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Morris Mini Cooper S
アレック・イシゴニスとジョン・クーパー
世界ラリー選手権(WRC)が開始されるはるか前。1950年代末のヨーロッパでは、英国の森を抜け、フレンチアルプスを越え、あるいはリエージュからソフィアまでを往復する、様々なラリーイベントが開催されていた。
オースチン ヒーレーとフォード ファルコンがラリーで抜群の強さを発揮するなか、鬼才アレック・イシゴニスはブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)において、近代的な小型車「ミニ」を開発する。横置きエンジンと前輪駆動を採用したクラシック・ミニは、1959年のデビュー時点で現代でも通用するコンパクトカーの基準を満たしていた。
ただ、ミニのモータースポーツにおける成功には、2人目の天才が必要だった。そう、レーシングドライバーとしての名声と、カーデザイナーとしての富を手に入れていたジョン・クーパーの存在だ。彼はクラシック・ミニと対面すると、すぐにモータースポーツにおける可能性を確信したという。
イシゴニスが効率的なファミリーカーとして開発したクラシック・ミニだったが、ジョン・クーパーは「あれはレーシングカーだ。もっとパワーを出して、ブレーキを改良した仕様を作るべきだ」と、指摘。ファミリー用コンパクトカーだと誰もが思っていたクラシック・ミニが、モータースポーツの世界へと飛び込んだ瞬間だった。
ラリーで発揮されたミニのポテンシャル
初代ミニ クーパーは1960年にデビュー。1959年に発売されたクラシック・ミニの34PSから、最高出力は55PSにまで引き上げられていた。全長わずか3mのミニ クーパーは、1961年の段階でまずはグランドツーリングの世界に驚きをもたらすことになる。
ミニ クーパーの出現により、それほど裕福でない人でも、スポーツカーやラグジュアリーセダンと同じように、英国中を素晴らしいスピードで走り回れるようになったのだ。続いて、ラリーやレーシングサーキットにおいて、10インチのホイールを履いたミニ クーパーが表彰台に上がるようになった。
ミニ クーパーは、特にラリーでそのポテンシャルを発揮する。オーバーハングがほとんどないため、特にツイスティな山岳路でニュートラルなハンドリングがアドバンテージになったのである。また、車重は650kg、ライバルよりも控えめな55PSという最高出力でも、十分に戦えるパワーウェイトレシオを持っていた。これにより、今のMINIにも受け継がれている「ゴーカート・フィーリング」を実現した。
1962年5月、クラシック・ミニが初めて国際ラリーイベントで勝利を獲得する。オランダのノールドヴァイクからフランスのリビエラまでを往復する「インターナショナル・チューリップ・ラリー(International Tulip Rally)」において、かのスターリング・モスの妹、パット・モスが見事トップフィニッシュを果たした。
最高出力90PSのミニ クーパーSが登場
1962年、BMCのスポーツディレクターだったスチュアート・ターナーは、アイルランド人ラリードライバーのパディ・ホプカークとともに、ティモ・マキネンとラウノ・アルトーネンという、二人のスカンジナビアンをチームに引き入れた。寡黙でドライビングに集中するマキネンに対し、アルトーネンは5ヵ国語を流暢に話し、科学的な几帳面さでミニ クーパーを一流のラリーカーにすべく鍛え続けた。
3名のドライバーが揃い、ミニ クーパーはラリーの世界でさらなる高みを目指して登り始めた。当時のライバルとは一線を画すメカニズムに加え、それぞれ異なる得意分野を持つ3名のドライバーが成功の鍵となる。
また、ターナーは、チームに革新的なロジスティクスを導入。組織的なサービス(ラリー中のマシン整備)を採り入れ、スペシャルステージに初めてアイスノートクルーを送り込んだ。現在のラリーでは当たり前になったアイスノートクルーは、本番直前にステージを走行し、路面コンディションの状況をチェック。クルーへと正確な情報を伝える役目を持っている。
