1950年代に生まれたV8 OHVエンジンの名機「シボレー・スモールブロック」は現代でも生産され続けている!?

キャデラックと並んで1950年代を代表するのが1955~1957年にかけて生産された「トライシェビー」ことシボレーだ。デビューから70年近くが経過した現在でも、多くのアメリカ人が“もっともアメリカらしいクルマ”として愛して止まないこのモデルは、世界中の大勢のファンを持つ。ここ日本でも『MOONEYES Street Car Nationals®』をはじめとしたアメリカ車のイベントの常連車種で、エントリー台数も際立って多い。トライシェビーはなぜここまで人々から愛されるのか? それはこのクルマが“古き良きアメリカ”をアイコンとなっているだけでなく、美しくも流麗なスタイリング、名機シボレー・スモールブロックエンジンを初めて搭載するなど新機軸を多く盛り込むなど、その存在が極めてエポックメイキングだったからでもある。この歴史に残る名車の開発を担当したのは、GMが誇る稀代のエンジニアだったエド・コールだ。そんな彼を中心にトライシェビー登場までのストーリーをお送りする「トライシェビー誕生物語 vol.2」。

“古き良きアメリカの象徴・もっともアメリカらしいクルマ”として今も人気の「トライシェビー」はシボレー初のV8エンジン搭載モデル!

キャデラックと並んで1950年代のアメ車を代表するのが1955~1957年にかけて生産された「トライシェビー」ことシボレーだ。デビューから70年近くが経過した現在でも、多くのアメリカ人が“もっともアメリカらしいクルマ”として愛して止まないこのモデルは、世界中に大勢のファンを持つ。ここ日本でも『MOONEYES Street Car Nationals®』をはじめとしたアメリカ車のイベントの常連車種で、エントリー台数も際立って多い。トライシェビーはなぜここまで人々から愛されるのか? それはこのクルマが“古き良きアメリカ”のアイコンとなっているだけでなく、美しくスタイリング、扱いやすいボディサイズ、名機シボレー・スモールブロックエンジンを初搭載するなど新機軸を多く盛り込んだことにより、エポックメイキングな存在になったからでもある。この歴史に残る名車の開発を担当したのは、GMが誇る稀代のエンジニアだったエド・コールだ。そんな彼を中心にトライシェビー登場までのストーリーをお送りする「トライシェビー誕生物語 vol.1」。

名機シボレー・スモールブロックV8の登場!
現在でも生産が続く傑作エンジンはこうして生まれた

かくして新型V8エンジンはわずか15週間という驚くべき短期間で設計を完了した。コールの設計は極めて精錬されたもので、V8エンジンのバンク角は90度を採用し、動弁機構にはポンティアックが開発したスタッドマウント(ボルトオン)式の独立したボールロッカーアームを備えたOHVを採用。シリンダー径(ボア)は3.75インチ(95.25mm)で、ピストンストロークは3インチ(76.2mm)という高回転型のショートストロークエンジンという設計で、排気量は265cu-in(4.3L)を基本としていたが、将来の発展性を考えて隣接するシリンダー間の中心距離(ボアピッチ)は4.4インチ(111.2mm)とされた。

1957年型シボレー・ベルエア4ドアセダン。トライシェビーとしては最後のモデルで、テールフィンはより大型化され、グリルとバンパーの意匠はキャデラックを意識したものとなった。クロームメッキの加飾はさらに多くなって、スリートーンの塗装とともに豪華さに磨きをかけており、「ミニキャデラック」の愛称にふさわしいルックスとなった。

圧縮比は8.2:1と当時のエンジンとしては高く、標準仕様の2バレルキャブレターの最高出力は162hp、ロチェスター4バレルキャブレター&デュアルエキゾーストシステムで構成されたオプションの「パワーパック」を選べば180hpを発揮した(1955年型のモデルイヤー後半には前述の「パワーパック」の装備に加えてハイカムに交換し、240hpの最高出力を発揮するR.P.O411「スーパーパワーパック」がオプションに追加された)。

