目次
初代マツダ・キャロルは水冷4気筒エンジンを搭載
当時流行のクリフカットを採用した軽4ドアセダン
キャロルと言えば長年マツダが販売を続けている軽乗用車である。1962年に初代モデルが登場して以来、1970~89年までの販売休止期間を挟み現在までに8世代がリリースされているが、マツダが完全自社開発を行っていたのは初代のみとなる(1989年登場の二代目と1995年登場の三代目はマツダオリジナルのスタイリングを纏っていたが、メカニカルコンポーネンツはスズキ・アルトを流用。生産もスズキに委託していた)。
そんな初代キャロルの外観でユニークなところは、軽自動車としては今も昔も珍しい3BOXのセダンボディを採用したところで、当初は2ドアセダンのみだったが、1963年9月に4ドアが追加されている。
スタイリングの特徴は、後席乗員のヘッドクリアランスの確保とエンジンフードの開口面積を稼ぐためにリヤウィンドウを垂直に立てた「クリフカット」を採用するなど、当時の世界的なデザイントレンドを果敢にも取り入れたことにあった。
しかし、キャロルの特筆すべき点はエクステリアだけではない。360ccという限られた排気量にも関わらず、パワートレインに水冷4ストローク直列4気筒OHVエンジンを横置きしたRRレイアウトを採用。走行風による冷却が期待できないため、エンジン駆動の強制冷却ファンによって車体側面より冷気を導入する凝った設計を取り入れたことにある。
この4気筒エンジンがまた凄かった。コストの制約の大きい軽自動車にも関わらず、高剛性な5ベアリングのクランクシャフト、半球型燃焼室とクロスフロー配置の吸排気弁などを採用するなど、当時の大衆小型車の水準をも遥かに凌ぐこだわりの塊といった心臓を持ち、軽量化のためエンジンブロックやシリンダーヘッドには軽量化のためアルミ合金を用いたばかりか、動弁機構や補機類にはマグネシウム合金まで使用するという贅沢ぶりだ。
その先進的な設計あって、キャロルのエンジンは振動が少なく極めてスムーズに回り、ゴムスプリングを使用したナイトハルト式四輪独立懸架サスの恩恵も相まって、静粛性や制振性、乗り心地といった快適性ではワンクラス上のトヨタ・パブリカさえも凌駕するほどだったという。
“キャロル買うバカ、スバル買わぬバカ”
車重に対するパワー不足がキャロルの弱点に……
これだけ聞けば、知らない人は「初代キャロルは歴史に残る傑作車」との印象を抱かれるかもしれない。だが、現実の評価はその真逆だった。当時のマイカーオーナーの間では「キャロル買うバカ、スバル買わぬバカ」などと揶揄され、ライバルのスバル360と比べても市場の評価はけっして芳しいものではなかったようだ。
というのも、キャロルには致命的な弱点があった。それは車両重量の重さにあった。
まず、革新的な水冷4気筒エンジンの採用に無理があった。エンジンには1気筒あたりの適正な排気量というものがある。乗用車なら理想的なシリンダー排気量はだいたい400~600ccとなる。
通産省が国民車構想を立ち上げた際に当時の識者が「360ccの排気量でまともな自動車など作れるものか」と批判したのはこのためであった。とは言え、単気筒では自動車用エンジンとしては成立が難しい。そこで理想に片目を瞑って360ccの排気量なら2気筒で作るのが定石であった。
それを”無理を通せば道理が引っ込む”で4気筒で作ったものだから、音振性能や回転のスムーズさと引き換えに実用トルクが薄くなるのは当然の帰結と言えよう。
しかも、だ。このエンジン本体がまた重かったのだ。軽合金を多用すれば軽くなるものと思われるかもしれないが、キャロルの4気筒エンジンは将来を見据えて800ccまでスープアップして使うことを前提に設計していたことから、360cc級のエンジンとしてはサイズ・重量ともに過大であった。本来なら軽量化に貢献するはずのフルモノコックボディも剛性確保と耐久性重視の設計のため重量が嵩み、車両重量は前任のマツダR360クーペやライバルのスバル360に比べて140kgも重い545kgとなってしまった。
