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McLaren M6GT
ニュージランドから現れた類まれな才能
1952年に、わずか14歳でモータースポーツの世界へと飛び込み、その後さまざまな国内チャンピオンシップを獲得するなど、その才能を広く知らしめたニュージーランド人のブルース・マクラーレン。
1958年にはその戦いの場をヨーロッパに求め、ニュルブルクリンクで行われたドイツGPに参戦。以後1959年から1965年まで、ブルース・マクラーレンはクーパー製のF1マシンを駆り、F1GPへの参戦を続けていった。初優勝は1959年のアメリカGP。翌1960年にはシリーズ2位という成績を収め、誰もが彼の才能には熱い視線を注ぐようになった。
唯一果たせなかった夢
そして1963年、ブルース・マクラーレンは自らの名を掲げたレーシング・チーム、「ブルース・マクラーレン・モーターレーシング」を設立。つまり2023年は、彼らにとっては創業60周年というアニバーサリー・イヤーにあたるのだが、そこにブルース・マクラーレンの姿はなかった。彼は1970年にイギリスのグッドウッド・サーキットで、1970年用のCan-Amマシン、「M8D」のテスト中にクラッシュ。32歳の若さでこの世を去っているからだ。
ブルース・マクラーレンは、レーシング・ドライバーとして、そしてレーシング・チームのオーナーとして、ほぼ順風満帆な人生を歩んだと論じても、それはあながち間違いではないだろう。だが彼には唯一果たすことのできなかった夢があった。それはマクラーレンの名を掲げたロードカーの生産を行うこと。
当時マクラーレン・モーターレーシングが、F1とともに積極的に活動していたアメリカのCan-Amシリーズに参戦するため、カスタマーに販売していた「M6B」をベースに、そのロードバージョンを製作しようというのが、彼が描いた夢のアウトラインである。
製作されたのはプロトタイプ4台のみ
最初は年間生産台数で25台を必要とするグループ4への公認も考えていたマクラーレンだが、実際にFIAからの公認は得ることはできず、「M6GT」とネーミングされたそのモデルは4台のプロトタイプが製作されたのみで、開発計画そのものは中止された。
その4台は現在でも健在とされ、ボディカラーは1台がレッドであるほかはオレンジであるとされる。実際の製作は同じイギリスのトロージャンによるもの。
ブルースがこの世を去ったのはその後のことになるが、マクラーレンの名を掲げたロードカーを、という強い意志は、その後継者たちによって長い年月を経て受け継がれることになる。1993年に誕生する3シーターのスーパースポーツ、その名も「F1」がそれだ。