アンフィカーの生みの親
水陸両用車開発に一生を捧げたハンス・トリッペル

2026年1月に開催されたチューニングカーとカスタムカーの祭典である『東京オートサロン2026』の会場の片隅に場違いとも思える1台の珍車が展示されていた。そのクルマとは旧・西ドイツ製の水陸両用車アンフィカー・タイプ770だ。

2026年1月9日(金)~1月11日(日)にかけて幕張メッセで開催された『東京オートサロン2026』に出展されていた旧・西ドイツ製の水陸両用車アンフィカー・タイプ770。ボートに4つの車輪がついたようなこの水陸両用車を会場に持ち込んだのは、クルマを共同所有するという新サービス『ランデブー』だ。代表の浅岡亮太氏は、筆者もお世話になっている古いヨーロッパ車を専門に扱う『アウトレーブ』の浅岡紀子氏の息子さんだ。

【vol.1】で紹介したアンフィカーは、1961~1965年にかけて生産(在庫車販売は1968年まで)された世界で初めて民生向けに量産された水陸両用車だ。このクルマは実業家にしてBMWの大株主だったヘルベルト・クヴァントの意向を受け、アメリカ市場攻略を狙って同社傘下のIWK(Industoriewerke Karlsruhe:現クーカ)が開発・製造を担当した。

わずか5台!? 日本でも販売された幻の水陸両用車「アンフィカー」を発見!【東京オートサロン2026】 | Motor-Fan[モーターファン] 自動車関連記事を中心に配信するメディアプラットフォーム

珍車・名車も展示される『東京オートサロン』の会場で西ドイツ製の「幻の水陸両用車」を発見! 『東京オートサロン』の主役といえば、速さと性能を追求したチューニングカーとオリジナリティあふれるカスタムカーであることに間違いはな […]

https://motor-fan.jp/article/1382007/
【幻の水陸両用車アンフィカー・vol.1】

このクルマを開発したハンス・トリッペルは、文字通り「水陸両用車の開発に一生を捧げた人物」であった。彼はアンフィカー以外にも水陸両用差を開発していた。彼が最初に手掛けたクルマは戦前のドイツで誕生した。

時は1930年代初頭のドイツ。専門教育を受けないまま社会に出たトリッペルであったが、自動車エンジニアになるという子供の頃からの夢を忘れられなかった彼は、仕事をしながら独学で自動車工学を勉強していた。だが、当時のドイツは第一次世界大戦の敗北による巨額の戦時賠償と1929年の世界恐慌と1931年の金融恐慌の影響でドイツ経済は壊滅的な危機に瀕していた。

ハンス・トリッペル
ハンス・トリッペル(1908年7月19日生~2001年7月30日没)
1908年にドイツ南部ヘッセン州グロース=ウムシュタットの街で食料雑貨店を営む両親のもとに生まれる。幼少期に自動車技師になることを夢見るが、専門教育を受ける機会に恵まれず、社会に出る。日々の生活の傍らで独学で自動車工学を勉強し、1930年初頭から自作のレーシングカーでレースに出走するほか、水陸両用車の開発に没頭する。ナチスに入党し、突撃隊員になったことで彼の運命は大きく変わり、ヒトラーから研究開発費を受けたことでトリッペルSG.6アンフィビウムの開発・製造に成功。軍に採用された。敗戦後、連合軍に人道に対する罪により戦犯として裁かれ、懲役5年と罰金刑を受けるが、シュトゥットガルト商工会議所の会長だったフリッツ・キーンの娘と結婚し、カイロン・ヴェルケ社の工場を引き継ぎ、小型乗用車SK10を開発するが商業的には失敗。このことがきっかけでキーンとの関係が悪化し、キーンの娘とも離婚する。自動車開発を諦めきれなかったトリッペルは、その後もメーカーを転々としながら自動車産業の片隅で仕事を続けた。1961年にBMWの大株主だったヘルベルト・クヴァントとともに起こしたアンフィカーを開発する。商業的には満足できる結果を残せなかったが、これが彼の生涯で最大の成功作となった。これ以降も水陸両用車開発を継続し、西ドイツ軍向けの水陸両用車開発のコンサルタントを務めるなど、81歳まで現役のエンジニアとして活動を続けた。2001年7月30日にヘッセン州エアバッハで死去する。