■1957年型シボレー・ベルエア4ドアセダン
Specifications
全長×全幅×全高:5080mm×1854mm×1499mm
ホイールベース:2921mm
車両重量:(V8)1496.9kg/(直6)1484.6kg
エンジン:265cu-in(4343cc)V型8気筒OHV
    :283cu-in(4638cc)V型8気筒OHV
    :235cu-in(3859cc)直列6気筒OHV
最後出力:(V8/265cu-in)170hp/4400rpm
    :(V8/283cu-in)185hp/4400rpm
    :(直6/235cu-in)140hp/4200rpm
最大トルク:(V8/265cu-in)40.1kg‐m/2200rpm
     :(V8/283cu-in)41.5kg‐m/3000rpm
     :(直6/235cu-in)28.9kg‐m/2200rpm
燃料供給装置:キャブレター
トランスミッション:3速MT/2速「パワーグライド」AT/3速「ターボグライド」AT
駆動方式:FR
プラットフォーム:GM Aボディ
サスペンション形式(前・後):ウィッシュボーン/コイル・縦置半楕円リーフ
ブレーキ形式(前・後):ドラム
タイヤサイズ(前・後):OE 6.70D15LT 4PR・OE 6.70D15LT 6PR
新車価格(全シリーズ):2173~2900ドル

これはライバルだったフォード車が搭載するサイドバルブ(SV)式の239cu-in(3.9L)「フラットヘッド」V8の最高出力100hpを遥かに凌ぐ高性能であり、しかもより高回転型エンジンになったことで吹け上がりは軽快で、それまでのアメリカ車にはないスポーティなエンジンに仕上がっていた。しかも、新たなテクノロジーにより、それまでのどのV8エンジンと比べても軽量に仕上がっていたのだ。

265cu-in「ターボファイア」V8 OHVエンジンは、チューニングの素材としても優秀で、デビューとともにレース関係者の注目を集めた。彼らが付けたニックネームは「マイティ・マウス」(のちに略して「マウス」と呼称されるようになる)。1957年に追加設定されたハイカムとデュアルエキゾーストシステム、ロチェスター・ラムジェット機械式インジェクションを備えた最強バージョンでは283hpの最高出力を叩き出し、初めて1cu-in(約163.9cc)あたり1hp(約61hp/1000cc)を超えるパワーユニットとなった。

このパワーユニットは量産性、発展性、耐久性、整備性、経済性のいずれにおいても優れていたことから、のちにシボレーをはじめとした多くのGM車に搭載されただけではなく、アメリカ車のエンジン設計にも多大な影響を及ぼした。

1949年型ポンティアック・ストリームライナーに搭載された268.2cu-in(4.4L)直8 SV(サイドバルブ)。スモールブロックV8が登場する以前、ビュイックやオールズモビル、ポンティアック、ハドソン、スチュードベイカー、マーモン、デューセンバーグなど、フォードを除くアメリカ製の中~高級車には直4や直6のほか直8エンジンを搭載されるケースが多かった。バルブ機構はビュイック以外はサイドバルブを用いていた。

このシボレー製V8エンジンの登場を契機に、アメリカ市場からは直列4気筒や直列8気筒、サイドバルブなどの古い形式のエンジンがほぼ一掃され、小排気量・高効率な設計のV6エンジンが登場する1980年代中頃になるまで、エンジンがスムーズに回り、ガタツキやもたつきが少なく、高出力を得やすいV8 OHVが長らくアメリカ車の主力エンジンとなる(直列6気筒は廉価グレード用に限って各社のラインナップに残された)。

DEUCE(デュース)こと1932年型フォード・モデルB(正確には直4搭載車をモデルB、V8搭載車はモデル18の名称が与えられているが、今日では一般的に両車をひとまとめにしてモデルBと呼称することが多い)に搭載された239cu-in(3.9L)「フラットヘッド」V8 SV。登場以来、長らくフォードの金看板となっていた名機だが、1955年にシボレーが「ターボファイア」V8OHVを登場させたことにより一気に旧式化。フォードは後継エンジン開発に迫られることになる。

コールの開発したV8エンジンに与えられたペットネームは公式には「ターボファイア」であったが、コンパクトな設計ながら優れた性能を発揮するエンジンということもあって、ストックカーレース関係者の間では、当時の人気マンガにちなんで「マイティ・マウス」(ネズミのスーパーマン)の愛称で親しまれていたという。

1968年型シボレー・カマロSSに搭載された350cu-in(5.7 L)V8 OHVエンジン。このパワーユニットも「ターボファイア」から派生したスモールブロックエンジンである。スモールブロックは、その後も改良と排気量拡大を繰り返しながら新車用エンジンとしては2003年まで、補修用としては現在も生産が続く、大変息の長いエンジンとなった。

