20世紀前半を代表するカーデザイン界の巨匠
バッティスタ・“ピニン”・ファリーナ

1999年12月18日、ネバダ州ラスベガスにて20世紀に作られたクルマの中から最優秀車を選ぶイベント「カー・オブ・ザ・センチュリー」の発表があった。これは最終選考に残った26台の中から世界各国の自動車ジャーナリスト135名の投票によって受賞車とベスト5が選出されるというものだった。

また、それにあわせて20世紀最高の自動車エンジニアを選ぶ「カー・エンジニア・オブ・ザ・センチュリー」、最高の起業家を選ぶ「カー・アントレプレナー・ザ・センチュリー」、最高の経営者を選ぶ「カー・エグゼクティブ・ザ・センチュリー」、そして最高のカーデザイナーを選ぶ「カー・デザイナー・ザ・センチュリー」が発表された。

『オートモビルカウンシル2026』に展示されたフェラーリ288GTOとランチア・ベータ・モンテカルロ。

「カー・デザイナー・ザ・センチュリー」に選ばれたのは、外国車のみならず、多くの日本車を手掛け、世界的にファンが多いジョルジェット・ジウジアーロであった。幾多の美しい名車を生み出した彼の手腕を考えれば当然の受賞であり、この結果に異論を挟む人はいないだろう。だが、彼のデビュー作は1960年に発表されたゴードンGTである。すなわち、20世紀を前半と後半に分ければ、ジウジアーロ氏は後半を代表するカーデザイナーということになる。

昨年の『オートモビル・カウンシル2025』でスペシャルゲストとして来日したジョルジェット・ジウジアーロ氏。

それでは前半を代表するカーデザイナーは誰かと問われれば、エンスージアストの多くは、カロッツェリア・ピニンファリーナの創業者であるバッティスタ・“ピニン”・ファリーナの名を挙げるに違いない。彼は1910年代から1950年台にかけて傑作の名に値する幾多のカーデザインを担当してきた。

バッティスタ・“ピニン”・ファリーナ(左)と息子のセルジオ(右)。

自動車の美を追求し、カーデザインの近代化に大きく貢献した
カロッツェリア・ピニンファリーナの創業者

1893年11月2日、イタリア・ピエモンテ州コンスタンツェで11人兄弟の10番目として生まれたバッティスタ・ファリーナは、小柄だったことからピエモンテ語で一番小さい兄弟を意味する「ピニン」の愛称で呼ばれていた。バッティスタの両親は彼が幼い頃にトリノへと移り、そこでワインの小売業を始めた。

彼ら一家がトリノに移り住んだのとちょうど同じ頃、イタリア北部出身の9人の共同出資者によってフィアットが設立。ジョヴァンニ・アニェッリの見事な経営手腕もあってこの会社は急成長を遂げ、トリノはイタリア随一の「自動車の街」となる。

バッティスタ・“ピニン”・ファリーナとフェラーリ400スーパーファスト。1960年に撮影された写真。

ピニンは小学校を卒業すると、兄・ジョヴァンニのボディショップである「スタビリメンティ・ファリーナ」で働き始める。そこで彼は、ハンマーひとつで平らなシートメタルから立体的なフォルムを生み出すボディワークを学び、やがては設計やデザインを担当するようになる。当時の高級車やスポーツカーは自動車メーカーが製造したローリングシャシーに、ボディ架装を専門に行うカロッツェリア(コーチビルダー)が一般的なことであった。

1936年型ランチア・アストゥーラ・ティーポ233C。 (PHOTO:トヨタ博物館)

彼がデザインを手掛けたクルマはアニェッリら自動車メーカーから高く評価されていた。それに伴い社内での発言権も増したが、自動車の“美”と新たな形態を模索していたピニンは、妻の親類から多額の融資を受けたことにより、1930年に独立して「カロッツェリア・ピニン・ファリーナ」を興した。

