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911 TURBO(1974-1989)
2.0リッターフラット6ターボの試作品も
1957年に「911」の開発が始まったとき、ポルシェではモータースポーツでの使用と、その後の発展性を見据え、新しい2.0リッター空冷6気筒SOHCエンジンの排気量を2.7リッターまで拡大できるよう余裕を持った設計となっていた。ところがデビューして10年が経つ前に排気量はその上限に到達。最終的には3.8リッターにまで拡大されることとなるのだが、1960年代の時点でポルシェはその限界を察しつつあった。そこでハンス・メッツガー率いるエンジン開発チームが目をつけたのがターボチャージャーであった。
排気を利用してコンプレッサーを駆動し、エンジンが吸入する空気の密度を高めて、より多くの酸素を燃焼室へと送りさらなるパワーを得る過給技術は、第2次世界大戦中に航空機エンジンや戦車のエンジンで実用化されていたこともあり、ポルシェでもKKKやボッシュの協力を得て1960年代から研究が進められてきた。その結果、2.0リッターフラット6ターボの試作品が完成し、1969年に「911」と「914」に搭載して市販する計画があったという。
しかしながらポルシェは時期尚早と判断し研究開発を継続。排気量無制限のスポーツカーレース、北米CAN-AMシリーズに参戦するにあたり、メッツガーらは大排気量アメリカンV8エンジン勢に対抗するために、「917」の空冷180度V12ユニットをベースとした6.6リッターNA16気筒ユニットと、5.0リッター12気筒ターボユニットを試作。テストの結果パワーこそ大きく変わらないものの、大きく重い16気筒よりも12気筒ターボに可能性が見出された。
ウェイストゲートバルブがもたらした強さ
こうして誕生した「917/10」は今もWECとIMSAでタッグを組むペンスキー・レーシングに託され1972年のシリーズタイトルを獲得。さらに改良型の「917/30」は8戦中6勝で2年連続のチャンピオンを決め、その圧倒的な強さゆえレギュレーション変更でシリーズから締め出させることとなった。
この強さを支えていた要因のひとつが、スロットルのオン、オフに対する“ターボラグ”を少なくするため排気側でブースト圧を制御するウェイストゲートバルブの存在だ。それを開発したのは、917/10、917/30の開発責任者であったヴァレンティン・シェーファー。以降もシェーファーはエンジニア人生を通じてターボの開発に取り組み、ポルシェ・ターボの発展に寄与。その功績から“ターボ・ヴァレンティン”の愛称で呼ばれるようになる。
CAN-AMの成功で手応えを掴んだポルシェは、911への応用も画策。「911 カレラ RSR」をターボ化して世界マニファクチャラーズ選手権に出場する一方で、市販用911ターボの開発もスタート。早くも1973年のフランクフルト・ショーで「911S」に2.7リッターフラット6ターボを搭載した「911ターボ・プロトタイプ」をお披露目している。
911のフラッグシップモデルに
そして1年以上にわたるテストの結果「カレラ RS 3.0」用をベースとする2994cc空冷フラット6に最大過給圧0.8barのKKK製の3LDZ型シングルターボチャージャーを組み合わせた930/50型エンジンを新たに開発。260PSものハイパワーに対応するため、径を拡大したクラッチディスク、容量の大きな新設計の4速MT 930/30型ギヤボックスを採用。またボディもフロント185/70VR15、リヤ215/60VR15のタイヤを収めるため前後フェンダーを拡大、さらにヘルマン・ブーストがデザインした特徴的なホエールテールと呼ばれる巨大なリヤウイングやフロントスポイラーを備えた専用デザインとなった。
最高速度250km/h、0-100km/加速5.5秒と当時としては圧倒的なパフォーマンスを誇った「911 ターボ」は1975年から市販をスタート。当初はグループ4GTのホモロゲを取得するために2年で500台の生産を予定していたが、発表とともにその倍のオーダーを獲得。911のフラッグシップモデルとしてカタログラインナップに加わることとなった。
最高出力は300PSの大台に
1978年モデルでは、排気量を3.3リッターに拡大するとともに吸入温度を下げるインタークーラーを装着。そのほか圧縮比のアップ、メインベアリングの大型化などの改良が加えられた結果、最高出力が300PSの大台に到達した。それに伴いリヤウイングを、上面がフラットなティートレー型に変更している。
以降は特に大きな変更を加えられることなく、1986年にタルガ、1987年にカブリオレ、さらに各モデルのスラントノーズをモデルバリエーションに追加。そしてG50型5速MTを標準装備とした1989年モデルを最後に一旦生産が終了した。