ジョン・クーパーもエンジンの改良を続け、1100ccクラス規程に合わせて、排気量を1071ccへと拡大。最高出力を90PSに引き上げた「ミニ クーパーS」を投入した。ミニ クーパーSは見た目は普通のクラシック・ミニと変わらず、スポーティなリヤウイングやタコメーターすら装着されていない。小さなサイズにも関わらず、十分な室内スペースが確保され、コクピットにはプラスチック製ステアリングホイールと、スパルタンな専用シートが収められていた。
1964年のモンテカルロを制したホプカーク
1960年代でさえ、モンテカルロ・ラリーで何の準備もなしに勝つのは簡単ではなかった。1963年、ラウノ・アルトーネンはモンテカルロで初のクラス優勝を飾る。この予兆があったとはいえ、翌1964年の総合優勝はライバルたちに大きな衝撃をもたらすことになった。
おそらく世界で最も有名な1964年の第33回モンテカルロ・ラリーには、277台がエントリー。スノー、アイス、ドライターマック(舗装路)が組み合わされたこの年のコンディションは、クラシック・ミニに有利に働いた。一夜にして小さなファミリーカーは、ラリーファンの人気者になっただけでなく、モータースポーツの伝説になったのだ。
1964年のモンテカルロ、ゼッケン37、ナンバープレート「33 EJB」のミニ・クーパーSに勝利をもたらしたのは最終ステージ、アルプスのナイトステージ「長いナイフの夜(Night of the Long Knives)」だった。フレンチアルプスのコル・ド・トゥリーニで行われたこのコースは、標高1600mの雪と氷のなか、24kmにわたって34のヘアピンカーブをクリアしなければならない。
最大のライバル、パワフルなV8エンジンを搭載するフォード ファルコンをドライブするボー・リュングフェルトからわずか17秒差で、ホプカークはフィニッシュラインに到達。当時、重量と性能差を補正するハンディキャップ制が採用されていたため、ミニ クーパーSは総合で首位に立った。そして、モンテカルロ市街地を走行する最終セクションでも首位の座を守ってみせた。
母国英国では、この勝利は熱狂的に祝福された。ホプカークは英国政府から祝電を受け取り、ビートルズも真っ先に彼を祝福したという。「ビートルズからサインカードが届いたんだよ。『これで君も僕らの仲間だ』ってね。素晴らしい思い出だよ」と、ホプカークは後に回想している。
トップ3から、まさかの全車失格に
クラシック・ミニは、その後もモンテカルロを席巻し続けた。1年後の1965年はティモ・マキネンが大量リードを持って優勝。この時は排気量を1275ccに拡大したことが功を奏した。マキネンは、全行程でペナルティポイントを受けなかった唯一のクルーとなった。
1966年はクラシック・ミニがトップ3を独占し、完全勝利となるはずだった。しかしミニに続いた4番手のフォード コルティナを含め、失格の裁定が下されてしまう。この結果、優勝は5番手につけていたシトロエン DS21となった。失格の理由は、英国製マシンに装着されていたヘッドランプが、生産車とは異なっているという信じられないものだったのである。
この失格騒動は、逆に英国でクラシック・ミニの伝説をさらに盛り上げることになった。アルトーネン、マキネン、ホプカークは「ミニ三銃士」と呼ばれ、ミニの売り上げは急上する。そして、1967年は三銃士最後のひとり、アルトーネンがついに総合優勝を持ち帰った。
しかし、クラシック・ミニの栄光は突如終わりを告げられる。BMCを保有するレイランド・グループが財政難に陥り、モータースポーツ史における壮大な一幕が幕を下ろしたのである。
BMW傘下のもと、復活を果たした現代のMINIも、ラリー、ラリーレイド、ラリークロス、サーキットなど、かつてのようにモータースポーツでの活躍を続けているのはご存じのとおり。そしてジョン・クーパーの名を関した「ジョン クーパー ワークス(John Cooper Works)」は、ハイパフォーマンススポーツモデルとして、高い人気を集めている。