ポルシェの歴史的レーシングカーをシェイクダウンした舞台

ポルシェ開発の舞台となって60年、ヴァイザッハ研究開発センター&テストトラックの歴史

ポルシェ開発の舞台となって60年、ヴァイザッハ研究開発センター&テストトラックの歴史
ヴァイザッハ研究開発センター&テストトラックの様子
ポルシェがまだ新興スポーツカーメーカーだった1960年代、ヴァイザッハとフラハトの間にあるヒースの丘の上に開発の最前線基地テストトラックが建設さた。ここを舞台に様々な市販モデルやレーシングカーが限界まで追い込まれ、開発を推し進められている。また、ヴァイザッハはポルシェに所属するレーシングドライバーたちが、ニューマシンを初めて経験する場でもあった。

ヘルベルト・リンゲの提案で誕生

ポルシェ開発の舞台となって60年、ヴァイザッハ研究開発センター&テストトラックの歴史
F1ドライバーのヨアキム・ボニエ(左)と談笑する、ヴァイザッハの父とも言える、在りし日のヘルベルト・リンゲ(中央)とヘルムート・ボット(右)。

テストコースを含むヴァイザッハ研究開発センターの歴史は60年以上も前に始まった。この当時、アウトバーンの道幅が狭くなり、ヴォルフスブルクにあるフォルクスワーゲンのテストコースは遠方にあったことから、ポルシェはマルムスハイム飛行場をテストトラックとして使用していた。しかし、それはその場しのぎでしかなかったのである。 

ポルシェの社員であり、レースやラリーでも活躍したヘルベルト・リンゲは、彼の住んでいたフラハトとヴァイザッハの間に丘陵部に、その解決策があるのではないかと会社に提案した。リンゲが提案した土地は、1910年の測量記録には「非常に岩の多い山間部で、あまり肥沃ではなく、耕作するのには適していない」と記されていた。

フェリー・ポルシェはリンゲのアイデアを気に入り、1959年11月にポルシェは約38ヘクタールに及ぶ敷地を取得。その約2年後の1961年10月16日、フェリー・ポルシェはブルドーザーに乗って起工式に挑んでいる。

レーシングカーの開発の場となった円形スキッドパッド

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ヴァイザッハに設けられた40メートル、60メートル、190メートルの円形スキットパッドでは、市販車だけでなく多くのレーシングカーの開発の場となった。

まず円形のテストトラックが建設され、すぐにここが開発センターの核となった。スキッドパッドには、内径40メートル、60メートル、190メートルの3つのトラックを配置。1962年10月15日の時点で、テストエンジニアのピーター・フォーク(Peter Falk)やリンゲらが、ここで初期の901(911)をグリップの限界まで走らせている。

この円形テストトラックはシャシーの基本的なセットアップ、エアロダイナミクス、耐久テストなどに重用された。 2019年11月にヘルベルト・リンゲが明かしたように、この円形トラックで最初にテストされたレーシングカーのひとつがF1マシンの「ポルシェ 804」であり、ヴァイザッハで最初に建てられた建造物はテストに必要な機材を収めるためのスキッドパッド小屋だったという。

ロベルト・シュール(Robert Schule)は、羊の放牧やレストラン「ツム・ヒルシュ(Zum Hirsch)」の経営と両立させながら、ヴァイザッハの地でスポーツカーメーカーのために働いた最初の人物のひとりだ。シュールはテストの準備や終了時に現場で立ち会い、単なる小屋番以上の役割を果たしている。

目を見張る成果のひとつとしては、1969年にポルシェ 917が給油のために一度だけ停車しながらも、この円形サーキットを258周した記録がある。このテストでは新型レーシングカーのホイールベアリングの耐久性が試されている。スキッドパッドは横方向の加速Gにどれだけレーシングカーが耐えられるのか、限界値を測るのにうってつけの場所だったのだ。

1952年にオペレーションアシスタントとしてポルシェに入社したヘルムート・ボット(Helmuth Bott)は、1978年にテスト・開発部門の責任者、そして車両開発部門の責任者へと昇進。彼はヴァイザッハに速度とタイムの記録リストを導入した人物でもある。

ポルシェ 956が叩き出した前代未聞の記録

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よりパワフルな917と、当時最新の956を比較するために、ノルベルト・シンガーはスキットパッドでのタイムアタックを敢行。ドライブを任されたピーター・フォークが、前代未聞の記録を叩き出した。