その中で台頭したのがアドルフ・ヒトラー率いるナチス(NSDAP:国家社会主義ドイツ労働者党)であった。困窮する母国を前にして現状を打破する希望を政治に見出した彼は、ナチスの党員になり、党の私兵であった突撃隊(SA)にも入隊する。

トリッペルの自動車技術に対する造形の深さと情熱が党幹部の耳に伝わったことで、1936年10月に彼は総統となったヒトラーに謁見する機会に恵まれた。このときに彼の水陸両用車を気に入った独裁者は、研究開発費の援助を約束し、それを元手としてトリッペルはホンブルクに開発拠点を得ることに成功した。

迷彩塗装が施され、実戦部隊で使用される量産型のSG.6アンフィビウム。ナンバーは一部が塗りつぶされており、国防軍か武装親衛隊の所属車両かははっきりしないが、兵士の装備や徽章から判断して武装親衛隊の所属車両と見て間違いないだろう。ドイツ軍の車両が基本と食をドゥンケルグラウ(ジャーマングレー)を廃止し、ドゥンケルゲルプ(ダークイエロー)に置き換えられ、2色ないし3色迷彩が普及するのは1943年2月以降のことで、乗員の兵士が着ているのはM40ないしM43野戦服のようなので、おそらくは「ツィタデレ作戦」(クルスク会戦)を前にした1943年夏頃に東部戦線で撮影された写真だと思われる。

そして、1936年に初の量産軍用車両のSG.6アンフィビウムを開発し、陸軍から初期生産分として20台の受注を受け、1938~1940年代にかけて納品したところまでを前回は紹介した。今回はその続きからとなる。

ドイツ製水陸両用車「アンフィカー」を知っているか?開発は第二次世界大戦前夜……ナチスドイツの支援を受けてスタート | Motor-Fan[モーターファン] 自動車関連記事を中心に配信するメディアプラットフォーム

アンフィカー・タイプ770を手掛けた異色の設計家ハンス・トリッペルの生涯 2026年1月に開催されたチューニングカーとカスタムカーの祭典である『東京オートサロン2026』の会場の片隅に、場違いとも思える1台の珍車が展示さ […]

https://motor-fan.jp/article/1436928/
【幻の水陸両用車アンフィカー・vol.2】

突撃隊から一般親衛隊へと転籍
引き続き水陸両用車の開発・製造の責任者の地位に留まる

第二次世界大戦の勃発後もトリッペルはドイツにおける水陸両用車の第一人者として引き続きSG.6アンフィビウムの改良と生産に従事していた。

1938年から生産が始まった量産型のSG.6アンフィビウム。ボディは軍用車両としての使い勝手を考慮して再設計され、車体後部は角ばったデザインとなった。1941年からSK-8コロニアル・パイオニアをベースにした後期型のSG.6/41が登場したことにより、この車両はSG.6/38と呼ばれるようになる。

この頃の彼は1934年の「長いナイフの夜」(ナチス内部の突撃隊幹部粛清事件)によって処刑されたエルンスト・レームの後任として突撃隊幕僚長に就任したヴィクトール・ルッツェとソリが合わず、個人的に親しかった親衛隊指導者のハインリッヒ・ヒムラーや親衛隊長官のゴットローブ・ベルガーらの勧めもあって、アルゲマイネSS (一般親衛隊:軍事組織の武装親衛隊や親衛隊特務部隊とは異なる非戦闘員組織)へと転籍していた。

アドルフ・ヒトラー(左)とエルンスト・レーム(右)。レームはナチスが政権奪取前から運用していた準軍事組織・突撃隊(SA:Sturmabteilung)の4代目幕僚長だった人物である。突撃隊はヒトラーの権力基盤強化に貢献し、1933年の政権奪取後は補助警察的な役割を担うものの、失業対策として雑多な経歴・階層の人間を入隊させたことから組織が肥大化し、また思想的な統一が図れずにいた。その規模は50万人にまで膨れ上り、レームは国防軍に代わって突撃隊が正規軍に昇格することを望んでいた。しかし、それをヒトラーに拒否されたことから、彼は公然とヒトラーを含む政府高官を批判するようになる。国防軍などの保守勢力との連携を考えていたヒトラーにとって、このような事情から突撃隊は次第に疎ましい存在となっていった。しかし、レームとは「俺・お前」で呼び合う古くからの盟友でありヒトラーは処分を躊躇っていたが、ヒムラーやハイドリヒの進言もあり、最終的に1934年夏に「長いナイフの夜」と呼ばれる親衛隊によって突撃隊の粛清を実行させた。レームの処刑後、後任となったヴィクトール・ルッツェとトリッペルは反りが合わず、アルゲマイネSS (一般親衛隊:軍事組織の武装親衛隊や親衛隊特務部隊とは異なる非戦闘員組織)へと転籍する。彼が落ち目の突撃隊を見限って、親衛隊員となったことは政治的には賢明な判断だった。

