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39年の歳月を超えて蘇った記憶。しかし現車はドイツにあると聞かされて・・
(株)三栄がかつて発行していた『カースタイリング』というデザイン専門誌の第37号。1981年末に発売されたその裏表紙には、ミラノの大聖堂をバックに1台のコンセプトカーの写真が掲載されていた。それから39年の歳月を経て、マツダイタリアは同じ場所で同じクルマを撮影した。
その名をマツダMX-81という。当時マツダと協力関係にあったカロッツェリア・ベルトーネが、マツダのために製作したコンセプトカー。81年秋の東京モーターショーでデビューして大きな反響を呼んだ。筆者も見に行ったが、MX-81の周囲はまさに黒山の人だかり。「いつ発売するのか?」と説明員に問う声が相次いだことを、今も鮮明に覚えている。
2020年にマツダヨーロッパがMX-81のレストアに関するリリースを出して以降、いつかそれを取材したいと考えながら時が流れていた。そして昨年。8月に広島本社のマツダミュージアムを見学した際、そこにはないことを確認。11月に再び広島を訪れたとき、たまたま出会った山本修弘に「MX-81はいまどこにあるのですか?」と問い掛けたのだが・・。
山本修弘は言わずと知れたNDロードスターの開発主査。その後はマツダブランドのアンバサダーとして、多方面で活動している。彼がMX-81のレストアに関わっていたことは、マツダ・ヨーロッパのリリースで知っていた。
山本の答えは「ドイツです」。具体的にはアウグスブルク市の” Mazda Classic – Automobil Museum Frey”に保管されているという(展示中かどうかは不明)。ここはドイツのマツダ販売店のオーナーが開設したマツダ車専門のミュージアムだ。実車を取材するのはあきらめて、山本に話を聞くことにした。
Forza Mazda ! マツダとイタリアを結ぶ心震わせる出来事を辿った先にMX-81があった
マツダは2020年、創立100周年を迎えた。それに向けて動き出したひとりが、アンバサダーの山本修弘だった。「人と人が出会い、つながって、心震わせる出来事になる。そんなエピソードを、世界それぞれの地域で史実を辿りながら見つけたい。それが100周年の轍になると考えた」と山本は振り返る。
世界各地からエピソードを集めていた山本のもとに2019年11月、マツダイタリアから一通のメールが届く。
「2015年にNDロードスターを欧州に導入してから、私とマツダ・イタリアの付き合いが始まった。2018年には主査の名前を付けた限定車を彼らが企画し、MX-5(ロードスターの海外名)の”ヤマモト・シグネチャー”を4台だけ販売したんです。2019年にはMX-5の30周年記念イベントがイタリアで開催され、そこに私も呼ばれた」
そうした関係性があってのイタリアからのメールだった。マツダ初のバッテリーEVとなるMX-30は、2020年に欧州で発売と決まっていた。一方、MX-81は「MX」の名を冠した初めてのクルマだ。この奇遇に気付いたマツダイタリアが、「MX-81について知りたい」と問い合わせてきたのである。これがすべての始まりだった。
山本はすぐに試作部門の倉庫に眠っているMX-81を確認した。普通ならコンセプトカーはお役御免になれば処分される運命だが、「MX-81が保存されていることは知っていた」そうだ。
100年史の編纂チームやマツダミュージアムの担当者に問い合わせるなかで、山本は「マツダとベルトーネとの関係は1960年代に遡る。そこには人と人のワクワクするような出会い、そしてクルマへの情熱と夢に挑戦する物語が隠されていた」と知る。そんな両社の長い関係を象徴し、なおかつ「MX」のネーミングの原点でもあるMX-81。山本はベルトーネが作ったMX-81のレストア計画を始動した。
62年に始まったベルトーネと関係。そこには人と人との感動的な出会いがあった
マツダは1950年代からフリーランスの工業デザイナー、小杉二郎を起用して3輪トラックやR360クーペ、キャロルなどのデザインを開発する一方、少しずつ新卒デザイナーを採用し、デザイン組織作りを進めていた。いつまでも小杉という個人に頼るわけにはいかないが、軽や商用車から普通乗用車へ進出するには、社内のデザイナーだけではまだ実力不足。そこでイタリアのベルトーネに白羽の矢を立てたのが、そのきっかけになったのは偶然とも言えるような人と人とのつながりだった。
誰より重要な役割を果たしたのが宮川秀之である。宮川の著書『新・われら地球家族』から要点を短くまとめると・・。
早稲田大学の学生だった宮川は「オートバイによる世界一周」を計画して日本を旅立ち、ローマ五輪開催中のイタリアで仕事を得て長期滞在。トリノのモーターショーで、後の奥様となるマリーザに出会った。日本語を勉強していたマリーザが広島に語学留学。誘われて広島を訪れた宮川は、当時のマツダ社長の松田恒次に知己を得て、デザインの重要性を熱心に説いた。宮川の言葉に松田恒次が動き、マツダは1962年、ベルトーネと技術援助契約を締結する。
ベルトーネ案から生まれた初代ルーチェ・セダン/ロータリークーペ。ジウジアーロが辞めてもベルトーネとの関係は続いた
62年当時のベルトーネのチーフデザイナーは若き日のジェルジェット・ジウジアーロ。彼がマツダのために提案した最初のデザインが、1963年の全日本自動車ショー(東京モーターショーの当時の名称)でデビューしたルーチェ1000である。
ルーチェ1000は市販予定車として発表されたが、マツダは当時、800ccの初代ファミリアの開発を進めており(デザイン担当は後にデザイン本部長となる福田成徳)、それに近い1000cc級のプロジェクトは廃案。ジウジアーロとしても、マツダから提示された寸法要件ではバランスのよいフォルムを作れず、必ずしも本意ではないデザインだった。
続いてマツダはひとまわり大きなセダンのデザインをベルトーネに依頼。寸法要件が緩和され、ジウジアーロは美しいセダンのプロトタイプを作り上げた。
このプロトタイプがショーに飾られることはなかったが、マツダ社内の若手デザイナーたちがそれをベースにレシプロでFRの初代ルーチェ・セダンとロータリーでFFのルーチェ・ロータリークーペを開発。それぞれ65年、67年の東京モーターショーでデビューした。
なおルーチェ・セダンについては、社内案に対するアドバイスをベルトーネに求め、ルーフやトランクのラインを修正してもらったという秘話が『モーターファン』誌の1966年11月号で語られている。
ジウジアーロは1965年にベルトーネを辞してカロッツェリア・ギアに移籍し、68年にはイタルデザインを設立。しかしマツダはベルトーネとの契約を続けた。小杉二郎という個人に頼り続けることを良しとしなかったマツダとしては、チーフデザイナーが交代してもベルトーネという会社との関係を重視するのは当然の選択だったのだろう。
第2章では、いよいよ本格的なレストア作業が開始されます。搭載されていたエンジンは、なんと「WRC参戦に向けて試作したエンジンだと思う」というから驚き。広島本社でとりあえず動く状態まで修復されたMX-81は、生まれ故郷のイタリア・トリノに送り、フルレストアすることに。お楽しみに!