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人機官能に惹かれ、人間を研究するためヤマハへ
ヤマハでは人間研究が行われているという。バイクなど人が扱う機械を作るには、その扱う人そのものを研究すべきであるということだ。その人間研究の中にあるテーマのひとつに、「感覚拡張HMI」がある。HMI(ヒューマン マシン インターフェース)とは人と機械を繋ぐもの。人の感覚を拡張することによって、HMIの可能性を広げるということだろう。
今回、そんな人間研究の中心人物である、末神翔(すえがみたかし)さんに、「感覚拡張HMI」についてお話をお聞きした。
末神さんの経歴を見させていただくと、新卒でヤマハに入られたのではなく、大学に残ってしばらく心理学を研究されてから企業に就職された。企業で働いた経験がなく、ヤマハが初めての民間での就職だという。
ーー 末神さんはどういう経緯でヤマハ発動機に入られたのでしょうか?
末神 大学院を修了してからも大学に残って研究を続けていたので、企業で働いた経験はなかったのですが、大学教員だった時に民間企業との共同研究を担当したことで、民間企業での研究にも興味がわきました。ちょうどそのときにヤマハから研究人材の募集があったのです。当時はバイクの免許も持っておらず自分には馴染みの薄い会社でしたが、調べてみたらホームページで「人機官能」という開発思想をみつけて、面白そうだと惹かれて応募しました。それで入社してすぐに「人機官能とはなにか」をまとめてくれ、と言われて驚きました(笑)。
そうしてまとめられた「人機官能」の各要素を実現すべく、ヤマハでの末神さんの人間研究が始まった。
機械が人とココロを通わせるパートナーになることは可能か? 物理的な距離感が近いバイクは、心理的にも最も近い存在になれるのではないか? そんな想いから研究を進め、2017年には生き物のようなマシンをイメージしたコンセプトモデル 「MOTOROiD(モトロイド)」が生まれた。東京モーターショー2017に出展し、注目を集めた。
また、人と人、人と機械の協調が生み出す感動を、科学とアートで解明する研究をカリフォルニア工科大学や音楽のヤマハ株式会社と進め、体験型インスタレーション「e-plegona(エ・プレゴナ)」を生み出した。e-plegonaは2名のプレーヤーがペアとなって非言語的かつ直感的な意思伝達を繰り返しながら、つまり協調しながら体験する音楽ゲームのようなもので、2024年に世界的に権威あるデザインアワード、Red Dot Design Awardでコンセプト賞を受賞した。
そして、「人とくるまのテクノロジー展 2024 YOKOHAMA」に、末神さんら「感覚拡張HMI研究チーム」は聴覚を利用した後方認知支援デバイスの研究試作品を出展した。
目的は、運転中に後方から近づいてくる車両の存在を音によって伝えること。展示物は、前方の3面モニターに向かってバイクのシミュレーターに跨り、ライダーは音響デバイスが付けられたヘルメットを被って体験するというもの。高速道路でバイクを運転中、ひとつが高速道路で右後ろから自分を追い抜いていくクルマ、もうひとつが真後ろから近づいてきてアオリ気味で後ろから追い抜いていくクルマ、そして自分が追い抜いたけど加速して死角の位置で自分に付いてくるクルマの3パターンに対し、特別にデザインされた音を聞かせ、状態や危険を知らせるというものだ。
後方認知を音で知らせるのは当たり前では?