すなわち、彼は褐色のシャツを脱ぎ捨て、黒い制服へと着替えてていたのである。上官や同僚からの覚えが良かった彼は、水陸両用車の開発・製造の責任者としての地位はそのままに、SS本部の幹部士官としての仕事を兼務するようになった。

親衛隊指導者のハインリッヒ・ヒムラー(左)と国家保安本部(RSHA)の初代長官となったラインハルト・ハイドリヒ(右)。両者は親衛隊のトップとナンバー2であり、さらに親衛隊長官のゴットローブ・ベルガーら幹部とトリッペルは突撃隊所属時から良好な関係を築いていた。ハイドリヒはゲシュタポ(秘密警察)を含む警察権力を一手に掌握し、ユダヤ人問題の最終的解決計画の実質的な推進者(ただし、他のナチス幹部がユダヤ人を「劣等人種」とみなして“処分”の対象としたのに対し、彼だけは「ユダヤ人は極めて優秀な民族であり、その優秀さ故に将来アーリア人の生存戦略に仇をなす」という独自の価値観で動いていた)であった。その冷酷さから親衛隊の部下たちからは「金髪の野獣」とあだ名され、畏怖の対象となっていた。一方で、彼はヒトラーに負けず劣らずのクルマ好きで、独裁者とは異なり運転を好んだ。そうした彼の性質からレースへの参戦歴があり、水陸両用車開発に情熱を燃やすトリッペルをかわいがったようだ。しかし、この彼のクルマ趣味が死期を早めることになる。1941年9月ボヘミア・モラヴィア保護領副総督に就任したハイドリヒだったが、イギリスの密命を帯びた亡命チェコ軍人によって、護衛を付けずに愛車のメルセデス・ベンツW142のドライブを楽しんでいたところ、投げつけられた手榴弾によって爆殺されてしまうのだ。

1940年6月、電撃戦によりフランスを1ヶ月あまりで降伏至らしめたナチス・ドイツは、占領地としてフランス北東部のアルザス地方を新たに獲得した。この地方のモルスハイムにはブガッティの工場があった。開戦直前に社主のエットーレはパリ近郊のルヴァロアへ、会社はボルドーへと疎開していたが、工場施設はそのまま残されていたことからナチス・ドイツはこれを接収した。

エットーレ・ブガッティ
エットーレ・ブガッティ
(1881年9月15日生~1947年9月15日没)
イタリア・ミラノ市で家具・宝飾品デザイナーと画家の両親の間に生まれた彼は、早くから自動車に関心を持ち、10代の頃から自動車メーカーのためにエンジンや車体を設計した。1901年にT2を開発し、ミラノの自動車博覧会で賞を獲得。これがディートリヒ社の社主の目にとまり、1902~1904年にかけてディートリヒ=ブガッティのブランドでT3~T7までを開発。これを足がかりとして、当時ドイツ領だったアルザス地方(第一次世界大戦後はフランス領に編入)のモルスハイムに自らの会社を興し、T13ブレシアの生産を開始する。高性能で美しいブガッティのクルマは、たちまちヨーロッパの富裕層を魅了し、レースで活躍したT35グランプリカー、12.8Lという史上最大の排気量を持つ高級車T41ロワイヤル、同車としては最多生産とあるT57などの名車の数々を生み出した。しかし、彼は技術的には保守的なものを好み、DOHCエンジンの採用は遅く、油圧ブレーキや独立懸架サスペンションも嫌ってなかなか採用しようとはしなかった。同社で働くエンジニアのジャンニが1939年に事故死すると、彼に進言できる人間はいなくなったのだ。第二次世界大戦の勃発により、高級車の生産ができなくなると、工場をボルドーに疎開させ、ここで航空機用部品の製造を開始する。一方、エットーレはパリ近郊のルヴァロアの新工場で、戦後を見据えて将来の高級車の研究を開始するが、この頃から健康状態が悪化し、戦後まもない1947年9月に病没した。
1929年のグランドチャンピオンを含む1000勝以上の勝利を獲得したブガッティT35。エットーレ・ブガッティ設計による代表的なマシンだ。

