「イギリスはトヨタ2000GTを認めなかった?」ボンドカー小考察・その1

トヨタ2000GT
ジェームズ・ボンド=007(ダブルオーセブン)。彼が主人公となる映画シリーズは、近く公開のNo time to die(ノー・タイム・トゥ・ダイ=直訳すれば「死ぬ時間はない」)で25作目になる。筆者は4作目『サンダーボール作戦』以降、必ず映画館に足を運んだ。中学生までは「カッコいいから」が見る理由。高校生になるとボンドガールがお目当て。自動車産業の取材を始めてからは「ボンドカーの車種選択とその役割」に興味を抱いた。そう。ボンドカーなくして007は語れない。新作公開を前に、歴代ボンドカーを振り返ってみる(写真は筆者撮影分しか掲載できないので、映画のシーンはほかのサイトをご覧ください)。
TEXT◎牧野茂雄(MAKINO Shigeo)
ジェームス・ボンド(ショーン・コネリー)とアストンマーティンDB5 PHOTO◎ASTON MARTIN

第1作『ドクター・ノオ』

第1作『ドクター・ノオ』。本国イギリスでの公開は1962年10月。舞台はジャマイカ。映画を見ているかぎり高速道路はなく狭い道が多い。ジェームズ・ボンドが運転したのはサンビーム『アルパイン』だった。2シーターのオープンカーであり、ボンドはただ運転していただけだった。山道で敵に追われたが、低い車高だったため、前方の道を塞いでいたクレーン車のクレーンの下をすり抜けて追跡を振り切った。サンビーム『アルパイン』には「秘密兵器」などいっさい搭載していなかった。

英国の秘密情報部(SIS=ミリタリー・インテリジェンス)のなかの、とくに秘密作戦を担当する第6部門(MI 6)のエージェントであるジェームズ・ボンドが英国車を運転するのは当然といえば当然だが、なぜサンビームなのか。

トライアンフ・モーター・カンパニーは1960年にレイランド・モーターズに買収され、トライアンフ「ヘラルド」シリーズに948ccエンジンを積む小型のオープンカーが加わったのは1962年。いっぽう、2代目サンビーム「アルパイン」は1960年のラリー・モンテカルロでクラス優勝(2000cc以下)を収めている。

自転車とバイクのメーカーだったサンビームランド・サイクル・ファクトリーから1905年にサンビーム・モーターカー・カンパニーとして自動車部門が独立し、1920年代に栄華を誇ったが、1929年の世界大恐慌により経営状態が悪化し、ルーツ・モーターに身売りした。このときルーツ・モーターはクレメント・タルボ(Talbotだが語尾のtは発音しない)も買収し、4人乗りのタルボ90をベースに2代目サンビーム・アルパインが作られた。ルール・モーターは買収した2車の技術資産を使って買収資金回収へと動き出したのである。

当時の知名度としてはトライアンフのほうが上ではなかったかと思うが、イベントとしてのラリー・モンテカルロの知名度は高く、ここで活躍したクルマにボンドが乗ることになった。ラリーで活躍した小さな2人乗りハンドリングマシンのコンバーチブルというサンビーム『アルパイン』のキャラクターは、ボンドの愛車として充分に納得がゆく。

第2作『ロシアより愛を込めて』

第2作『ロシアより愛を込めて』。イギリスでの公開は1963年10月。冒頭でボンドはベントレー・マークIVコンバーチブルに乗っていた。シーンは川辺でのデートであり、スパイに貸与された官給品ではなく「私物」という設定に思われる。しかし、自動車電話が付いていた。普通の電話機と同じようなカールコードの付いた黒い受話器だったが、日本で最初に市販された自動車電話もたしかにベージュのカールコード付き受話器だった。

物語はトルコの首都アンカラで始まりベネチアで終わるが、ボンドは敵のシボレー・ピックアップトラックを運転しただけだった。なお、第1作と第2作は英国情報部とアメリカCIAの共同作戦的な話の流れだった。西側の連携を強調したのだろうか。しかし、敵はあからさまにソ連ではなくスペクターという巨大な「悪の秘密結社」である。

3作目『ゴールドフィンガー』

アストンマーティンDB5 PHOTO○ASTON MARTIN

3作目は『ゴールドフィンガー』。イギリスでの公開は1964年9月。東京オリンピック開幕の直前だった。本作で初めて、ギミック満載のボンドカーが登場する。アストンマーティン「DB5」は、映画公開の前年にデビューしたばかりであり、撮影に使われたのはプロトタイプの一台だったという。ヘッドライトの奥から機関銃が飛び出し、車輪からは並走車のタイヤを砕くカッターが飛び出し、後部ガラスの後方に防弾板がせり上がり、ナンバープレートは回転して切り替わる。助手席に敵が座ると、ボタン一つで座席ごと空へ打ち上げて敵を追い出す(戦闘機の緊急脱出シートと同じ)。こうした装備はその後の「スパイ物」に登場するクルマの原型になった。