ーー 大変失礼な言い方かも知れませんが、近づくものや危険なものを音で知らせるって、当たり前過ぎる気がしますが…
末神 実は、バイクやクルマなどのモビリティに使われている多くの技術は、あまりにも視覚重視なのです。後方で言えば、ミラーにしても、バックモニターにしても、基本的に全てを視覚に頼っています。前を向いているのに、後ろにあるものとして認識しなければならないという複雑な情報処理を脳の中で行っている。これは実はすごく高度なことで、脳に過剰な処理負荷 をかけてしまうリスクがあります。
ーー 運転中の人間にとって、視覚の情報処理はすでにいっぱいだけど、聴覚の情報ならまだ処理能力が残されているというわけですね。
末神 人間の視野角は180°くらい見えているように思われていますが、実は高精度に見えているは中心の2°くらいで、手を伸ばした時の2cmくらいの範囲です。見えているように思えるのは、脳が画像処理的に補完して見せているだけなんです。人間の目は、草食動物と違って前を見るように出来ていますよね。つまり、後ろのものを見るように最適化されていない。じゃあどうやって後ろのもの、見えないものを察知するかというと、音が手掛かりなんです。なので、今回の後方認知支援デバイスでは、人間の脳が普段やっているのと同じように、音に着目しています。
ーー しかし、運転中の危険を音で伝えるという研究は、90年代くらいにはすでに四輪車では行われていたと記憶していますが、それとは違うものでしょうか。
末神 研究を進める中で、ビープ音やアラート音など自然界に存在しない音、それ自体が何を意味しているのか直観的に理解できない音では、人間のパフォーマンスがかえって落ちてしまうケースが出てきたんです。どんな音をどういう風に伝えるのかが感覚拡張HMI研究のテーマでした。
ーー 確かに、一般に危険を知らせるには、驚くとか聞き辛い嫌な音を出すことが多いですね。そうではない音とはどういった音なのでしょう。
末神 例えば足音は生き物にとって重要な情報です。後ろから静かに近づいてくるものって、何となく気配で気付きますよね? これは我々の祖先が進化の過程で獲得した、生き残るための能力だといえます。後ろから静かに接近してくるものは、自分にとって良くないものである可能性が高い。だから、後ろから接近してくる音に敏感な個体の方が、そうでない個体よりも生き残る可能性が高いんです。
進化心理学という分野では、今の人間の姿カタチや生理的特性だけでなく、能力や感情といった心理的特性も生き残るのに有利なものが残っていると考えます。この考え方をもとに、後ろから接近してくる危険な物体の手掛かりとして、人間が太古から活用してきたであろう音の成分や特徴をリストアップしています。
感覚拡張HMIでバイクがもたらす悦びを最大化したい
末神さんが中心に進めてきた研究成果を実用化に近付けるため、HMIデザイナーやサウンドデザイナーなどがチームに加わって作り上げたのが、後方認知支援デバイスの研究試作品のシミュレーターだ。シミュレーターでは、後ろから迫り来る車両の距離や位置を、音量や音源の位置などで表現している。
後方から車両が近付いた場合の音の位置は、遠いほど耳と同じ高さから聞こえ、近くなるにつれ低くなっていく。また、左右の位置は頭の中心からのズレで表現できる。そのため、ヘルメットの後頭部にスピーカーを放射状に配置し、出す音の数や位置、音色、音量などをコントロールすることで、近づいてくる車両の距離や位置、進路などを表現するという仕組みだ。
ーー そうやって危険や周囲の状況を、人間の感覚を拡張することによってより正確に確実に伝え、バイクなどのモビリティを楽しむ感覚も増やしていくことができるというわけですね。
末神 ヤマハでは「人機官能×人機安全」というビジョンを掲げているんですけど、安全だけを突き詰めれば、極端な話、バイクに乗らずに家から外に出なければいいということにもなりかねません。しかし、バイクは移動具ですし、自然や仲間と生身の感覚として触れ合える悦び、自分の身体を使って操る悦びなど、人生を豊かにする力を持つ乗り物です。バイクがもたらす悦びを最大化することで、結果的に最も安全にもなる。それが我々の目指す世界だと思っています。
ーー 感覚拡張HMIって、まるでスター・ウォーズで言うフォースを身に付けて運転することのようですね。
末神 私がこの研究を当時の上司に説明する時、「某ロボットアニメに出てくるニュータイプになれる技術を研究したい」と説明しました(笑)。
ヤマハは人間を大事にして感動を創造
最後に、ヤマハ発動機とは、末神さんから見てどんな会社なのか、お聞きした。
ーー 末神さんにとってヤマハ発動機とはどんな会社でしょうか?
末神 「e-plegona(エ・プレゴナ)」で感動してもらえるものを作れたこともそうですが、相手も自分も感動して幸せになれることを大事にする会社です。感動するのは人間だから、人間の感覚や感性、直観を大事にする会社だとも思います。
ーー そういう会社から生まれるプロダクトはどんな特徴がありますか?
末神 ヤマハの製品は生活必需品ではないものもありますが、人生必需品だとは言えます。つまり、人生の悦びや彩りを作っている会社だと思います。本当にいいものを作って、お客さんと一緒になって心から感動したい、だからこそ本質的な感動研究ができてるんだと思います。お客さんに共感していただけるものを、みんなと一緒に作っていきたい、まさに感動創造企業と考えています。
末神さんのお話はとにかく面白かったし、こちらがお聞きしたいことを、例え質問があやふやでぼんやりしていても、知りたかったことを明確に答えてくださる。まさに、人間を研究されているからに他ならないだろう。
そんな末神さんら人間研究を行ってその成果が盛り込まれた将来のヤマハのモビリティは、きっといままでにないくらい安心して楽しめるものになるはずだ。速度や運転方法、もしくは自分自身が運転しなくても、人間の感覚を拡張させ感動できる乗り物になって登場するだろう。まだまだ、移動には楽しみが尽きないようで、安心した。