アメリカ以外で成功したアメリカン・アルミブロックV8:ビュイック/オールズモビル215(4)【矢吹明紀のUnique Engines】

本国アメリカでは本領を発揮できず早々に退場、しかし海を渡り長きにわたって活躍し名機として名を馳せることになったビュイック/オールズモビル215。その数奇なヒストリーをご紹介しよう。
TEXT:矢吹明紀(Akinori YABUKI)

一方、こうした一般的な市販車以外にもビュイック/オールズモビル215は大きな影響を残した。それはレースカー用エンジンである。このエンジンがリリースされた1960年代初頭という時代、アメリカやイギリスにおけるメジャーなレースカー用エンジンで、単体で入手可能かつシリンダーブロックもシリンダーヘッドもアルミ合金製のものと言えばイギリスのコヴェントリー・クライマックスが最も有力とされていた。中でも4気筒DOHCのFPFはF1における最強の市販エンジンであり、同時代のレーシングスポーツカーにも多用された名機だった。そうした中で、より排気量が大きく軽量なV型8気筒エンジンの登場は、主としてアメリカのSCCAを走っていたレーシングスポーツカーやUSACフォーミュラのコンストラクターの注目を集めることとなる。

ここでは純アメリカンメイドのレースカー製作がアイデンティティだったランス・リヴェントロウ率いるスカラブが、新型のミドシップレーシングスポーツカー用にオールズモビル215をベースとしたレースエンジンの開発をトラコ・エンジニアリングと共にスタートさせた。ビュイックではなくオールズモビルが選択された理由は、前述の様にシリンダーヘッド周りの構造がより頑丈だったことである。さらに弱小コンストラクターながら西海岸のSCCAスポーツレーシングでは有力な存在だったウェブスターも続いた。USACフォーミュラでは市販車のシリンダーブロックは排気量が優遇されていたことを受けて、著名なドライバー兼レースカービルダーだったミッキー・トンプソンがレースエンジンの開発に着手した。これらはすべて1962年から1963年頃の話である。しかしその一方でオールズモビル215は軽量ではあったもののストックブロックゆえの耐久性不足が露呈することとなる。その結果、1965年頃にはレースエンジンとしての発展性が見込めないとしてレース現場からはフェードアウトを余儀なくされている。

スカラブ・ミド
ウェブスター・スペシャル

ここでオールズモビル215の後継となったのは熟成なっていたシボレースモールブロックであり、鋳鉄製ゆえに重量こそあった一方で排気量拡大への柔軟さや耐久性は申し分無く、総合性能的にはオールズモビル215の及ぶところでは無かった。シボレースモールブロックの重量対策としてはGMと関係が深かったコンストラクターであったシャパラルがアルミブロック/アルミヘッド仕様を開発するなど独自の進化をし始めるのだが、それはまた別の物語である。

最後にオールズモビル215の存在がその誕生のきっかけとなったとあるF1用レーシングエンジンにも言及しておきたい。それはオーストラリアのレプコである。レプコとはオーストラリアとニュージーランドに展開していた総合自動車部品販売業兼レースカーコンストラクターであり、1960年代初めからはコヴェントリー・クライマックスFPFを同地のローカルスポーツカーレース用に供給していた。ことの始まりは1964年にオーストラリアとニュージーランドを舞台としたローカルフォーミュラシリーズであるタスマンシリーズ(最大排気量2.5リッター)の開催が決定したことである。ここでの最有力コンストラクターになると目されていたブラバムは1963年度中にレプコを通じてFPFの2.5リッター版を準備した。そして同じ頃FIAは来る1966年シーズンからF1の最大排気量を1.5リッターから3リッターに拡大する旨を発表した。ブラバムはF1用3リッターエンジンもコヴェントリー・クライマックスからの導入を計画していたものの、程なくして頼みの綱のコヴェントリー・クライマックスが1965年シーズン用に製作したDOHC1.5リッターV8のFWMVを最後にレースエンジンの開発から撤退することを発表。F1用エンジンの入手先を失ったブラバムはタスマン仕様の2.5リッターと F1仕様の3リッターの双方に流用可能で、なおかつ 使い慣れた1.5リッター用の軽量シャシーにも搭載可能な全く新しい軽量レースエンジンの開発をレプコに打診することとなったのである。

