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ポルシェの黎明期を支えたヘルベルト・リンゲ
1928年6月11日、ドイツ・ヴァイザッハで生まれたヘルベルト・リンゲはポルシェの歴史に欠かせない人物だ。彼は1950年代後半、故郷ヴァイザッハに隣接する、フラハトの集落に近い土地をテストや開発に使用することをフェリー・ポルシェに提案したことでも知られている。ポルシェのR&D担当取締役、ミヒャエル・ステイナーは、次のように故人を偲んだ。
「ヘルベルト・リンゲの訃報を聞き、私たちは悲しみに暮れています。彼はポルシェの黎明期から活躍した人物であり、その後の何十年もの間、私たちの友人でもありました。レーシングドライバーやラリードライバー、アイデアの源、そして技術者としての彼の献身に心から感謝したいと思います」
「彼には先見の明があり、ヴァイザッハ開発センターを立ち上げに携わった偉大な人物のひとりでした。彼はアメリカにおけるアフターセールス網の確立にも主導的な役割を果たしました、さらにモータースポーツにおける安全性向上にもに尽力しています。私たち、そして世界中のポルシェ・ファミリーは、彼のことを決して忘れることはないでしょう」
ポルシェAGの監査役会会長を務めるヴォルフガング・ポルシェも、ヘルベルト・リンゲに次のようにメッセージを送っている。
「ヘルベルト・リンゲは私の祖父(フェルディナント・ポルシェ)と個人的な友人でもありました。彼のような同僚のおかげで、ポルシェは私の父フェリーとともに、シュトゥットガルトで事業活動を再開し、国際的に会社の規模を拡大することができました。そのことに、私たちは心から感謝しています。私たちの思いは彼の家族と共にあります」
フェルディナント・ポルシェを知る人物
1943年4月7日、14歳でヘルベルト・リンゲは見習いメカニックとしてポルシェに入社。当時、ポルシェは一時的にオーストリアのグミュントに工場を置いており、その後1949年にルーツであるシュツットガルトのツッフェンハウゼンへと戻っている。リンゲはフェルディナント・ポルシェを個人的に知る、数少ない人物のひとりだった。
リンゲは当初からスポーツカーを整備するメカニックとして働き、ポルシェ初の量産スポーツカーである「356」の開発にも携わった。ポルシェの初期のスポーツカーは、リンゲがテストドライブしなければ、デリバリーすることが許されなかったという。
その後、フェリー・ポルシェはカスタマーサービス部門を立ち上げるべく、リンゲをアメリカへと派遣。彼はテストおよび開発ドライバーを務めたのち、実際のレースにも参戦するようになった。
1952年の「カレラ・パナメリカーナ」はコ・ドライバー兼メカニックとして参戦。その後、自身がドライバーとなり、「ミッレ・ミリア」「リエージュ~ローマ~リエージュラリー」に出場、ニュルブルクリンクで開催された「マラソン・デ・ラ・ルート」では勝利を飾っている。
ル・マン24時間レースには11回出走し、8回の入賞と数回のクラス優勝を果たした。1971年にはスティーブ・マックイーンが製作・主演を務めた映画『栄光のル・マン』の制作にも携わっている。1970年のル・マン24時間に、カメラカーとして参戦したポルシェ 908をドライブし、迫力ある走行シーンの実現に手を貸したのだ。リンゲはカメラカーとしての参戦ながらも、8位完走を果たした。
サーキットの安全性向上に尽力
リンゲはそのキャリアを通して、レースにおける安全性の向上を求め続けている。彼が活躍した時代、毎年のようにトップドライバーがレースで命を落としていたからだったという。1972年、リンゲはドイツ政府支援によるサーキットにおけるセイフティチーム「ONS」を立ち上げた。
ONSの創設から10年後、リンゲはその生涯の功績を称えられ、ドイツ連邦功労十字章を授与された。彼が最初にドライブしていたONSのセーフティカーは「ポルシェ 914/6 GT」。安全装置と消火システムを装備したこの914は「世界最速の消防車」として知られるようになった。また、リンゲは914をドライブし、1971年のモンテカルロラリーにも参加している。
1987年にヴァイザッハ開発センターのオペレーション・マネージャーを退いた後、リンゲはモータースポーツのコンサルタントとして働き続けた。先見の明があった彼は、1990年から世界的な成功を収めたレースシリーズ「カレラカップ」を率いることになる。
ヴァイザッハの名誉市民であるリンゲは、引退後もポルシェと親密な関係を保ち続けた。ポルシェの歴史的な節目となるモーターショーやイベントには、何年にもわたって参加。様々な逸話を多くのポルシェ・ファンに伝え続けている。
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