メーカー | マツダ | スバル |
車名 | キャロル | スバル360 |
年式・グレード | 1963年・4ドアデラックス | 1963年・デラックス |
サイズ(全長×全幅×全高) | 2980mm×1295mm×1340mm | 2995mm×1300mm×1360mm |
ホイールベース | 1930mm | 1800mm |
トレッド(前/後) | 1050mm/1100mm | 1140mm/1080mm |
車重 | 525kg | 385kg |
エンジン | DA型 水冷直列4気筒OHV8バルブ | EK32型 強制空冷2サイクル直列2気筒 |
排気量 | 358cc | 356cc |
最高出力 | 20ps/7000rpm | 18ps/4500rpm |
最大トルク | 2.4kgm/5000rpm | 3.2kgm/3000rpm |
駆動方式 | RR | RR |
トランスミッション | オーバードライブ付き3速コラムMT | 3速MT |
サスペンション | 前:トレーリングアーム独立懸架 後:トレーリングアーム独立懸架 | 前:トレーリングアーム独立懸架 後:スイングアクスル独立懸架 |
ブレーキ | 前後:ドラム | 前後:ドラム |
価格(当時) | 37万円(1962年発売時) | 36万5000円 |
両者のスペックを比べると、スバルの最高出力は18ps(1963年型デラックス)で19.8kg/psに対し、キャロルの最高出力は20ps(1963年型4ドアデラックス)は27.25kg/psと数値的に見ても劣る結果となった。しかし、軽量設計を重視したスバル360と比べると、キャロルは当時の大衆が考える乗用車然とした見栄えの良い立派なスタイリングを誇っており、醸し出す雰囲気も軽自動車らしからぬゴージャスなものであった。
これにやられたユーザーの中にはキャロルをマイカーに選ぶ人も少なくなく、一時はスバルを凌ぐセールスを記録したことさえある。車重の重さという欠点はあったにしろキャロルは商業的にまずまずの成功を収めたのであった。
漫画家・あさりよしとお先生のエピソード&キャロルは作品にも登場
そんなキャロルを当時愛車に選んだ人のひとりが漫画家のあさりよしとおさんのお父上だった。筆者は以前、あさりさんからお父上のキャロルにまつわるエピソードを聞いたことがあるのだが、維持する上でなかなかの苦労があったようだ。今回キャロルの原稿を執筆するため、あらためてあさりさんに話を聞いた。
あさりよしとおさんが2歳のとき、1964年の春か夏頃にお父上は新車でキャロルを購入。「オヤジが買ったキャロルはメッキのグリルのない4ドアでした。写真資料では見つからないタイプで、正面のくぼみにMAZDAのロゴが入り、その左右にタケノコのような形をした穴が空いていました」と話をされていた。おそらくは1963年9月にマイナーチェンジを受けたあとの中期型だと思われる。詳細はわからないが、生産時期の短かったちょっと珍しい仕様なのかもしれない。
あさりさんは納車されたキャロルについて「目一杯安く買ったクルマだったので、納車時はヒーターすら付いておらず、冬になって寒くてたまらず半年遅れで慌てて取り付けました」と語る。彼の出身は北海道空知郡上砂川町。ヒーターのないクルマで北国の冬はさぞ辛かったことだろう。ラジオはもちろん、ヒーターすら標準装備となっておらず、ディーラーオプションとして用意されていたことに時代を感じさせる。
