第四幕 スピードトライアル本番(前編)」トヨタ2000GT試作1号車の数奇な運命 【TOYOTA 2000GT物語Vol.4】

トヨタの社運をかけたTOYOTA 2000GTのスピードトライアルが始まった。本番直前に潤滑系を大改造したエンジンなどマシンの耐久性の他に、台風の接近による天候の急変も大きな不安要素だった。しかし、FIAの国際公認記録挑戦のため海外からの役員も参加していたため、このトライアルの日程変更はできないという事情があった。
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整備が終わったのは本番当日の朝3時だった

1966年10月1日午前10時。TOYOTA 2000GTのプロトタイプである280A/Ⅰ型の試作1号車をベースにしたスピードトライアルカーがゆっくりとピットを離れた。茨城県・谷田部の自動車高速試験場の高速周回路で78時間走り続けるスピードトライアルが始まった。ドライバーは、細谷四方洋、田村三夫、福沢幸雄、津々見友彦、鮒子田寛の5名。

直前のテストでは、潤滑系を大幅に見直したエンジン対策により、トラブルなしに10000kmを走破。ようやく重大なトラブルは克服できた。しかし、本番前日になってクラッチの故障が発覚。急ぎ部品倉庫からクラッチを取り寄せ、交換作業が終わったのは本番当日の午前3時のことだった。

スピードトライアルではレースでの常識は通用しなかった。血気盛んな若いドライバーたちは「オーバルコースを走るということで、運転席に座ってアクセルを全開にしていればいいのだから、楽な仕事だ」と思っていたというが、実際にはサーキットで競争するレースとは全く異質の、マシンにもドライバーにも過酷な挑戦だった。

1スティントが2時間30分で5人のドライバーが交代で運転した。ストレートでは250km/h近くの速度で走り、ラップタイムの基準は1分32秒だったという。その平均速度はおよそ215km/h。決められた速度を保つために「6450rpmで走れ」など、ピットから無線で50rpm刻みの指示が飛ぶ。

高速周回路は2本の直線を2つのバンクで結ぶため、それぞれの直線では風向きが変わる。さらにバンクは入口と中間、出口で走行抵抗が異なる。回転を合わせるためにミリ単位のアクセルコトンロールが要求された。

レースならばアクセルのオン・オフがあり、ストレート区間での休息は可能。しかし、スピードトライアルではそんな余裕は微塵たりともない。常にアクセルコントロールに神経をすり減らさねばならなかったのだ。

夜間走行のスティントでは睡魔とも戦わなくてはならなかった。さらに、コースサイドからキツネや山鳥、キジなどがコース内に侵入してくるので、それにぶつからないよう気をつける必要もあったという。

日章旗が振り下ろされ、長いスピードトライアルが始まった。この時点では、まだ台風の影響は感じられない。クラッチをいたわるため、スタートやピットアウトはゆっくりとクラッチミートして発進した。

雨のストレートでハイドロプレーニング発生!

「普通のレースでは、コーナーで頑張ってもストレートでリラックスして休めます。それに前のクルマを抜く楽しみもある。コーナリングではスロットルコントロールが必要ですが、それ以外はアクセル全開ですから神経を使わずに走れます。だから耐久レースでも疲れませんでした。

ところがスピードトライアルでは風向きで空気抵抗が微妙に変わるし、バンクでも勾配で走行抵抗が変わるので、微妙なアクセルコントロールを2時間半の間ずっとやっていなくてはならない。さらにドライバーの意地として、毎ラップ同じタイムで走りたい。

コンマ以下まで合わせていきたいからひたすら集中ですよ。交代でクルマから降りたら足が棒のようになり、本当につらかった。もう一度トライアルの話が来ても、できればやりたくないと思いましたね」と、ドライバーのひとりだった津々見友彦は後に語っている。

2日目になると、台風28号の接近によって天候が急変した。朝から降り出した雨と風が強まったのだ。ヘビーウエットの路面がドライバーを悩ませた。

「谷田部の高速周回路はハイドロプレーニングがひどかったですね。コンクリート舗装のつなぎ目がアスファルトで盛り上がっていて、その5~6mの間に水が溜まって小さなプールができる。ストレートはそれの連続なんです。

当時は晴れでも雨でも同じタイヤですし、台風による横風も吹いて結構怖かった。水たまりのない45度バンクに入ると、ほっとしました」。5人のドライバーの中で最年少、弱冠20歳だった鮒子田寛も当時の強烈な印象を覚えていた。

そして、2日目の夜、最大のピンチがTOYOTA 2000GTトライアルカーを襲った。(続く)

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