ネピア・ノマドⅠ/Ⅱ:ディーゼルターボコンパウンドで狙った高出力機(4-1)【矢吹明紀のUnique Engines】

(PHOTO:Napier)
いわゆる動力飛行航空機の歴史は20世紀初頭のライトフライヤーに端を発する。ここで使われたエンジンはライト兄弟が自ら製作した完全オリジナルであり、史上初の航空機用エンジンでもあった。その後、航空機エンジンは第一次世界大戦を通じて実用品としての進化を重ねることとなる。さらに戦後になるとより一層の高出力化を目指して大排気量化と過給機の装備が進むと共に、全く新しいコンセプトの航空機エンジンであるディーゼルやガスタービンが考案され技術的なトライがスタートした。これらは1920年代から1930年代に掛けての出来事である。
TEXT:矢吹明紀(YABUKI Akinori) PHOTO:Wikimedia Commons

1931年、イギリスを代表する航空機エンジンメーカーだったD.ネピア&サン社では、より高出力かつ燃費に優れた航空機エンジンとして4ストロークサイクル・スリーブバルブのディーゼルエンジンの試作を開始した。開発番号E101と名付けられたこのエンジンはボア×ストローク/5.0インチ(127mm)×4.75インチ(121mm)。シリンダーレイアウトは水平対向12気筒を2基上下に重ねたH型24気筒とすることが当初の計画であり、その排気量は航空機エンジンとしては比較的小型のシリンダーサイズなのにも拘らず総排気量2238立方インチ(約37000cc)と大型の航空機エンジンとなる予定だった。

ネピア・セイバー

しかしこの革新的なディーゼル航空機エンジンは早い時期に実現の可能性が低いとして基本構造はそのままにガソリンエンジン化された後に、第二次世界大戦で活躍することとなるホーカー・タイフーン戦闘機用のエンジン、すなわちE107ことネピア・セイバーとして完成することとなった。一方、ネピアは会社としてディーゼル航空機エンジンの可能性を完全に諦めたわけではなく、E101が開発中止となった1933年には航空機ディーゼルエンジンの分野での先駆者でもあったドイツのユンカースから独創的な設計だった対向ピストン2ストロークサイクルディーゼルであったJumo 204および205の製造ライセンスを購入し204をE102カルベリン、205をE103カットラスとしてライセンス生産を開始する。ちなみに対向ピストンとは似た印象を受ける水平対向とは別物であり、一本の長いシリンダーの両端からピストン&コンロッドが挿入され、シリンダー内で向かい合った2つのピストンが燃焼室を共有するという構造。クランクシャフトはシリンダーの両端に存在し、両者はギアで結合されていた。エンジン全体の全高が大きいという問題はあったものの、Jumo 204/205の場合、実質的には6気筒分のサイズに12気筒が収められていたこともありディーゼルとしてはパワーに優れ燃費も良かった。しかしながら主として振動が大きかったことがマイナス要因となり民間航空をターゲットとした商業分野では成功しなかった。これはユンカースも同じであり、ユンカースの航空ディーゼルエンジンが戦略偵察機や長距離飛行艇用として大成するのは1930年代後半のことだった。

ユンカース・Jumo 205

そして10年ほどの時間が流れた第二次世界大戦末期の1944年、イギリス航空機製造省は安定した長距離飛行を可能とする低燃費高出力の航空機エンジンに関する新たな仕様書を作成し関連企業に送った。基本スペックは6000shp(shaft horse power/軸馬力)クラスとそれまでの航空機エンジンとはまさに一線を画す高出力機であり容易に実現が可能とも思え無かったが、ここで英国航空機技術界の奇才というべき設計者だったハリー・リカルドがある画期的な構造を提案することとなる。それは既に優れた実用性が確認されていた2ストロークサイクルディーゼルと急速に実用化が進んでいたガスタービンを組み合わせたコンパウンドエンジンであり、軸出力は双方から取り出すことで高出力低燃費を目指すというものだった。リカルドのこの案に対して、彼が実用化に努力したスリーブバルブエンジンを通じて親密な関係にあったネピアは久しぶりに航空機用ディーゼルエンジンの開発に着手することを決心、翌年にはE124という型番が付与された排気量およそ75000ccの液冷H型24気筒2ストロークサイクルディーゼル+軸流圧縮ガスタービンというコンパウンドエンジンの設計案を完成させた。このエンジンが完成した暁には6000shpの軸出力も可能との技術的判断の下、開発作業はスタートし単気筒のテストユニットの運転やガスタービン側の具体化も始まった一方、この様な特殊な構造の大型エンジンを要求する機体は近い未来を想定しても決して多くは無く、量産化が成ったとしても実用化までの総コストを回収するのは困難なのではないか?という疑義が経営陣の間で噴出、第二次世界大戦の終結もあって最終的には採算化の見込みなしとして1946年には開発中止の憂き目を見ることとなる。

しかしネピアには密かに同時進行していた第二案があった。それは6000shpを有効活用することは難しいかもしれないが、半分の3000shpであれば採用機の範囲も大きく広がる。そちらであれば採算に載せることも難しくないので無いか?という判断である。こちらはネピアの独自案としてイギリス国防省とその関係機関に逆提案が行われ、程なくして承認されたことでE124の後継機として開発がスタートすることとなった。これがE125こと後の「ネピア・ノマド」であり、さらに構造を簡略化した改良型である「ノマドⅡ」の開発開始と同時に最初の試作設計案は「ノマドⅠ」に改められ現在に至っている。(4-2へ続く)

矢吹明紀(やぶき・あきのり)
フリーランス一筋のライター。陸海空を問わず世界中のあらゆる乗物、新旧様々な機械類をこよなく愛する。変わったメカニズムのものは特に大好物。過去に執筆した雑誌、ムック類は多数。単行本は単著、共著併せて10冊ほど。

キーワードで検索する

著者プロフィール

矢吹明紀 近影

矢吹明紀

フリーランス一筋のライター。陸海空を問わず世界中のあらゆる乗物、新旧様々な機械類をこよなく愛する。…