キャロルの非力さは幼いあさりさんの印象に残ったようで、「家族4人を載せた状態だと重く力のないキャロルでは、実家近くの坂をローギアに入れても登ることができず、1度バックしてから加速をつけて駆け上がるしかなかったのです。切り立ったリアウインドウのおかげで、後部座席の空間は広く、快適だった思い出があります。」と話してくれた。
「キャロルでもっとも印象深かった出来事は、走行中にハブベアリングが壊れてボールベアリングをばらまいたのに焼付きも起こさず、しばらくは普通に走れたことですかね」
なお、このときのエピソードは、のちに『地球防衛少女イコちゃん』(原作:河崎実/白泉社刊)の第23話「名車キャロル」(単行本第2巻に収録)に反映されている。
『地球防衛少女イコちゃん』は『いかレスラー』や『日本以外全部沈没』『ギララの逆襲/洞爺湖サミット危機一発』などで知られる「日本のエド・ウッド」ことバカ映画の巨匠・河崎実監督の商業デビュー作。カルト的な人気を誇るオリジナルビデオ特撮『地球防衛少女イコちゃん』をあさりよしとおさんがキュートにコミカライズ化。ストーリーはビデオ第1巻の設定を準拠にしたあさりさんオリジナルとなる(ちなみに実写ドラマの『地球防衛少女イコちゃん2 ルンナの秘密』の怪獣デザインもあさりさんは手掛けている)。特撮ファン&SFファン必読の作品。
『地球防衛少女イコちゃん』全2巻
原作:河崎実
漫画:あさりよしとお
発売:白泉社
旧版コミック第1巻の発売後、諸般の事情により一時は第2巻の発売は不可能かと思われていたが……約10年の沈黙を破って1999年の年末に白泉社から新装版として第1巻・第2巻を同時発売。第23話「名車キャロル」のエピソードはこちらに収録。現在はKindleでも読めるゾ!
「キャロルの最期は真冬に冷却水が凍結し、よりにもよってラジエーターのホース取り付け部が根本から脱落したことが原因でエンジンがオシャカになり、廃車となりました」
1960年代はまだまだ日本車の技術は欧米に追いつけ追い越せの発展途上。加えて一級国道でも砂利道が多く残る過酷な道路事情と相まって、クルマへの負担が大きく、寿命を大きく削られることになった。そんな時代にあって、あさり家のキャロルは北の大地を懸命に走り、天寿を全うしたわけである。
オーナーの好意でキャロルの運転席を体験
KAZOクラシックカーフェスタにエントリーしていたキャロルは、あさりさんのお父上が乗られていた中期型ではなく、1966年に2度目のマイナーチェンジを受けたあとの後期型デラックス。
フェイスリフトにより顔立ちはスッキリしたものとなり、リヤのテールランプは丸形から四角型に変更されたほか、インテリアの意匠がわずかに変わった程度であった。しかし、メカニズムは改良が進んで最高出力は20psに向上し、変速機はフルシンクロ化され、車重は10kgほど軽量化されている。なお、ルーフのみ車体色が変更されたツートンカラーはデラックスのみの特徴で、スタンダードのボディは同色ペイントとなる。
オーナーの千葉正起さんに話を伺うと、前オーナーのおじいさんは平成のヒト桁までは車検を切らさずに乗り続けていたようだが、クルマに乗らなくなって納屋にしまい込んであるのを数年前に見つけて譲ってもらったとのこと。公道復帰に当たっては相応の修理が必要だったとは思うが、雨風をしのげる場所で大切に保存されていた個体とあってボディのコンディションは大変良好であった。
オーナーのご好意で運転席に座らせてもらう。全長3mにも満たない360cc時代の軽自動車を3BOXセダンで作ったことで前後方向のサイズに余裕がなく、おまけに4ドア化したことでドアの開口部は小さい。身長170cm・体重90kgのメタボ体形の筆者が乗り込むにはかなりのアクロバチックな姿勢を要求させられる。
1960年代の古い軽自動車ということを考えても乗降性は明らかに難がある。このパッケージングで4ドアは無理。やはり2ドアの設定だけで良かったと思う。ライバルのスバル360と違ってセンタートンネルが大きく張り出していないのは美点だが、比べると明らかに狭い印象を受けた。
