ダイハツが頼んだのはオープン・スポーツカー

ダイハツは1962年の第9回全日本自動車ショー(後の東京モーターショー)で、カロッツェリア・ヴィニヤーレにデザイン・製作を依頼した試作車のコンパクト・ライトバンを披露。それを量産化して63年5月にコンパーノ・バン、翌6月にコンパーノ・ワゴンとして発売する一方、同じシャシーをベースとするオープン・スポーツカーのデザインと試作をヴィニヤーレに頼んでいた。

1963年トリノショーでダイハツは和風のディスプレイに真っ赤なダイハツ・スポーツを展示。(photo: CAR STYLING Vol.172)

幻のスポーツカー「ダイハツ・スポーツ」フォトギャラリー

1963年10月30日、トリノショーが開幕。唯一の日本メーカーだったダイハツは、ブースに日本建築の内装をイメージしたと思われるディスプレイをしつらえ、ダイハツ・スポーツを披露した。欧州ショーへの初出展にあたって、「日本のダイハツ」をアピールする狙いがあったのだろう。

ダイハツ・スポーツは全長3980mm×全幅1580m×全高1200mmの2+2シーター。797ccの直4エンジンはコンパーノ・バン/ワゴンの41psから、ヴィニヤーレの手配で50psにチューニングされ、それを本来の位置より後ろに寄せて搭載する。デザインだけでなく中身もスポーティに仕立てていたわけだ。

また、低い全高のなかで後席スペースを確保するため、ラダーフレームを改造し、リヤアクスルをまたぐ部分の高さを抑えた。さらに、コンパーノ・バン/ワゴンはフレームにボディを載せる構造だったのに対して、フレームとフロアを一体化することで軽量化とボディ剛性向上を両立させてもいる。ヴィニヤーレというカロッツェリアについては後述するが、ダイハツ・スポーツが同社らしいこだわりを内包した力作だったことは間違いないだろう。

ダイハツの期待「世界を駆けめぐる日も遠くはない」

ダイハツは1963年12月に発行された社内報『ダイハツライフ』の第39号で、トリノショーでデビューしたダイハツ・スポーツを速報。そこに、当時はまだ設計第一課所属の若手デザイナーだった柳原良樹氏(後のデザイン部長)が、記事を寄せている。

柳原氏は同僚3名と共に、9月下旬から(トリノショーの1ヶ月前から)40日間にわたって、ヴィニヤーレを中心に欧州を視察。柳原氏にとってはデザイン研修の出張でもあった。記事の一部を抜粋すると・・。

1961年、トリノ市グルリアスコに誕生したヴィニヤーレの新工場。57年にランチアからアッピア・コンバーチブルの生産を委託されるなどの業容拡大を受けて、これが建設された。(Photo: carrozzieri-italiani.com)

「はるかにアルプスの銀嶺(ぎんれい)を望み、ポプラ並木の点在する広大な田園の中に、秋陽(あきび)を受けて輝く白亜の工房。われらのダイハツ・スポーツは、このカロッツェリア・ビニヤーレの工房でいぶきを与えられた」

「デザイナーの注意ぶかい修正とリファイン(洗練)は、いくたびとなく重ねられ、その美しい面は熟練した伝統の手で叩き(たたき)上げられた」

「乗員は二+二でカンバストップのカブリオレタイプで、ホロをたたむとオープンになり、快足と陽光を楽しむことができる。欧州でも数少ないこの手ごろなダイハツ・スポーツが、日本のみならず世界を駆けめぐる日も遠くはないであろう」(いずれも原文ママ)

ダイハツのデザイン開発がまだ手探りだった時代に、本場の仕事ぶりに触れた高揚感が伝わってくる文章だ。しかし、「世界を駆けめぐる」の言葉はけっしてオーバーな表現ではなかった。

カロッツェリア・ヴィニヤーレに生産委託を検討

このトリノショーには当時のR&Dトップの高岡取締役も視察に訪れており、『ダイハツライフ』第39号は高岡氏の話も紹介している。

「EEC各地の六十余の販売店から販売を希望してきており、EEC進出への足がかりとしては予想以上の成果であった」(原文ママ)。EECとは1957年に発足した西欧6カ国による経済共同体で、現在のEUの源流になった組織だ。

