にあってその埒外にいる人間であった。根っからの機械好きで常日頃からクルマのことしか頭になかった彼は、社内秩序を重んじ、万事波風を立てまいとする社員が多い中にあって、物怖じせずに誰に対してもズケズケ言う性格であり、クルマを良くするためならたとえ相手が重役だろうが構わずに論戦をふっかけることから、GM社内には彼を厄介者として嫌う人間も少なくはなかった。また、新技術に目がなかったコールは、研究開発費を湯水の如く使ったため会社の財務部門から目の敵にされ、会計責任者からは疎んじられてもいた。

1956年型シボレー・ベルエア2ドアHT。モデルイヤー制によって前年モデルから内外装の意匠とメカニズムをわずかに変更したモデル。消費者の評判が今ひとつ芳しくなかったフェラーリ風のフロントグリルを横長のデザインに変えたことが外観上の特徴。この年から240hpを発揮するチューンナップ・オプションとして「パワーパック」が設定されたほか、新たに4ドアHTがラインナップに加わった。

しかも、出世に響かんと用心深く控えめな社員が多い中、彼は妻子がある身にも関わらず、当時セックス・シンボルのひとりに数えられた女優のマミー・ヴァン・ドーレンと浮名を流すなど、私生活においてもとても“GM的”というような態度ではなかった。そんなことからエド・コールの名は社内で浮いた存在ではあったが、その技術的知見とメカに対するセンス、技術者としての腕前はピカイチで、GM上層部からはお家大事のときの懐刀として頼りにされており、たいていのことは大目に見られていた。つまりはGMには珍しい一匹狼タイプのエンジニアだったのだ。

エド・コール
エド・コール
(1909年9月17日生~1977年5月2日没)
トライシェビーの生みの親であるとともに、初代シボレー・コルベット(C1)へのV8換装、コルヴェアやベガ、シボレー・スモールブロックV8の開発を担当した稀代のエンジニア。GMによるロータリーエンジン開発計画やガソリンの無鉛化対応、触媒コンバーターの導入にも活躍した。1909年にミシガン州マーンの酪農家に生まれる。少年の頃から機械が好きでメカに対しては早くから天才性を発揮していたという。1930年にGMと繋がりの深いケタリング大学に入学するが、優秀な成績を収めていたことから卒業を前にしてキャデラックのエンジニアに抜擢される。ここでも遺憾なくその能力を発揮した彼は、GM社内では「不可能を可能にする男」として高く評価されており、開発関係者の間ではアイドル並みの人気があったという。第二次世界大戦中は戦車開発を担当していたが、大戦が終結した年に36歳の若さでキャデラックのチーフエンジニアに起用され、同ディビジョン初のV8OHVエンジン開発に置いて重要な役割を果たした。1950年に朝鮮戦争の勃発とともに異動を命じされた彼は、戦車生産のためにクリーブランドに放置されていた廃工場の再建を託された。コールは驚くほど短期間で生産施設を整備し、朝鮮半島で戦う米軍のために戦車を生産した。それらの実績から1951年末にGM社長チャールズ・ウィルソンの特命を受けてシボレー・ディビジョン立て直しに不可欠な新型車開発を命じられることになる。仕事に対しては極めて真摯に向き合う彼だったが、万事慎重で控えめな人間が多いGM社員の中では少々浮いたところがあり、遊ぶときは派手に遊び、妻子のある身でありながら女性関係も華やかだったという。また、コールはハリウッド女優のマミー・ヴァン・ドーレンと親密な関係になったこともある。それが原因かは定かではないが、1964年には当時のGM社内ではご法度とされた離婚も経験。のちにドリー・アン・フェヒナーと再婚するが彼女もGM社員の夫人に多い物静かで貞淑なタイプからは程遠く、活動的でエネルギッシュなブロンド美人だった。
マミー・ヴァン・ドーレン
マミー・ヴァン・ドーレン
(1931年2月6日生~)
本名はジョーン・ルシール・オランダー。1950~1960年代に有名になったアメリカの女優で、歌手やモデルとしても活躍。いわゆる「ボムシェル」(金髪の爆弾娘)のひとりで、アメリカ黄金期のセックスシンボルであり、同業の友人であったマリリン・モンローやジェーン・マンスフィールドと共に「3M」と称された(他のふたりとは異なり、ヴァン・ドーレンにはそこはかとなくB級感が漂うが……)。1953年にユニバーサル・スタジオと7年契約を結んだ際にマミー・ヴァン・ドーレンの芸名を使うようになる。ユニバーサル在籍中に『二番目に偉大なセックス』や『ランニング・ワイルド』『オール・アメリカン』などの映画に出演。その後は『先生のお気に入り』や『ラスベガスの田舎者』『金星怪獣の襲撃/新・原始惑星への旅』(現在、Amazon Primeで視聴できる)などの作品で好演を見せた。モデルとしては1964年6月号のプレイボーイ誌でヌードを披露した(映画ではその前から脱いでいた)。1970年代には兵士たちの慰問のためにベトナムを精力的に訪れている。1987年には自伝『プレイング・ザ・フィールド』を出版したことで世間の脚光を浴びる。著書の中では過去の男性遍歴が赤裸々に綴られており、ハワード・ヒューズやクラーク・ゲーブル、スティーブ・マックイーン、クリント・イーストウッド、バート・レイノルズなどの著名人たちと親密な関係にあったことを告白している。錚々たる顔ぶれが並ぶ中、エド・コールの名も彼女の交際紳士録に入っていた。一時期コールは彼女に相当熱を入れていたようで、ヴァン・ドーレンの口紅の色に合わせて真紅に塗装したスペシャルメイドのコルベットを贈っている。なお、私生活では5度結婚し、幾多の男性と浮き名を流したプレイガールではあるが、男性と交際中は意外にも一途で貞操を保っていた。また、本人曰く「仕事のために男と寝たことはない」そうだ。現在は芸能活動から引退しているが、X(旧・Twitter)やブログを頻繁に更新してファンとの交流を続けている。