これを自身が生み出したSG.6アンフィビウムのさらなる発展と生産拡大のチャンスと捉えたトリッペルは、ヒムラーとベルガーに水陸両用車のさらなる拡充が対レジスタンス戦など、今後の軍事作戦の要になると説得するとともに、親衛隊幹部としての自身のコネクションを最大限に生かしてモルスハイム工場の責任者に就任する。

占領地のブガッティ工場の責任者に就任
この地に会社を設立して新型SG.6/41の生産に当たる

目論見通り、モルスハイム工場の運営権を握ったトリッペルは、自身の権限を使って開発と生産の拠点を手狭となっていたホンブルクからこの地に移転させることに成功した。そして、これまでの組織を改組し、水陸両用車製造メーカーのトリッペル・ヴェルケ有限会社(Trippel-Werke GmbH)を設立。1941年1月より民生用に開発したSK-8コロニアル・パイオニアをベースに軍用モデルへと改良したSG.6/41の生産を直ちに開始した。

ドイツ軍が接収し、その後にトリッペルが責任者となったブガッティ社のモルスハイム工場前に並ぶSG.6/38。同工場ではSG.6/41の生産のみが行なわれたとの説もあるが、この写真を見ると初期にはSG.6/38の生産も行なわれたようだ。

この車両は民生車両のコンバーチブルのドアを廃止(乗車時はボディサイドを跨いで乗り込む)するなど、防水性を向上させるとともに、フロントノーズを延長してボートのような形状としたことで、水の抵抗を軽減させることに成功した。

パワーユニットは生産コストと性能のバランスからオペル・カピタンが搭載する最高出力の55psの水冷2.5L直列6気筒OHVエンジンへと換装した。これらの改良の結果、前モデルに比べてSG.6/41は性能、信頼性、生産性ともに向上している(SG.6/41の登場により、それ以前のモデルは識別のためSG.6/38と呼ばれるようになる)。

オペル・カピタン。1938年に登場したオペルのアッパーミドルサルーン。55psを発揮する2.5L直列6気筒OHVを搭載し、3速MTを組みわせる。サスペンションはダブルウィッシュボーン式を採用。1940年に同社は「ブリッツ」トラックの生産に集中することを命じられ、カピタンの生産を中止。終戦後の1948年に再開し、1950年まで販売された。戦時中は同盟国である日本にも若干が輸出され、画家・横山大観もオーナーとなった。

独ソ戦の開戦に伴い水陸両用車の需要が激増!
トリッペルはわが世の春を迎えたかに思われたが……

1941年6月に「バルバロッサ作戦」(対ソ連侵攻作戦)が始まり、戦線の拡大により水陸両用車の需要は逼迫していた。とくに攻略目標をレニングラード(現・サンクトペテルブルク)に定めた陸軍の北方軍集団では、湖沼や河川、泥濘地が続く土地が戦場となったことからその需要は高く、水陸両用車は必要とされる台数に対して部隊配備数がまったく追いつかない状況であった。だが、SG.6/41はその構造の複雑さから生産性が低く、陸軍やヴァッフェンSS (武装親衛隊)の前線部隊からは同車の支給を求める声が連日のように中央へと届いていた。

1941年から生産を開始したSG.6アンフィビウムの後期型となるSG.6/41。エンジンをよりパワフルなオペル・カピタン用の2.5L直列6気筒OHVエンジンへと換装。コンバーチブルのドアを廃止し、防水性を向上させるとともに、フロントノーズを延長してボートのような形状としたことで、水の抵抗を軽減させた。1938~1943年までにラインオフしたSG.6アンフィビウムシリーズの総生産台数は、資料によっても異なるが、200~1000台(有力な説は800台)程度とされている。