ポルシェは革新的なグループCレーシングカー「956」で、1982年シーズンから世界スポーツカー選手権への参戦をスタートした。ボットは、この新型プロトタイプレーシングカーが、空力的に917よりも優れているかを知りたかった。

917と956の車重は同じだったが、917の方が200psもパワーがあり、タイヤも太かった。ノルベルト・シンガー(Norbert Singer)はプロジェクトマネージャーとして、上司であるボットのためにヴァイザッハの施設を使って答えを見つけようとした。当時、ポルシェ・ワークスドライバーで最もスピードを持っていたのはステファン・ベロフ(Stefan Bellof)だったが、シンガーはあえてテストエンジニアのピーター・フォークにドライブを任せた。

フォークはスキッドパッドのチャンピオンとして、当時908と917で記録を保持していたのだ。1984年4月30日、フォークが956に乗り込み、14.4秒という記録を叩き出した。平均速度150.576km/h、横方向の加速Gは1.858。この記録は現在もレコードであり続け、今後破られることはないだろうとシンガーは指摘する。現代の最新レーシングカーとタイヤは数秒間であればより高い横方向の加速Gを記録できるが、14秒間も耐えられないからだという。

過酷なコーナーを有するマウンテンサーキットの完成

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1966年、ヴァイザッハに様々なコーナーを有する全長2.88kmのマウンテンサーキットが建設された。多くの市販モデルやレーシングカーが、幾度となくコースオフを繰り返しながらここで鍛えられている。写真は1971年にカンナム・サーキットへの改修後に撮影されたもの。

1960年初頭からヴァイザッハ研究開発センターの充実化を推進してきたボットは、1988年に引退するまでこの地に情熱を注ぎ続けた。1966年、彼はエンジニアのヨッヘン・フロイント(Jochen Freund)にテストトラックの敷設を依頼する。ボットはレイアウトに関してかなりの発言力を持っており、彼らの専門知識を組み合わせることで全長2.88kmのマウンテンサーキットが完成した。 

このマウンテンサーキットは時計回りに走行。幾度となく走ってきたピーター・フォークがその1周を説明してくれた。

「最初の『ノース・ベンド』は高速の右コーナーで、その次の左コーナーは下り坂になっているので、スピードをキープしたまま同じリムズで走行する必要があります。この高速左コーナーは、後に『マスター・ターン』と呼ばれるようになりました。その後、短いストレートに入り、そこから右カーブの『オールド・コートヤード』に続きます」

「170mほどの短いストレートの後、『Zスロープ』が現れるでしょう。この急な上り坂にある右左のコーナーのコンビネーションには、ハイスピードで臨むことになります。初期のABSシステムはここで故障しがちでした。急激な方向転換と同時に行われるブレーキングが、単純なセンサーには負担になっていたのです」

「Zスロープからコースは登り続け、最速コーナーの『パス』を通過。そして『ボット・シケイン』が出迎えます。ここは山頂を越えて外に向かって傾斜している高速右ブラインドコーナーです。経験の浅いドライバーの多くがここでコースアウトしてしまうでしょう。ただ、プロにとってもここはとても難しいポイントです。当初、私たちはこのコーナーを単純化するよう提案しましたが、ヘルムート・ボットは頑として譲りませんでした」

「続いて90度の左コーナー、そして『デビッドの木』と呼ばれる右の急コーナーをクリア。ここから短いストレートと2つの高速左コーナーを経て、ヘアピンコーナーの『フラハト・ピーク』、そこから短いストレートと左右のコンビネーションをクリアすると、高速の右コーナー『サウス・ベンド』を迎えます。そして、約700mのストレートを走行すると再び『ノース・ベンド』です」

この「マスターターン」の名はリンゲに由来する。リンゲがマスターターンの由来を説明してくれた。

「このサーキットが完成して間もない頃、私は356 GTで激しくスピンしてコースアウトしました。すこしオーバーブレーキ気味だったかもしれません。ただ、このマウンテンサーキットでコースオフしたのは私だけではありません。私の後にも多くの人が飛び出していましたから(笑)。初期には、コースオフした場所にドライバーの名前を書いた看板を立てていました。ただ、我々のボスはそれを好まなかったのです」