ただし、乗り込んでしまえばペダルが中央にオフセットされている以外は運転操作には支障はないように思える。メーターはナセル内の中央にスピードメーター、その両側には水温計と燃料計が備わる。ダッシュボードの上面には質の良いソフトパッドが張られていた。こうやって車内に乗り込むとインテリアの仕上げは60年前の軽自動車ということを考えると結構良いことに気づく。
クルマを降りて改めて外観を見る。当時の小型乗用車を2/3くらいのサイズに縮小したキャロルのエクステリアは、前述の通り、当時流行だったクリフカットを採用するなど、よく見れば細部の意匠はなかなかに凝っている。また、先程運転席に座ったときにも感じたことだが、ボディ鋼板は結構肉厚で、スバル360やシトロエン2CVに乗り込んだ際のなんとも頼りない感じがしない。
フロントエンジン車ならラゲッジスペースとなる場所に鎮座する水冷4気筒エンジンは、当時マツダが「白いエンジン」と自慢した軽合金製で、オーナーの手入れの良さもあって60年の月日が経過した現在でも銀色に光り輝く。当時の技術と限られた排気量ということを考えれば、2サイクルで開発すべきだったのではとも思うのだが、振動や静粛性、排気ガスのクリーンさ、メンテナンス性、そして将来の上級車種へ拡大版のエンジンを搭載することなどを考えた結果、マツダには4サイクルしか選択肢はなかったのだろう。ただ、そのせいで動力性能は不満が生じることになるわけだが……。
実際にオーナーに話を聞いても「やはりパワー不足は否めません。とくに登り坂がつらい」という。
作り手の理想を追求して致命的な弱点を抱えたクルマだけに
そこがなんともいじらしく、愛おしく感じてしまう
オート三輪から出発し、商用車作りを続けていた当時の東洋工業(現・マツダ)にとっては乗用車市場への参入はまさに長年の悲願であったのだろう。前任のR360クーペは、あくまでも軽自動車という枠内で作られた軽便車であったが、それでは我慢できぬと小型乗用車の縮尺版を無理やり作り上げたのがキャロルだった。
条件の厳しい超小型車を作るには、スバル350やフィアット500、シトロエン2CVのように軽量化を軸に相応のクルマづくりで臨むべきであったことは間違いない。軽自動車のようなマイクロカーと小型大衆車とは、そもそものクルマ作りの出発点から異なるのだからキャロルの開発に当たってはマツダもそうするべきであった。実際にマツダの開発陣も内心そのことはわかっていたはずだ。現に前任のR360クーペは軽量小型な簡素な軽便車として作られ、一定の成功を収めたていたのだから。
しかし、R360クーペで乗用車市場への足がかりを掴んだマツダは、次回作のキャロルでは軽便車では我慢ができぬとあれもこれもと盛り込んで「立派な乗用車」を作ろうとしてしまった。結果から言えば、その判断は失敗だったかもしれない。マツダは物理制約や自分たちの力量、製造コストをわきまえずに作り手の理想を追求してキャロルを作ってしまったわけだ。まさに「意あって力足りず」だ。
企画や設計としてはけっして褒められたシロモノではないキャロルだが、このクルマを見ているとマツダの開発陣が軽自動車という制約の中で最大限努力して、乗用車らしい乗用車を作ろうと懸命に努力した痕跡がそこかしこに見て取れ、作り手のクルマに対する夢や情熱がひしひしと伝わってくる。今となっては、そこがなんともいじらしく、愛おしく感じてしまう。
こうしたマツダのチャレンジ精神はロータリー、ミラーサイクル、新世代クリーンディーゼル、HCCI(予混合圧縮着火)と続いている。そのすべてが成功したとは言えないが、ガムシャラにクルマに対する理想を追い求める姿勢は、初代キャロルの頃から始まっていたということなのだろう。