目次
今も残るチャールズ・スチュワート・ロールスの精神
今回、チャールズ・スチュワート・ロールスの生家、ロイヤル・エアロ・クラブ、ロイヤル・オートモービル・クラブ、ロールス・ロイスのショールームなどにおいて、「ゴースト」を持ち込んで撮影が行われた。
ロールス・ロイス・モーター・カーズのトルステン・ミュラー=エトヴェシュCEOは、生誕144年を迎えたチャールズ・スチュワート・ロールスの功績について次のようにコメントした。
「1877年8月27日に生まれたチャールズ・スチュワート・ロールス閣下は、ロールス・ロイスの共同創設者のひとりとしてよく知られています。彼は航空業界のパイオニアであり、成功したレーシングドライバー、そして才能あるエンジニアでもありました。彼の大胆不敵さ、冒険心、そして限界を超えようとする意欲は、今も私たちにインスピレーションを与え続けています」
「ロールス・ロイスにとって大きな意味を持つこの日を記念して、私たちは技術、性能、クラフトマンシップ、卓越性を備えたゴーストでフォトシューティングを行いました。私たちの物語のなかで重要な場所を訪れ、この並外れた人物が大切にし、追求したものを表現したのです」
ロンドンの各地をゴーストと共にまわって印象的な写真が撮影されたのは、チャールズ・スチュワート・ロールスの人生とキャリアに関連した以下のロケーションとなっている。
メイフェア、ヒル・ストリート35番地
チャールズ・スチュワート・ロールスは、1877年8月27日、バークレー・スクエアに近いこの家で生まれた。ランガトック卿夫妻の三男として生まれた彼は、イートン校とケンブリッジ大学で教育を受け、航空機やモータースポーツに情熱を傾ける自由を得るなど、裕福で恵まれた生活を送っている。
一方、ビジネスパートナーのヘンリー・ロイスは、貧しい家庭に生まれている。1876年当時、わずか10歳の彼はメイフェア郵便局で電報配達員として働いていた。彼が担当していたのはヒル・ストリートだったため、ロールスの両親にお祝いの手紙や電報を届けていた可能性は十分にあると言えるだろう。
ロイヤル・エアロ・クラブ
1961年まで、ピカデリー119番地には「ロイヤル・エアロ・クラブ(Royal Aero Club)」の本拠地があった。ロールスは1901年にロンドンの大手ワイン商であるフランク・ヘッジス・バトラーと、その娘・ヴェラと共同でロイヤル・エアロ・クラブを設立している。
ロールスは気球乗りとして飛行家のキャリアをスタートさせた。170回以上のフライトを行い、1903年には最長滞空時間記録を樹立し、ゴードン・ベネット・ゴールドメダルを受賞している。1910年には英国で2番目となる航空機の操縦免許を取得。同年、英国人として初めて英仏海峡を飛行機で横断し、英国とフランスを無着陸で往復した初の飛行家という称号も手にした。
現在、ロイヤル・エアロ・クラブはロンドンから移転したが、英国のエアスポーツやレクリエーション飛行の全国的な統括・調整機関であり続けている。
ロイヤル・オートモービル・クラブ
チャールズ・スチュワート・ロールスは、後に「ロイヤル・オートモービル・クラブ(RAC)」となった、グレート・ブリテンとアイルランドの「オートモービル・クラブ」の創設メンバーでもあった。オートモービル・クラブは1897年に設立されている。
1904年5月4日、マンチェスターのミッドランド・ホテルにおいて、ロールスとヘンリー・ロイスの歴史的な初対面を実現したのは、RACの仲間であるヘンリー・エドマンズだった。また、クラブの秘書を務めていたクロード・ジョンソンは、ロールスが経営する自動車販売会社「C.S.ロールス」のビジネスパートナーであり、後にロールス・ロイスの初代マネージングディレクターにも就任している。
ロールスが飛行中の事故により32歳という若さで亡くなった翌年、1911年にクラブは現在のポールモール89番地へと移転した。
バークレー・ストリート
チャールズ・スチュワート・ロールスの生誕地から目と鼻の先にあり、ロンドンでも有数の高級住宅地であるバークレー・ストリートは、メイフェアの中心地だ。現在、このバークレー・ストリートには、ロールス・ロイスの英国フラッグシップショールームがあり、世界で初めてロールス・ロイスの新しいコーポレートアイデンティティに合わせて改装が施されている。