なお、今日ではコールが手掛けたエンジンとその系譜は一般に「シボレー・スモールブロック」の名称で呼ばている。このエンジンはその後も排気量拡大と改良を加えられながら新車用のパワーユニットとして2003年まで生産が続けられ、補修用としては登場から70年近くが経過した現在も生産が続いている。

革新的な技術の数々を惜しげもなく投入
ユーザーの心をつかむべく豊富なオプションを用意

好調な新車販売の裏で技術的な停滞を迎えていたデトロイトにあって、コールが開発を進めていた新型シボレー車はエンジン以外にも新機軸が数多く盛り込まれていた。新開発のV8エンジンを心搭載するためにシャシーは一新され、軽量でありながらねじり剛性は50%も高められた。また、新型のサスペンションは従来までのキングピンに代えてボールジョイントを採用したことにより、軽量・高剛性のシャシーと相まってハンドリングが大幅に向上している。

1956年型シボレー150ハンディマン2ドアワゴン。意外なことにトライシェビーの販売台数は廉価版の150や中級グレードの210よりも上級グレードのベルエアのほうが多く、北米では現在でも高い人気を誇る。日本国内でも同様で『MOONEYES Street Car Nationals®』などのカーイベントでは150や210はエントリーが少なく、かえって希少な存在となっている。

時代遅れだったトルクチューブ式のドライブトレインもついに改められ、トランスミッションやクラッチのメンテナンスが容易な露出型ドライブシャフトへと置き換えられたことにより、全米のメカニックの負担軽減へと繋がった。電装系は6Vから12Vへとグレードアップされたことで、点火系とスターターモーターの強化により冬季の始動性が向上しただけでなく、ヘッドランプなどの灯火類がより明るくなり、夜間の安全性の向上が図られた。

こうした数々の改良により、1955年型シボレーに使用される約4500点の部品のうち、従来車と同じ部品はわずかに700点足らず。あとはすべて新規に開発されたパーツが使用されていた。

パワフルなV8エンジンに組み合わされるトランスミッションは、3速MTを基本としながらもオプションとして2速ATや3速ATが選べるようになった。
ほかにもユーザーの志向の変化に応じて、これまでは高級車のみに許されていたパワーステアリング、パワーウィンドウ、エアコン、デラックスヒーター、シートアジャスター、自動トップライザー(コンバーチブル専用オプション。トップを開いた状態で雨滴を感知すると自動で幌を閉じる機構)、シートベルト(ただし装着率は8%に満たなかった)、後部座席スピーカー、専用電気シェーバーなどの快適装備が新たにオプションとして選べるようになったことも特筆に値するだろう。

伝説のカーデザイナーをも狂喜させた
クラスを超えた美しさと魅力を湛えたスタイリング

スタイリングについてコールがチーフデザイナーのマッキーチャンに求めたものは、表向きには「若さ、スピード、軽快さを感じるスタイル」ということだったが、非公式にもうひとつリクエストしたのが「プアマンズ・キャデラックを作れ。シボレーに乗るごく普通の男たちにキャデラックを運転する気分を味わえるような、そんな小粋で贅沢な内外装にしてくれ」というものだった。

1957年型シボレー・ベルエア・コンバーティブル。シボレーデザインスタジオのチーフデザイナーだったクレア・マッキーチャンが手掛けたスタイリングは70年近くが経過した今日でもなお色褪せない。

本来、すべてのGM車のスタイリングを決定する権利は「伝説のカーデザイナー」であり、GM本社のデザイン担当重役の座にあったハリー・アールの専権事項であった。アールと親しかったコールは彼の好みが、パワフルで、車高が低く、贅沢なクルマにあることを熟知しており、新型車のスタイリングに関しては「わざわざMr.コールにお伺いを立てるまでもない」として独自の判断でマッキーチャンにスタイリングの指示を与えている。

