心不全のため82歳で逝去したレーシングドライバー・高橋国光さんの顕彰碑が完成し、4月16日、静岡県小山町の冨士霊園で除幕式が行われました。高橋さんが亡くなったのは2022年3月16日。あれから4年以上の歳月が流れたことになります。

顕彰碑は、レジェンド・レーシング・ドライバーズクラブ名誉会長の大久保力さんが発起人となり、「高橋國光の活動を顕彰する記念碑制作有志会」を立ち上げて制作されたものです。故人の功績を称え、日本のモータースポーツ史にその足跡を長く刻むことを目的としています。

大久保さんは、日本のモータースポーツを文化として根付かせ、歴史として後世に残す活動に尽力してきた人物でもあります。高橋さんとは同学年の幼なじみで、生前は「日本のモータースポーツ発展に寄与したい」と語り合っていました。

雨上がりの青空と富士山に見守られて

顕彰碑建立に尽力された大久保力氏。氏自らもまた近代モータースポーツ黎明期の二輪から四輪レースに挑戦し続けてきたひとりだ

当日は、朝方まで降り続いた雨が上がり、式が始まる頃には青空がのぞきました。霊園の木々は新緑に包まれ、雪を残した富士山の山頂は陽光を受けて純白に輝いています。

ご親族や関係者が見守る中、大久保さんが挨拶に立ちました。「一番肝心な、高橋國光を顕彰するという意味合いで顕彰碑が出来上がりました。クニのお墓は多摩霊園にありますが、ここは私にとって國光の別荘のような場所です。富士スピードウェイ周辺に来られた際には、ぜひ立ち寄ってください。そのときは、必ずクニがここにいますから、いろいろ話しかけていただければと思います」

宇宙船素材のガラスに刻まれたヘルメット

白いベールに覆われた顕彰碑が、司会者の合図で披露されました。ご親族がロープを引くと、透明なガラスに刻まれたレリーフと石板が姿を現しました。

司会者から「レリーフのガラスは宇宙船にも使われる素材で、非常に強度が高く、汚れにくいものです。表面にはクニさんのヘルメットを描き、石板には主な成績を刻んでいます」と説明がありました。参列者から感嘆の声と拍手が沸き起こりました。お披露目された顕彰碑には、隣接する富士スピードウェイからそよ風に運ばれたレーシングカーのエキゾーストノートが舞っていました。

土屋圭市さん「これからもクニさんを忘れない」

会場には、高橋さんを敬愛し、ともにレースを戦ったレーシングドライバー・土屋圭市さんの姿もありました。促されて顕彰碑の前に立った土屋さんは、建立に携わった人々への感謝を述べたあと、こう締めくくりました。「冨士霊園と多摩霊園、どちらにもお参りできるというのは、我々にとっても、ファンの方にとってもとても良いことだと思います。これからもクニさんを忘れないようにしていきます」

顕彰碑全景。開けたなだらかな斜面に設置されており、ガラスのモニュメントは遠方からでも目につきやすい。富士山の頂上が顔を覗かせている

写真集制作へ、クラウドファンディングも始動

「高橋國光の活動を顕彰する記念碑制作有志会」が制作中の写真集。二輪から四輪に跨るレース人生を膨大な写真で振り返る

有志会は、顕彰事業の一環として、高橋さんの写真集制作を目指すクラウドファンディングを実施することを発表しました。支援者の名前は顕彰碑の石板に刻まれる予定で、詳細は後日、ソーシャルメディアなどで案内されるそうです。

高橋国光顕彰碑へのアクセス

富士山裾野の広大な敷地に造られた冨士霊園。顕彰碑は正門を正面に見て、左手奥に位置する

高橋国光顕彰碑は、冨士霊園内の「団体家族墓苑3区-2-51」に建立されている。区画内には「3-2-51」と彫られたプレートが埋め込まれている。

顕彰碑の近くには駐車場もあり、バイクやクルマで直接向かうことも可能だ。ただし、霊園は敷地が広大なため、初めて訪れる場合は園内バスの利用がおすすめだ。

大駐車場に車を停め、富士見会館別館前の園内バス発着所から西ルートに乗車。「W12 はなみずき」バス停で下車すると、顕彰碑に近い。

・バス運行時間:9:00〜15:30(15分間隔)

・休園日:毎週水曜日(祝日の場合は翌日)