本作はイギリス公開からわずか3カ月で年末年始映画として日本で公開された。当時、映画は年末年始の娯楽の中心だった。それと、筆者が憶えているのは日本橋高島屋のおもちゃ売り場にあった「ゴールドフィンガー・ボンドカー」だった。1ドル=360円、1ポンド=1000円という時代だったから、恐ろしく高価だった。果たしてこのときのDB5が映画史上初めてのギミックカーだったかどうかは定かでないが、映画を観てもその内容を理解できない子供もボンドカーに憧れた。

同時にアストンマーティンは、第3作がアメリカ・ロケだったことからアメリカでの知名度が上昇し、その後の販売実績に貢献した。ロールスロイス、ベントレー、ジャガー、ディムラーにつづく高級ブランドして認知されたのは「ゴールドフィンガー」公開後だった。そして、ジェームズ・ボンドというキャラクターをこの第3作で確立させる狙いだったのか、CIAとの共同作戦ではない。アメリカで起きる事件を英国情報部所属のジェームズ・ボンドが個人技で解決するというストーリーに変わっていた。

第4作『サンダーボール作戦』

第4作『サンダーボール作戦』は世界のトップを切って日本で1965年12月に上映された。筆者は父親に連れられて銀座の映画館へ行き、初めて007を大きなスクリーンで観た。イギリス空軍の戦略爆撃機アヴロ『ヴァルカン』がスペクターに強奪され、搭載していた2発の原子爆弾を奪い、イギリスに金銭を要求するというストーリーだった。

当時、イギリスは米ソに続く核先制攻撃力を備えており、爆撃機はハンドレイ・ページ『ヴィクター』、ヴィッカース『ヴァリアント』、アヴロ『ヴァルカン』の3機種を保有していた。頭文字がすべてVのため、Vボマー・トリオと呼ばれた。『サンダーボール作戦』が封切られた1965年当時は、NATO軍正面でイギリスがワルシャワ条約機構軍と核戦力で対峙する役割を担っていた時代だ。フランスが戦術核運用機としてミラージュⅣの運用を始めたのが1964年10月であり、イギリスはまだ大英帝国だった。ただし、この映画の舞台がカリブ海だったためアメリカもボンドを支援し、MI6とCIAの共同作戦的ストーリーが復活した。

この映画にはボンドカーは登場しなかった。ジェームズ・ボンドは国家のために働くエージェントとして描かれた。しかし、日本で最初に封切られただけあって、関連グッズの販売がすごかった。当時の男の子の趣味といえばプラモデル。スペークターの水中スクーターは大ヒットし、模型売り場に007関連商品がずらりと並んだ。東京オリンピックの成功を糧に、日本が世界経済の表舞台に出はじめたのが当時だった。

第5作『007は2度死ぬ(You Only Live Twice)』

ボンドカーになった2000GTは、コンバーチブル仕様だった。PHOTO○TOYOTA

そして第5作『007は2度死ぬ(You Only Live Twice)』。舞台は日本だったが公開は米英のほうが4日早く1967年6月13日だった。この年に発売されたトヨタ『2000GT』の屋根を切り落としてコンバーチブルにした特別モデルは、ボンドカーとしてではなく日本の女性エージェントの愛車として登場した。経済発展著しい日本だったが、英国の由緒あるスポーツカーと同列に論じる存在にはあらず、ということなのだろうか。前作同様に本作にもボンドカーは登場しなかった。

TOYOTA 2000GT

1964年時点で日本国内の自動車市場はイギリスを上回っていた。自動車生産台数は「じわじわと坂を下る」雰囲気だったイギリスに対し、日本は増加を続けた。1966年に日本はイギリスの生産台数を抜いた。日本車はイギリス向け輸出が増えていた。そうした背景が、トヨタ2000GTを「ちょい役」にとどめたのだろうか。

1960年代後半のイギリスは自動車産業大再編だった。オースティン、モーリス、ウーズレイ、ライレイ、ACEが合併したBMH(ブリティッシュ・モーター・ホールディングス)と、ディムラー、ランチェスターなどがジャガーに合流した一派が合併し、1966年にBMH(ブリティッシュ・モーター・ホールディングス)が生まれ、その2年後にはローバー、トライアンフなどがレイランドに合流した一派とBMHが合併しBLMC(ブリティッシュ・レイランド・モーター・カンパニー)が誕生した。BLMCは1975年に国有化される。

この、イギリス自動車産業大混乱時代に007シリーズは登場し、人気シリーズへと成長する。そして、そのなかで重工業企業グループであるデイビッド・ブラウン(DB)が所有していたアストンマーティン・ラゴンダは1972年の身売りまで安泰だった。アストンマーティンとジェームズ・ボンドという関係は、この経営的な安定がもたらした構図なのかもしれない。

007というと、どうしてもギミック満載のボンドカーを連想する。しかし、ショーン・コネリーがボンドを演じたシリーズでは、ボンドカーが活躍したのはアメリカ・ロケの1作だけだった。(つづく)

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著者プロフィール

牧野 茂雄 近影

牧野 茂雄

1958年東京生まれ。新聞記者、雑誌編集長を経てフリーに。技術解説から企業経営、行政まで幅広く自動車産…