1938年にGMが発表したコンセプトカー・ビュイックYジョブのドライバーズシートに座るハリー・アール。
ハリー・アール
(1893年11月22日生~1969年4月10日没)
自動車メーカー初のデザインスタジオの創設者であり、カーデザインの重要性を世に知らしめた人物。そして創生期のGMの名車を数多く手掛けた伝説のカーデザイナー。ハリウッドスター御用達のコーチビルダー(馬車職人)の息子として生まれたアールは、父親が自動車のボディ製作に手を広げたのを契機として、通っていたスタンフォード大学を中退して家業を手伝うようになる。その後、キャデラックの販売代理店の元締めであったドン・リーによって父親の会社が買収されたタイミングで父の後任に着く。この買収劇をきっかけにキャデラック部門のゼネラルマネージャーであるローレンス P.フィッシャーと知己になった彼は、その縁から1927年にキャデラックのサブブランドであるラ・サールのスタイリングをGMから任されることになった。このプロジェクトが大成功を収めると、GMはアールのために特別に用意されたアート&カラー部門の責任者に抜擢する。当時、業界トップのフォードはスタイリングに重きを置いておらず、実用一点張りのクルマしか作っていなかったことからアールは社内でカーデザインの重要性を説いて回り、これに消極的だった幹部とエンジニアを翻意させ、GMの市販車の多くに彼のスタイリングを反映させた。このアールのカーデザインをユーザーは熱烈に支持し、アート&カラー部門がGMスタイリング部門に改組された1937年頃にはライバルのフォードを販売台数で凌ぐようになり、GMが自動車業界首位の座を射止めることに成功する。引き続き同部門の責任者を務める彼は、同時にGM副社長を兼任。モデルイヤー制の導入によりスタイリングを常に変化させ、消費者の購買意欲をそそる計画的陳腐化政策、自動車ショーにおけるコンセプトカーの製作・出品などの今日に連なる新機軸を次々に打ち出していく。第二次世界大戦が終結すると、彼は航空機にインスパイアされたテールフィン、欧州製スポーツカーからヒントを得たコークボトルラインなどのデザインアイコンを積極的に新車に取り入れ、それらが大衆に熱狂をもって受け入れられたことからGMは自動車業界の世界的なトレンドリーダーとなった。1969年に自動車殿堂入りする。
1955年型シボレー・ベルエア2ドアセダンのフロントビュー。当時のフェラーリにインスパイアされたというフロントグリルは、エド・コールがクレア・マッキーチャンにリクエストした結果生まれた。

こうして完成した1955年型シボレーのスタイリングは、コールの好みを反映して当時のフェラーリによく似た意匠のフロントグリル、航空機にインスパイアされた流行のテールフィン、コルベット風のインパネ、粋なツートンカラーというデザインエッセンスが車体のあちこちに散らばせてあり、スポーツカーのコルベットやサンダーバードを除くと従来のアメリカ車には見られなかったロー&ワイドのフォルムで、スポーティさと高級感を兼ね備えたじつに魅力的なクルマとして完成した。

1955年型シボレー・ベルエア2ドアセダンのリアビュー。航空機にインスパイされたテールフィンがこの時代のアメリカ車の特徴だ。

デザイン室にモックアップを見に来たアールは、61インチ(155cm)まで低くなった車体を見るなり、「よくぞ我が意を汲んでくれた」と狂喜乱舞してコールとマッキーチャンを絶賛した。だが、喜色満面のアールに対してコールは今ひとつ浮かない表情を浮かべていたという。アールが退出したあとでマッキーチャンは彼に「何か気に入らない部分があるのか?」と尋ねると、コールは思いの丈を吐き出すように「クソッ! 本当は車高を60インチ(152cm)以下に抑えるつもりだったのにどうしてもダメだったんだ」と言い放ったと伝えられている(最終的にコールは自身が課した目標をクリアした)。

贅沢にも多用されたクロームトリムと特徴的な塗り分けのツートンカラーは上級モデル・ベルエアの証でもある(210にもツートンカラーの設定はあったが塗り分け方が違う)。

1955年型シボレーのスタイリングは美しく、魅力的で、控えめに言っても傑作の名に相応しい素晴らしいものだった。デザイン室をあとにしたアールは、社長のカーティスに新型車の感想を聞かれると「キャデラックのエンブレムを付ければ、キャデラックとして売れるシボレーができたんだ! これは間違いなく大ヒットするよ!!」と述べたという。それはコールと彼が開発したシボレー車に対する最大の賛辞だった。

ボディカラーと同じ配色となる1955年型シボレー・ベルエア2ドアセダンのインテリア。スポーティさの演出のためコルベットに範を取ったインパネデザインが採用された。なお、写真のクルマのメーターはオリジナルのものから変更されている。

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著者プロフィール

山崎 龍 近影

山崎 龍

フリーライター。1973年東京生まれ。自動車雑誌編集者を経てフリーに。クルマやバイクが一応の専門だが、…