1947年型チシタリア202SC。

独立初期の作品は、のちのカーデザインとも共通する優雅さと美しいプロポーションに特徴があったが、それはあくまでも古典の範疇に入るものであり、他のカロッツェリアや量産車とは大きく変わらないものであった。彼がその本領を発揮したのは、1930年代後半からのことで、従来までのボンネットはボンネット、フェンダーはフェンダー、トランクはトランクと機能ごとに独立していたパーツを一体化し、ひとつの箱状にしたフラッシュサーフェイス化したデザインに挑戦するようになってからのことである。これは現代へと至るカーデザインの近代化であり、その大胆な試みの中で彼は“美”を追求し始めたのである。

1948年型アルファロメオ6C 2500S ベルリネッタ・ピニンファリーナ。

そのような戦前の彼の代表作は、ディラムダ、アウグスタ、アウストゥーラ、アルテナ、アプリリアなどのランチア製のシャシーに顧客の要望に応じて特注された少量生産のセダンやクーペ、カブリオレであった。そして、1952年からのフェラーリのスタイリングが彼を代表する仕事となる。戦後の作品は実子のセルジオ、娘・ジャンナの義理の息子であるレンツォ・カルリの補佐もあり、ますます成功を収めていった。

1952年型ナッシュ・スペシャル・アンバサダー(プロトタイプ)。ナッシュについてはこちらも参照。
主力車種のモデルチェンジにピニンファリーナを起用!フォードV8より高いのに売れるコンパクトカー!? ナッシュのプレミアムコンパクト戦略 | Motor Fan|自動車情報のモーターファン

女性の社会進出を見据えてコンパクトカー開発に力を注ぐ 会長兼CEOのジョージ・W・メイソンはこれまで取りこぼしてきた需要を掬い上げ、商圏を下方に拡大することを目的に、1950年に「エアフライト」を採用したコンパクトカーの […]

https://motor-fan.jp/article/783705/
ピニンファリーナを起用したナッシュのコンパクトカー。

経営に携われたレンツォの手腕もあり、ピニンの工房は隆盛を極め、1953年には兄の経営する「スタビリメンティ・ファリーナ」をも吸収。カロッツェリア・ピニン・ファリーナはイタリア随一のカロッツェリアとなった。息子たちの成長を見届けたピニンは、1950年代後半から徐々に社内での役割を縮小し、1959年に息子たちに工房を任せ、自身はデザインの監修役へと回ることになる。

そして、これまでの仕事漬けの人生を取り戻すかのように、ピニンは長年の友人であり、イタリア自動車ジャーナリズム界の重鎮であったジョヴァンニ・カネストリーニとともに世界一周旅行へと旅だった。訪れた国々で彼は自動車産業界やカーマニアから熱烈な歓迎を受け、これまでの仕事が多くの人に支持されていることをピニンは実感したという。

1953年型フェラーリ375MM。

この旅から帰国後、イタリアのジョヴァンニ・グロンキ大統領は、ピニンのイタリア自動車産業への貢献と素晴らしい作品を数多く輩出したことを考慮し、その業績を讃えるべく、彼の姓を正式に「ピニンファリーナ」へと変更することを認めた。

晩年のピニンはイタリア社交界への出席と長旅を繰り返す満ち足りた日々を送り、1966年4月3日に病気のためローザンヌの病院で亡くなった。彼が手掛けた最後の作品であったデュエットの異名を持つアルファロメオ・スパイダー(フランコ・マルティネンゴとアルド・ブロヴァローネがデザイン、ピニンが監修)が1966年のジュネーブモーターショーで公開されてからその数週間後のことであった。

1966年に登場した「デュエット」の異名を持つアルファロメオ・スパイダー(115)。

ピニン亡き後も息子らによってカロッツェリア・ピニンファリーナは活動が続けられ、今日でも名門スタジオとしてカーデザインをはじめとした工業デザインの分野で確固たる地位を維持している。

『オートモビル・カウンシル2026』の主催者展示
『イタリアの名門カロッツェリア「Designed by ピニンファリーナ」』

2026年4月10日(金)~12日(日)にかけて開催された『オートモビル・カウンシル2026』では、そのようなピニンファリーナが手掛けた名車にスポットを当てるべく、主催者展示として『イタリアの名門カロッツェリア「Designed by ピニンファリーナ」』が企画された。