対ソ戦の勃発によって、ドイツ軍の戦況は一層過酷なものとなったが、トリッペルにとっては自分の発明の価値を押し上げるとともに、親衛隊内での地位を確固たるものにする追い風となるはずだった。ところが、1942年後半からSG.6/41の生産は段階的に縮小され、1943年に入るとついに軍から生産終了を告知されてしまう。

SG.6アンフィビウムの民生仕様として開発されたSK-8コロニアル・パイオニア。軍に納入した20台の低率初期生産型は別に、自社の試験用に6号車をベースに豪華な装備と流麗なボディを架装した。大戦の勃発により市販化されることはなかったが、その設計はSG.6/41の原型として活用された。

ヒトラーから支援を受けるまで誰にも頼ることなく努力を重ね、ナチスという悪魔に魂を売ってまで実現したトリッペルの水陸両用車の前に、最大の強敵として現れたのは、連合軍の攻撃や敵軍の新兵器などではなく、ひとりの天才自動車設計家だった。彼の名はフェルディナンド・ポルシェ。同じく技術者としての理想を追求するためにメフィストフェレスと契約を結んだ男である。

戦線後方の車両集積所に駐車するSG.6/41。ナンバープレートや兵士の装備などから国防軍(陸軍)所属車両だとわかる。

ジュヴィムワーゲンの登場でSG.6/41は生産終了
ヒトラーの寵愛を受けたマッドサイエンティストのポルシェ

人間の理性と良心をドブに捨て、神に叛いた背信者という点では、ふたりは同じ穴のムジナだったのかもしれないが、ポルシェは戦前から自身が設計に携わったアウトウニオンPワーゲンによって自動車レースの最高峰となるグランプリで活躍し、ヒトラーの提唱した国民車構想と合致するKdfワーゲン(のちのVWタイプI、いわゆる「ビートル」)を開発するなどの功績で、その名声はすでに世界中に轟いていた。

これら幾多の成功により、独裁者の寵愛を一身に集めていたポルシェは、名誉称号ではあるがアルゲマイネSS少佐の地位が与えられ(それも自ら望んで得た肩書きだった)、戦時下ということで兵器や軍用車両には限定されてはいたものの、絶大な権限と理想的な開発環境が与えられていた。

フェルディナント・ポルシェ
フェルディナント・ポルシェ
(1875年9月3日生~1951年1月30日没)
1875年にブリキ細工職人の子として生まれたポルシェは、19歳でベラ・エッガー社に入社したのを皮切りに、ヤーコプ・ローナー社、アウストロ・ダイムラー社、ダイムラー社、ダイムラー・ベンツ社、シュタイア社を渡り歩き、1931年に独立してポルシェ設計事務所を設立。ナチス政権からの依頼を受けてミッドシップ・レイアウトを採用したレーシングカーのアウトウニオンPワーゲンや国民車のKdfワーゲン(のちのVWタイプI)などを設計・開発。ヒトラーの信任が厚かった彼は、アルゲマイネSS少佐の地位が与えられ、第二次世界大戦中に戦車などの兵器開発に従事し、VK4501(P)(ポルシェ・ティーガー)やフェルディナンド重駆逐戦車などを手掛けた。しかし、戦時中に自社工場で労働力としてフランス人労働者を不当に扱ったとして戦後は戦犯となる。フランスの刑務所に勾留時に開発中のルノー4CVへの助言を行なった。1947年8月に息子フェリーが保釈金を支払ったことで出所したが、収監中に健康を損ない、1950年11月に脳梗塞により死去している。

夢想家であり、しばしば現実を逃避して自身が思い描くアルカディアへと逃避する性質があったヒトラーには、数で勝る敵を一騎当千の高性能兵器で打ち砕くことを好む傾向が顕著にあった。並の技術者なら独裁者が唱える秘密兵器のアイデアを聞いても「実現不可能」とさじを投げたのかもしれないが、ポルシェは違った。

彼はヒトラーの無理難題を現実に落とし込む技術的な知見と手腕に優れていただけではなく、彼自身もマッドサイエンティスト的な気質が強く、手段と目的とを取り違え、自身が理想とするエンジニアリングと現実に即した効率主義、予算や製造コストが対立したときには迷わず前者を取るような人物だったのだ。すなわち、ヒトラーとポルシェは性格的にもウマがあったのだ。