ダイハツの倉庫にて。記録用に製作されたオープンのスケールモデルとクーペの実車のツーショット。スケールモデルのプレートには、SPORTの下にSPIDERと書かれている。

ダイハツはヨーロッパ進出を目論み、イタリアン・デザインのダイハツ・スポーツをトリノショーでデビューさせた。コンパーノ・バン/ワゴンをベースに社内開発した同社初の乗用車、コンパーノ・ベルリーナを発売したのは64年2月のこと。それより早く、すでに事業拡大の矛先をヨーロッパに向けていたという事実に、注目したい。

高岡取締役の言葉は、次のように締め括られている。

「ビ社との契約は、デザインと試作についてであり、生産については今後同社と最終的な話し合いの結果決定されることになる。ビ社は月産五百〜千台の能力のある組み立て工場を持っており、日イ貿易の現状や関税、フィアット社への配慮など、いろいろ留意すべき点はあるとしても、やりかたしだいでは同国はじめEECへの進出は有望であると思われる」(原文ママ)

前向きな言葉だ。しかしヴィニヤーレにスポーツカーの生産を委託し、それ契機に欧州進出するというダイハツの野心は、残念ながら実を結ばなかった。「留意すべき点」が越えられないハードルになったのだろうか。ヴィニヤーレとしては、61年に建てた新工場の主力車種であるランチア・アッピア・コンバーチブルの生産が62年で終わったので、新規の生産プロジェクトをぜひとも取りたいところだったはずだが・・。

ここまでオープンモデルのダイハツ・スポーツについて述べてきたが、それは現存せず、今は記録用に製作されたスケールモデルがあるだけ。ダイハツの倉庫に眠っているダイハツ・スポーツはクーペだ。どういうことか?

クーペはヴィニヤーレのオリジナル

1963年トリノショーでヴィニヤーレが自社ブースで披露したダイハツ・スポーツ・ヴィニヤーレ。(photo: CAR STYLING Vol.172)

ヴィニヤーレはダイハツの求めに応じてオープンカーのダイハツ・スポーツを製作する一方で、そのクーペ版をダイハツ・スポーツ・ヴィニヤーレの名でトリノショーの自社ブースに展示していた。結果的にオープンモデルのほうは、ダイハツ・スポーツ・スパイダーとして語り継がれていくことになる。

シャシーとパワートレインはダイハツが提供したものだから、ヴィニヤーレはクーペの製作にあたって当然、ダイハツの内諾を得ていたはず。しかし『ダイハツライフ』第39号の速報記事では、「なお、このショーにはビニヤーレ社の出品によって、コンパーノ・シャシを基本にしたスポーツ・クーペも展示された」(原文ママ)と書いただけで、写真も掲載していない。当時のダイハツにとってクーペは想定外だったのかもしれない。

ダイハツもクーペにトライ、ヴィニヤーレとは異なるスタイル

しかし3年後にはダイハツ自身がクーペにトライした。1966年の第13回東京モーターショーでデビューした、その名もダイハツ・スポーツ。ヴィニヤーレのクーペとはリヤスタイルが異なり、ファストバックからノッチバックに変更されていた。

1966年東京モーターショーのダイハツ・スポーツのスケールモデル。

1963年トリノショーのダイハツ・スポーツは2台とも板金ボディだったのに対して、66年のクーペはFRP製。ダイハツの手元に戻っていたオープンのシャシーにFRPボディを架装したもの、と推測できる。

東京モーターショーでは近い将来の製品化が示唆されたが、それは実現せず、このクーペのショーカーは廃棄された。今はスパイダーと同様に記録用のスケールモデルがあるのみだ。端正でバランスよいプロポーションは、当時のダイハツ・デザインがもはやイタリアの助けを必要としないだけの実力を得ていたことを物語る。

一方、ヴィニヤーレはトリノショーの後、自らのダイハツ・スポーツを売却。モナコに住むコレクターが数十年にわたって所有していた。それがダイハツに里帰り(?)した顛末は、次回の第2章でお届けしよう。