フェラーリ288GTO。F40、F50、エンツォ、ラ・フェラーリと続く限定生産のスペチアーレ・フェラーリの処作として1984年に登場した。 ベースとなったのは308GTBで、当時のグループB規定(のちに廃止)に基づきホモロゲーション取得のため、272台がラインオフした。
フェラーリ288GTOのリヤビュー。心臓部はレイアウトを横置きから縦置きに変更した上で最高出力400psを発揮する2.8L V型8気筒ツインターボエンジンを搭載。最高出力は305km/hにも達した。

展示された車両はピニン時代のクルマがフェラーリ250GT SWBとフィアット・アバルト・750レコルド・エンデューロ・ピニンファリーナの2台、ピニン没後のモデルがフェラーリ330GTC、ランチア・ベータ・モンテカルロ、フェラーリ288GTOの3台が並べられた。

ランチア ・ベータ・モンテカルロ。1975~1983年にかけて生産されたミッドシップ2シータースポーツクーペ。美しいスタイリングと優れた走行性能が持ち味のクルマで、世界メーカー選手権(WCM=World Championship for Makes)のグループ%マシンや世界ラリー選手権(WRC=World Rally Championship)のグループBマシン「ラリー037」のベース車両になるなど、モータースポーツでも活躍した。
ランチア ・ベータ・モンテカルロのリヤビュー。もともとはフィアットX1/9の上位モデルとして企画されたX1/20として開発プロジェクトが始まったが、ランチアのラインナップ拡充のために同ブランドからリリースされた。スタイリングは保守的なピニンファリーナにあって、先鋭的なスタイリングを好んだパオロ・マルティンによるもの。

前回のリポートでも述べたとおり、じつはこれらの車両は一昨年開催された『オートモビル・カウンシル2024』の主催者展示でディスプレイされる予定だったのだが、会期直前にカロッツェリア・ベルトーネに在籍し、才能を発揮した天才カーデザイナーのマルチェロ・ガンディーニが死去したことに伴い、急遽予定を変更して「Designed by ベルトーネ」に差し替えた経緯がある。すなわち、今回の展示は2年越しで実現したのだ。

フェラーリ330GTC。1966年のジュネーブショーで発表された2シーター高級GT。好戦的な250GT SWBとは対照的に、ロードカーとしての快適性に重きを置いて開発が進められ、乗り心地を考慮したロングホイールベースが採用されている。
フェラーリ330GTCのリヤビュー。搭載されるパワートレインは、トランスミッションをリヤに配置したトランスアクスルレイアウトを採用しつつ、傑作レーシングカーP3から流用した4.0L V型12気筒SOHCエンジンを搭載。4輪独立懸架サスペンションの採用も相まって当時のフェラーリの中でもスポーツモデルらしい動力性能と操縦性、快適性がバランスされた車両となった。

「デザインの国」と呼ばれるイタリアの中でも屈指の名門カロッツェリアの作品であることに加え、主催者が厳選した至極の車両ということもあり、どのモデルも美しく、エレガントでありながら、かつダイナミズムを感じさせる。

フェラーリ250GT SWB。1959~1962年にかけて生産されたフェラーリの伝説的なスポーツマシン。社名の「SWB」とは2400mmにホイールベースを短縮したことに由来する。GTカテゴリーレースで無類の強さを見せつけ、1960年と1961年のル・マン24時間耐久レースで連勝、ツール・ド・フランスでは1960~1962年まで3連勝している。
フェラーリ250GT SWBのリヤビュー。スタイリングはピニンファリーナらしく優雅で美しく、速さと繊細さが同居したものであるが、スポーツマシンとしては信頼性が高く、同車をドライブしたスターリング・モスは、その丈夫で信頼性が高いことを称賛している。250GT SWBには公道使用を前提としたスチール製ボディの「ルッソ」と、競技参戦を目的にしたアルミ製ボディの「コンペティション」が存在する。

展示された5台はいずれも歴史的な名車であり、希少な存在ではあるが、その中でも注目すべきは、やはりフィアット・アバルト・750レコルド・エンデューロ・ピニンファリーナだろう。