ここでレプコが新しいエンジンのベースに注目したのがアメリカでは既にレースエンジンのベースとして使われ始めていたオールズモビル215だった。ビュイックでは無くオールズモビルを選択したのは、幾度か既述した通りシリンダーヘッドをブロックに固定するボルトが6本スタッドとより頑丈だったことが理由である。元々レプコはホールデンのパーツ販売を通じてGMとは緊密な関係にあり、オールズモビル215のシリンダーブロック調達に関しては何の不安も無かった。レプコでは届いたシリンダーブロックを前にブラバムとの協議を重ね、過去に高性能モーターサイクルの称号をほしいままにしていたヴィンセントの設計者であったフィル・アーヴィングの設計によるSOHC2バルブヘッドをマウントする計画をまとめた。2.5リッター仕様は排気量を縮小するためにボア×ストロークはオリジナルの88.9 mm × 71.1 mmから85mm×55mmへと大幅にストロークが縮小された。F1用の3リッター仕様はボア×ストロークを88.9mm×60.3mmである。ストローク縮小に伴って変更されたクランクシャフトは完全新設計であり、SOHCのシリンダーヘッドの片側にはカムシャフトを駆動するためのカムチェーンドライブケースが新設された。潤滑系統はこれも新設計のドライサンプ。燃料供給システムは8連のルーカス製メカニカルフューエルインジェクションである。

Repco V8 engine RB620

ちなみにオールズモビル製のシリンダーブロックを使ったのは極初期の数機の試作機のみであり、その後の実戦用シリンダーブロックはオールズモビル製と基本デザインを共用しながらもレプコによって細部設計の全てが見直され新造された。オールズモビル製ブロックを使った初期型はRB600、レプコによってモディファイされたものはRB620(1966年F1/タスマン用、タスマン用発展型はRB640)、さらにレプコによる完全オリジナルとなったものはRB740(1967年F1/タスマン/スポーツカー用)と呼ばれていた。

ブラバムのシャシーに搭載されたレプコエンジンは他のライバルの準備が遅れる中、抜群の信頼性を発揮し見事に1966年度F1におけるチャンピオンエンジンとなった。最高出力は概ね300hp前後とあってパワー的にはライバルに劣っていたものの、熟成なっていたシャシーに加えて優れたエンジンの信頼性も後押しした。この快進撃はさらに熟成なった1967年度も続き、ブラバム・レプコは見事2年連続F1タイトルを獲得することとなる。この時点での最高出力は330hp前後と非力であることには変りが無かった。レプコによるF1エンジンは翌1968年にはDOHC4バルブ化したモデルが投入されたものの、圧倒的な高性能を発揮し始めたコスワースDFVを前に最終的には失敗作とされた。

生い立ちはアルミ素材メーカーの戦略と共に提案された何の変哲も無いアメリカン・コンパクトカー用エンジン。それが量産車としてはパイオニア的なターボチャージャー付エンジンとなるも本国ではレースエンジンへモディファイされたものも含めて最終的には失敗作との烙印を押されての退場。しかし海を越えた新天地では長らく信頼される名機へと成長し、また他の地域では望外の好成績を記録した大成功レースエンジンのベースとなる。これまで製造された自動車用エンジンは数多いが、ここまで波瀾万丈の生涯を送ったエンジンは多くは無い。その意味でビュイック/オールズモビル215は間違い無く歴史にその名を留める存在である。

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著者プロフィール

矢吹明紀 近影

矢吹明紀

フリーランス一筋のライター。陸海空を問わず世界中のあらゆる乗物、新旧様々な機械類をこよなく愛する。…