陸軍兵器局からのちに「ティーガーI」と呼ばれる陣地突破用の重戦車の開発を依頼されたポルシェが設計・開発したのが、試作重戦車のVK4501(P)だ。空冷ガソリンエンジン2基と電気モーターによるガソリン・エレクトリック方式を採用したが、戦車の故障原因となるトランスミッションが不要というメリットはあったものの、出力とトルク不足、発電能力の不足やエンジン過熱による故障が頻発した。そうしたことから手堅い設計のヘンシェル社案に敗れ、正式採用を逃した。しかし、ヒトラーの寵愛を受けていたポルシェ案が破れることはないとして、この時点で90両分の車体が完成していた。これを流用して開発されたのが重駆逐戦車フェルディナントである。この重駆逐戦車は敵の攻撃と機械的トラブルで、初陣のクルスク会戦で1/3以上を失ったが、残存車両は改修型のエレファントとなり、イタリア戦線に送られて活躍した。これらの車両のうち4両は1945年4月下旬まで生き残り、ベルリン攻防戦の前哨戦となったツォッセンでの戦闘にも参加している。

国力の乏しいドイツにあって、戦時中という兵器の需要が逼迫している時期にもかかわらず、ポルシェが主導して、画期的だが技術的な冒険であったガソリン・エレクトリック方式(ガソリンエンジンにモーターを組み合わせたハイブリッド、今で言うシリーズハイブリッド)の機関を搭載したVK4501(P)(ポルシェ・ティーガー)や、自重188tという今もって「世界最重量の戦車」と記録される超重戦車マウスなどのあまりに野心が過ぎるプロジェクトが認められたのもこうした事情からだった。

ロシアのクビンカ博物館に収蔵される超重戦車マウス。連合軍が将来超重戦車を投入するものと信じていたヒトラーの意向を受けて、ポルシェが開発した史上最大の重戦車である。装甲厚は車体全面で200mm、側面でも180mmあり、もっとも厚い砲塔前面では220mmもあった。武装は主砲に55口径128mm戦車砲(主砲)、同軸の副砲として36.5口径75mm戦車砲(副砲)が搭載と、こちらの第二次世界大戦期の戦車としては規格外の強力なものだった。その結果、重量は188tにも達する。この車重の記録は今持って破られておらず、今後も破られることはないだろう。機関はポルシェお得意のガソリン・エレクトリック方式を採用しており、カタログスペックでは1200hpを発揮していたが、重量に対して出力不足は明らかで、最高速度は路上で20km/h、不整地で13km/hとされたが、実際には人が歩く速度以上で走ることは困難だった。試験車両は2両製作され、うち1両には実際に武装が施された。1945年2月、この2両はキュンメルスドルフ戦車試験場に近づくソ連軍撃退のために出撃したが、機関故障と燃料不足により戦うことなく爆破処理されている。のちにソ連は破損した車両を回収し、1号車の車体に2号車の砲塔を組み合わせることで復元している。

他国と比較して大戦中のドイツにこのような”ロマン”的な兵器の開発プロジェクトが突出して多いのは、独裁者の庇護のもとで、ポルシェのようなマッドサイエンティストがのびのびと才能を活かせる環境が整っていたからに他ならない。ユダヤ人やロマ、共産主義者、自由主義者、身体障害者(彼らは皆、体制には不要な存在として強制収容所での“処分”の対象とされた)にとってはナチス政権下のドイツはこの世の地獄以外の何物でもなかったが、技術者にとっては文字通りの天国だったのだ。

もっとも、このような荒唐無稽なプロジェクトが始動するたびに、実現可能性という現実を前に陸軍兵器局などの開発関係者、軍需大臣のアルベルト・シューペア、そして「戦況を一気に好転させる秘密兵器」なるものの配備を受けた実戦部隊の将兵らは泣かされることになるのだが、ヒトラーお気に入りのポルシェら技術陣は、そんなことは些細なこととばかりに周囲の人々の迷惑や苦労などほとんど顧みることはなかったという。