より高速に適したカンナム・サーキットへの改修

ポルシェ開発の舞台となって60年、ヴァイザッハ研究開発センター&テストトラックの歴史
レーシングカーの高速化に合わせる形で、ポルシェはマウンテンサーキットを改修し、1971年にカンナム・サーキットが完成した。ここでは、TAGポルシェエンジンを搭載したマクラーレンMP4/2などもテストされている。

 ノルベルト・シンガーは、マウンテンサーキットの特徴を「あのヘアピン・ターンは、駐車場よりもひどかったですよ(笑)」と、振り返った。最高出力580psを誇る917のようなレーシングカーを高速でリズムよく走らせるために、レース部門は1960年代末の段階から、高速サーキットの必要性をアピールしていた。そこで、全長2.531kmのカンナム・サーキット(Can-Am circuit)への改修が決まり、1971年に完成した。

旧マウンテンコースでは「マスターカーブ」と「Zスロープ」の間に、超高速の右・左コーナーのセクションがあったが、開発責任者だったフェルディナンド・ピエヒからも「あまりにも危険」だと指摘されていた。この厄介なセクションは、カンナム・サーキットでは短縮されることになった。

ポルシェの現代のレーシングカーはすべて、カンナム・サーキットで最初のシェイクダウンが行われている。1971年7月30日、ターボチャージャーを搭載したポルシェ初のレーシングカーが初めて周回を重ねた。この時、4.5リッター空冷水平対向12気筒ターボエンジンを搭載し、約850psの出力を誇る917/10スパイダーのステアリングを握ったのが、ジョー・シフェール(Jo Siffert)だった。

ここにポルシェのターボ時代が始まった。またポルシェは、ターボと同時期に917/10スパイダー用に755psの6.5リッター水平対抗16気筒エンジンを実験的に製造。ボクサー16は非常に長かった上、320kgと初期のターボエンジンに比べて10%ほど重かった。このエンジンを搭載した917/10スパイダーは、51.5秒のレコードラップを達成したものの、実戦に投入されることなくミュージアムへと送られている。

919ハイブリッド エボが記録した40.625秒

ポルシェ開発の舞台となって60年、ヴァイザッハ研究開発センター&テストトラックの歴史
2018年、WECから撤退したポルシェはレギュレーションに縛られない究極のプロトタイプレーシングカー「919 ハイブリッド エボ」を製作。ニュルブルクリンク での記録達成だけでなく、ヴァイザッハでも40.625秒という前人未到のタイムを叩き出した。

アメリカ人レーシングドライバーのマーク・ダナヒュー(Mark Donohue)は1972年11月に917/10スパイダーで、ヴァイザッハにおいて47.2秒を記録。917での最速ドライバーとして、ノルベルト・シンガーの記録リストに登録されることになった。

1982年3月27日には革新的なグランドエフェクトを導入した956が、わずか9ヵ月の開発期間を経てシェイクダウン。4月に振動テストコースで1000kmの耐久試験を終えた956は、1983年3月にジャッキー・イクスのドライブで45.7秒という記録を打ち立て、当時ヴァイザッハ史上最速となった。さらに1984年2月、コンパクトなTAG ポルシェ製1.5リッターV型6気筒ターボエンジンを搭載したマクラーレンMP4/2が、ニキ・ラウダのドライブでトラックレコードを44.6秒に更新している。

その後も様々なマシンによって、ヴァイザッハにおける偉大な記録が打ち立てられてきた。ポルシェは2017年シーズンを最後に世界耐久選手権(WEC)からの撤退を発表。ヴァイザッハの開発チームは、2015年、2016年、2017年とWECを制覇してきた偉大なマシン「919 ハイブリッド」をベースに、レギュレーションに囚われない究極のタイムアタックマシン「919 ハイブリッド エボ」を製作する。

リヤアクスルに2.0リッターV型4気筒直噴ガソリンターボエンジン、フロントアクスルに電気モーターを搭載し、最高システム出力1160psを発揮。重量849kgにまで軽量化され、ダウンフォースはWEC用マシンより50%も増加した。ニュルブルクリンクやスパ・フランコルシャンを舞台とする「919・トリビュート・ツアー」の一環として、ティモ・ベルンハルトがヴァイザッハで40.625秒を記録。この偉大なヴァイザッハ最速記録は、当分破られることはなさそうだ。

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ゲンロクWeb編集部

スーパーカー&ラグジュアリーマガジン『GENROQ』のウェブ版ということで、本誌の流れを汲みつつも、若干…