トヨタ2000GT、「ヤマハ発動機」が設計・開発したDOHCシリンダーヘッド【TOYOTA 2000GT物語Vol.16】

浜松の楽器メーカーだったヤマハが、なぜオートバイの生産に乗り出すことが出来たのか? さらに4輪車への進出を視野に、DOHCエンジンの開発や幻のスポーツカーの試作まで行っていた当時を振り返る。
REPORT:COOLARTS

自動車用エンジンの手本が「MG-Aツインカム」だった

TOYOTA 2000GTの3M型エンジンは、SOHCのクラウン用M型エンジンにヤマハ発動機が設計・開発したDOHCシリンダーヘッドを搭載したもの。

静岡県浜松市には、ヤマハ、ホンダ、スズキという二輪車と四輪車のメーカーの生産拠点があつまる。戦時中、浜松市には陸軍飛行場、日本楽器製造(現・ヤマハ)や中島飛行機、鈴木式織機(現・スズキ)をはじめとする軍需工場が数多く存在した。しかし、1945年6月にアメリカ軍の空襲、さらに7月にはアメリカ軍艦隊の艦砲射撃によって壊滅的な打撃を受ける。

戦後、文字通りの焼け野原から出直した浜松の産業は、新たな方向性を模索することとなった。その中で日本楽器製造と鈴木織機は、それまでに培った機械製造技術を活かして輸送機製造の分野への進出を決めた。それが、現在のヤマハとスズキへとつながる。

後にトヨタとTOYOTA 2000GTを共同開発することになるヤマハ発動機は、日本楽器製造から分離独立する形で、オートバイの製造・販売会社として1955年に設立。会社設立直後にYA-1、通称「赤トンボ」が第3回富士登山レースの125ccクラスで優勝する。

さらに第1回全日本オートバイ耐久ロードレース(浅間高原レース)のウルトラライト級(125cc)でもYA-1が1~3位を独占。これが話題を呼び、YA-1は市販車としてもヒット商品になった。

1956年、経済企画庁は経済白書「日本経済の成長と近代化」の最後を「もはや戦後ではない」と結んだ。同じ年、日本楽器製造浜松研究所を移管する形で、将来の新しい商品を研究するヤマハ発動機浜松研究所発足。オートバイ製造で力を付けたヤマハ発動機(以下ヤマハ)は、ホンダやスズキのように四輪車開発を考えるようになった。

ヤマハは、研究員を欧州とアメリカに派遣し、自動車メーカーから工作機械メーカーまであらゆる設備を視察して回ったという。海外視察を通して導き出された答えが、大量生産ではなく当時のポルシェやイタリアのカロッツェリアのような手作業によるスポーツカーの生産だった。

同時にエンジンの研究も始まった。手本となったのは、苦労して手に入れたMG-Aツインカムのエンジンだ。MG-Aツインカムは、1959年から1960年までに2000台あまり生産されたイギリス製の2座席オープンスポーツカーで、1588ccの直列4気筒DOHCエンジンはSUツインキャブレターを備え、108ps/6700rpmのパワーを発揮した。

当時としては非常に高性能なエンジンである。ヤマハでは、普通のエンジンを作るのではなく、来るべき高速走行時代の高性能エンジンを目指し、最初からDOHCの開発に取り組んだのだ。

溶接組み立てのDOHCエンジンを試作

MG-Aツインカムを研究したヤマハは、試作1号エンジンを完成。同じ1600cc直列4気筒DOHCで、なんとシリンダーブロック、シリンダーヘッド、そしてコンロッドまでアルミ製という日本初のオールアルミ製エンジンだった。しかし、この試作エンジンの初号機は失敗に終わる。

それから様々な苦難の末、最終的にはうまくいき、90psのパワーを記録したという。このエンジンは1960年末に完成した2座席スポーツカー「YX-30」に搭載され、実際に走行テストが行われた。当時のヤマハにはテストコースがなく、開通前の国道1号線・篠原バイパスで走行テストを実施。144km/hの最高速をマークしたとされる。

その後ヤマハは、カリフォルニアのタイスエンジニアリングという会社から「タイスエンジン」という、溶接構造DOHCエンジンのパテントを購入する。「鈑金エンジン」とも呼ばれたタイスエンジンは、シリンダーブロックを含めてブレージング構造というロウ付け溶接で組み立てられていた。

ブロックの外板ですら3mmもない薄い鉄板をプレスして作られていたという。鋳鉄製の普通のシリンダーブロックに比べると、当然、剛性も耐久性もなかったというが、ヤマハでは実際に回して耐久試験も行ったという。しかし、水漏れなどのトラブルが多発し、開発は難航した。

もともとタイスエンジンは、航空機エンジンの始動用として開発された軽量なもの。ヤマハで試作した直列4気筒DOHCエンジンも120kgくらいしかなかったため、エンジンベンチに据え付ける際も2人で「よいしょ」と持って載せることができたらしい。

クランクシャフトにダクタイル鋳鉄を使用するなど進んだ試作エンジンだったが、開発スタッフですら疑問に思ったというほど、剛性・強度がなく、これも結果的に失敗に終わってしまった。

トヨタのグループ7マシンである「トヨタ7」には、ヤマハ製の5ℓ V8DOHCエンジンが搭載された。そのフロントフェンダーにはヤマハのステッカーが貼られていた。

それでもヤマハのDOHC開発は続けられた。そしてタイスエンジンで得られた苦い経験を基に、「YX-80」という2ℓ・直列4気筒DOHCの新たな試作エンジンを完成させる。この試作エンジンは「幻の日産2000GT」と呼ばれる「A550X」に搭載されたが、ヤマハと日産の提携解消に伴い日の目を見ることはなかった。

だが、「YX-80」の開発までに蓄積されたヤマハのDOHC技術は、1965年にTOYOTA 2000GT試作車の3M型エンジンとなって、ついに花開く。M型エンジンのDOHC化は、YX-80開発がベースになっているという。YX-30のオールアルミエンジンからYX-80、そして3M型エンジンまで、同じスタッフが開発に携わってきたのだ。

このヤマハDOHCの源流は、その後、トヨタ7などのレース用V8エンジン開発から1970年のセリカ1600GT用2T-G型エンジンなどの量産DOHCの開発・製造、そして1990年代のF1エンジンまで、ヤマハを支える技術の源になって広がっていくのである。

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