レコードブレーカーながらエレガントで美しい
フィアット・アバルト・750レコルド・エンデューロ・ピニンファリーナ

1957年に製作されたこのマシンは、当時フィアット車をベースにモータースポーツ活動やチューニング事業を行なっていたアバルトがピニンファリーナとのコラボで開発したレコードブレーカーだ。

開発の目的はFIA(国際自動車連盟)の公認の世界速度記録を達成するためのもので、低く細長い空力的に洗練され、同時に徹底的な軽量化が施されたボディはそのためのものである。だが、世界記録のために短期間のうちに製作されたにもかかわらず、無骨さややっつけ感を感じさせず、エレガントな佇まいに仕上げられたところはさすがはピニンファリーナである。

フィアット・アバルト・750レコルド・エンデューロ・ピニンファリーナ。フィアット車のチューナー&レーシングコンストラクターとして活躍していたアバルトとピニンファリーナのコラボで誕生したレコードブレイカー。1957~1958年にかけてモンツァ・サーキットで数々の速度記録を達成するために製作された。

フィアット・アバルト・750レコルド・エンデューロ・ピニンファリーナの心臓部は、当時のFIA規定による「クラスH」(500~749cc)向けの750デリヴァツィオーネ用の747cc水冷直列4気筒OHVエンジンと、「クラスG」(750~1099cc)向けのアルファロメオ ・ジュリエッタ用の1059cc水冷直列4気筒DOHCエンジンであり、それをカルロ・アバルトの手で高度にチューンナップされたものが搭載された。

なお、今回の展示車は前者となる。両車は完成後にモンツァ・サーキットに持ち込まれて記録に挑戦し、クラスHとして製造されたマシンの最高速度は190km/h超、24時間で3743.642kmを平均時速155.985km/hで走破。72時間で1万2000km弱を走り切り、平均速度は165.37km/hを樹立。世界記録を見事達成した。

フィアット・アバルト・750レコルド・エンデューロ・ピニンファリーナのサイドビュー。当時のFIA規定による「クラスH」(500~749cc)と「クラスG」(750~1099cc)に対応するため、限られた動力性能で速度記録に挑むため、徹底した軽量化とトリノ工科大学での風洞実験を経て誕生した。ピニンの跡を継ぎ、カロッツェリア・ピニンファリーナを率いたセルジオは、のちに「ピニンファリーナのデザインの基礎を作ったマシン」と評している。

さらに同年7月には名工ジョアッキーノ・コロンボ技師を招聘してクラスH車両のOHVエンジンをDOHC (ビアルベーロ)化した。これにより最高出力は44hpから57hpへと向上し、1957年8月にポール・フレールとマリノ ・グァルバーニのドライブにより、200km/hを超える平均速度を叩き出し、クラスHで200mile、500km、3時間の3つの国際記録を樹立した。その後もこのマシンの挑戦は続き、500mile、1000km、24時間、48時間、72時間といった記録が次々と塗り替えられていった。

フィアット・アバルト・750レコルド・エンデューロ・ピニンファリーナのリヤビュー。自動車史において非常に貴重な車両であり、ピニンファリーナが手掛けた歴史的名車として知られるこのマシンは、かつて山中湖で開館していた『ギャラリーアバルト』の展示車両のようで、アートディレクターの小坂士朗氏が半世紀の歳月をかけて蒐集したコレクションの1台のようだ。現在、同ギャラリーは閉鎖されており、一般に公開される機会は滅多にない。

フィアット・アバルト・750レコルド・エンデューロ・ピニンファリーナは、かつて山中湖で開館していた『ギャラリーアバルト』の展示車両のようで、アートディレクターの小坂士朗氏が半世紀の歳月をかけて蒐集したコレクションの1台だと思われる。同館は2007年から閉館しており、現在では一般に公開されることが滅多にないことから、今回の公開は貴重な機会だった。このような希少なマシンと巡り合えるのも『オートモビル・カウンシル2026』の魅力と言えるだろう。

『オートモビル・カウンシル2024』の会場全景。主催者展示の『イタリアの名門カロッツェリア「Designed by ピニンファリーナ」』は入り口近くにブースを構えていた。