カーティスから新型シボレー開発のチーフエンジニアを任されるとコールは、さっそく開発の主戦力となる優秀な技術者を社内から次々にヘッドハンティングし、彼を補佐するのは長年コンビを組むエンジニアのハリー・バー、そして視覚的にクルマの魅力をアピールするデザイナーには、シボレーデザインスタジオのチーフを努めていたクレア・マッキーチャンが担当することになった。その他にもコールの目に止まった若手技術者を中心に新型車開発のためにライトスタッフが結集し、開発体制が整った1952年5月には、シボレーの開発部門は3000人体制となり、それまでの850人からいっきに3倍以上に急増した。

シボレーの復活には小型軽量かつパワフルV8が必要!
ポンティアックのバルブ機構を用いて短期間で新型エンジンを開発

新型車開発はコールの座右の銘でもある「現状維持を吹っ飛ばせ!」を合言葉として、ネジ1本からすべてを刷新する気構えで始まった。だが、短期間でエンジン、シャシー、足回りなどの主要コンポーネンツをゼロから開発するのは今も当時も並大抵のことではない。中でも懸案だったのは新型車に搭載が決定していた新開発のV8エンジンだった。

1955年型シボレーと265cu-in「ターボファイア」V8 OHVエンジン。

コールは1949年型キャデラックをフルモデルチェンジする際に、同ブランドとしては初となるOHVの動弁形式を持つ331cu-in(5.4L)V8 OHVエンジンの設計において重要な役割を果たしている。だが、今回の新型シボレー用V8エンジンでは、大衆車ということで車体サイズがより小さいこともあり、シャシーへの負担を軽減する必要から高出力でありながらも軽量のパワーユニットが望まれていた。

1949年型キャデラック・シリーズ61ファストバック。331cu-inV8 OHVエンジンが初めて載せられたキャデラックだ。

コールには新型エンジンに対する明確なヴィジョンがあった。「エンジンの重量を軽減するためにはキャデラックのような大きなエンジンとするわけにはいかない。だが、排気量が小さくとも高回転・高圧縮比のエンジンに仕上げることで新型車にはパワフルな心臓を与えることができる。これならシャシーに負担をかけないばかりか、車重やコストの軽減にも繋がり、軽くキビキビしたスポーティな運転感覚のクルマに仕立てられる」と。

キャデラック用に開発された331cu-inV8 OHVエンジンの単体写真。キャデラックとしては初めて動弁機構にOHVが採用された。

そこでコールは従来の1929年に誕生した「ストーブボルト」以来シボレーの直6エンジンに用いられていたOHVの動弁機構をV8エンジンにも取り入れることを決断し、新型エンジンの設計を進めることにした。幸いなことにポンティアック・ディヴィジョンでもほぼ同時期(開発着手は1949年から始まっていたが進捗は遅く、1953年になってようやくプロトタイプが完成する)に開発が進められていた287cu-in(4.7L)V8OHV「ストラトストリーク」エンジンがあったので、彼のチームはそのバルブ機構の設計を流用することで、開発期間の短縮を図ることに成功した。

ポンティアックが1954年にモトラマで発表したコンセプトカーのストラト・ストリーク。このクルマには268.2cu-in(4.4L)直8サイドバルブ「チーフテン8」エンジンが搭載されていたが、当初は新開発のV8を乗せることも検討されたようだ。のちにこの名前はポンティアックが初めて実用化した287cu-inV8 OHVエンジンのペットネームに用いられる。

しかし、コールの決定にはGM社内から異論が噴出した。それというのも当時のGMには「新技術はそれを開発したディビジョンが2年間独占的に使用できる」という内規が存在したからだった。クレイトン・リーチ率いるポンティアックの開発部門からすれば、シボレーの“技術盗用”は許せるはずもなく、内規違反を盾にGM上層部に難色を示した。

だが、コールにとっては幸いなことに、新型シボレーの開発を急務と考えたカーティスらGM幹部たちは「今回限りの特例措置」としてポンティアックの主張を退けてくれた。これで新型車開発における最大の懸案事項であるエンジンの問題が概ね片付くことになった。なお、これにはシボレーからの派生技術を狙っていたビュイックやオールズモビルの援護射撃もあったとされている。

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著者プロフィール

山崎 龍 近影

山崎 龍

フリーライター。1973年東京生まれ。自動車雑誌編集者を経てフリーに。クルマやバイクが一応の専門だが、…