性能面でシュヴィムワーゲンに水を開けられ
技術者としての名声ではポルシェの足もとにも及ばず……

試作車のTyp128を経てTyp166として1942年に完成したシュヴィムワーゲン。設計はフェルディナント・ポルシェが担当し、Kdfワーゲンのメカニズムを流用して開発された。陸上は4WDによる高い走破性を発揮し、水上は跳ね上げ式のスクリューを使って10km/hの速度で航行できた。1944年8月に連合軍の爆撃で生産工場が壊滅するまでに1万4276台がラインオフし、生産車両は国防軍と武装親衛隊で敗戦まで使用された。

そのようなポルシェが設計に携わったのが、Kdfワーゲンを母体としたジュヴィムワーゲン(ドイツ語で「泳ぐクルマ」の意味)であった。もっとも、こちらは超重戦車のようなイカれたシロモノではなく、じつにまっとうな水陸両用車である。1940年に開発が始まったこの車両は、試作車のTyp128を経てTyp166として1942年春に低率量産型が完成。テストの結果、良好な性能を発揮したことから同年秋より本格的な生産を開始したのだ。

シュヴィムワーゲンの試作車Typ122。ホイールベースはキューベルワーゲンと同様に2400mmあり、生産型のTyp166では全長を375mm、全幅を140mm短縮して小型化が図られた。

比較するとシュヴィムワーゲンは、軽量・小型で、Kdfワーゲン譲りの完成度の高いメカニズムを持ち、陸上走行・水上航行の速度性能こそ劣ったものの、軍用車両としての使い勝手、整備性、信頼性、操縦性、4WDによる高い不正地走破性、燃費性能、製造コストのいずれもトリッペルのSG.6/41を大きく上回っていた。初期生産型を装備した実戦部隊からもシュビムワーゲンは好評をもって受け入れられ、軍がSG.6/41の事実上の後継車種として生産を切り替えるのも当然のことだったと言える。

1945年12月の「ラインの守り」作戦(バルジの戦い)で撮影された武装親衛隊のシュヴィムワーゲン。撮影場所はマルメディ周辺で、助手席に座るのは先陣を務めた特別編成の「パイパー戦闘団」の指揮官を務めたヨアヒム ・パイパー SS大佐。

新型車シュヴィムワーゲンを前に一敗地にまみれたSG.6/41であったが、トリッペルはなお諦めることなく、同車の必要性を訴え、自身の政治力を駆使しつつシュヴィムワーゲンと並行して同車の生産継続を願い出たが、軍はこれを無視した。

それは当然の話だった。その理由は明快で、ポルシェの水陸両用車が性能面で大きく上回っていただけでなく、開発者のポルシェはヒトラーの絶対的な信任を勝ち得ていた戦前から名の通ったカリスマ技術者であったからだ。その政治力は圧倒的であった。

水上航行試験中に臨むシュヴィムワーゲン。車体後部の折り畳み式スクリューを兵士が展開しようとしているところ。

対して、トリッペルは一介の突撃隊員から身を起こし、独学で今の地位へと上り詰めた名もない叩き上げのエンジニアに過ぎない。まさしく、月とすっぽん、提灯に釣鐘。同じムジナでも両者の名声は大人と子どもほどの違いがあった(実際にふたりの年齢は30歳以上も開きがあったが……)。努力の人は自身の戦場に突然彗星のように現れた天才に敗れたのだ。

斯くしてこれまで努力と堅実さで地道に着実に積み上げた親衛隊内での彼の評価は、穴の開いた風船のように急速に萎んでいった。

国防軍所属のトリッペルSG.6/41。シュヴィムワーゲンに比べて同車は生産台数が少なく、戦場で記録された写真も多くはない。

順風満帆に見えたトリッペルの将来は突然暗転し、ここから敗戦、そして戦後間もない時期までエンジニアとしての彼は不遇を託つことになる。それは戦争序盤に電撃戦で勝利を重ねていったナチス・ドイツが、ほぼ時を同じく実行した作戦であるスターリングラードの戦い、続くクルスク会戦で敗れ、 戦場での主導権を失って優勢から劣勢へと大きく転換したのと重なって見える。

だが、このときの彼の年齢は35歳。ヒトラー率いるナチス・ドイツ第三帝国が東西から進撃する連合軍によって崩壊するのは、それから約2年後のことだ。だが、93年という彼の長い生涯からすれば、この時点でやっとその1/3を消化したところに過ぎなかった(続く)。