・開園時間:9:00〜16:30

公益財団法人 冨士霊園
静岡県駿東郡小山町大御神888-2
https://www.fujireien.or.jp/about/


高橋国光さんの思い出と功績

筆者が高橋国光というレーシングドライバーの名を知ったのは小学生時代に遡ります。少年誌やプラスチックモデルの影響で興味を持った四輪レースの世界で、すでに高橋さんは日本のトップドライバーでした。1967年に富士スピードウェイで開催された第4回日本グランプリ(F1でなくてもこのような名称のレースが開催されていました)では、ドイツ製のポルシェ・カレラ6を打ち負かすべく日産が製作したプロトタイプカー、R380で敢然と戦いを挑んだのです。当時、日本車の性能は欧米に劣っており、さらにレーシングカーとなるとその差は歴然としていました。マシンはポルシェが上、しかしライダーとしてロードレース世界選手権で優勝経験を持ち、レーシング・ドライバーに転向した高橋さんは、誰よりもレース経験と腕がありました。

スタートでは出遅れたものの、トップを走るポルシェ・カレラ6に周を重ねるごとに迫り、S字コーナー(当時6kmフルコースを使用しており、30度バンクメモリアルパークの先から現在のコカコーラコーナーまでS字コーナーで繋がれていました)の入口では、アウトから抜き去ることが出来る位置につけました。

その瞬間です。こともあろうかポルシェ・カレラ6がスピンしたのです。高橋さんは、これを避けるためにコース外に飛び出してしまいました。トップ争いの2台はともにエンジンストップ。いち早く、再始動できたポルシェ・カレラ6がレースに復帰し、結局はこのマシンが優勝しています。一方、高橋さんの日産R380はなかなかエンジンが掛からず、タイムをロスします。ようやくエンジンが掛かった時にはトップを争える位置にはおらず、それでもレースが終わるまでには2位に順位を上げていました。

このレースをTV観戦した筆者は「高橋国光」というドライバーに魅了されました。国産車で外車を打ち負かし、日本の技術力の高さを示して欲しいと願う少年たちの夢を叶えるレーシングドライバーの急先鋒が高橋さんだったのです。

二輪での世界的快挙

高橋さんは、1940年1月29日東京都小金井市に生まれました。

18歳になった1958年、浅間高原自動車テストコースで行われた第1回全日本モーターサイクルクラブマンレース大会350ccジュニアクラスで優勝しています。マシンはBSAゴールドスター。これがデビューレースでした。

翌1959年、同コースの第2回全日本モーターサイクルクラブマンレース大会500ccクラスでもBSAゴールドスターで優勝しています。また、耐久500ccセニアクラスにも参加権を得て同じくBSAゴールドスター2位に入りました。まさに彗星の如く現れたアマチュア天才ライダーだったのです。

この戦績がもととなり、翌1959年にはホンダスピードクラブに迎えられました。待遇はホンダ技研工業社員ですが、現代で言えばMotoGPワークス・ライダーです。

翌1960年、西ドイツGP(ゾリチュード)250ccクラスに出場し、ホンダRC161で6位に入賞しました。

そして、1961年の西ドイツGP(ホッケンハイム)250ccクラスで、日本人ライダーとして初めて世界選手権ロードレースで優勝したのです。マシンはホンダRC162でした。

その後も、上位入賞や優勝を重ね快進撃を続けた高橋さんでしたが、レーシングライダー生活は意外にも早く終止符を打つことになります。

1962年のマン島TT(この時代はマン島TTも世界選手権に含まれており、シリーズランキングを決めるポイントが付与されていました)125ccクラスの決勝中に転倒。頭部を強打、腰・右足を骨折し、10日間意識不明状態が続きました。

それでも翌年の1963年にはロードレース世界選手権に復帰しています。1964年、身体は順調に回復し、成績も徐々に上がりマン島以前の快進撃が見られるかという矢先、ホンダは世界選手権に日本人ライダーを派遣しないという方針に切り替えました。高橋さんのレーシングライダー活動はここでピリオドを打つことになりました。

日産ワークスドライバーとして四輪へ転向

いち早く、国際レベルに達していた国産二輪に比べ、当時の国内四輪界は遅れをとっていました。マシンのみならず、ドライバーも世界選手権レベルの大会で優勝した人はいません。四輪メーカーは人材が豊富な二輪レーシングライダーに白羽の矢を立てました。高橋さんはその筆頭でした。

日産のワークスドライバーになった高橋さんは、すぐに頭角を表します。この頃日産は、国内レースで圧倒的な強さを誇っていたプリンス自動車工業と合併しましたが、これら連合ドライバーの中でも速さは群を抜いていました。

1965年から、1999年の全日本GT選手権最終戦もてぎで現役ドライバーを引退するまでの35年間、ビッグマシン、ツーリングカー、富士グラチャン、F2000、F2、全日本耐久選手権、そして時にはF1まで、常に日本のトップクラスのレースに参戦し続けました。そして見事な戦績を収めてきました。国内のみならずル・マン24時間など、海外のレースにも挑戦してきました。

優しさを与え続けた高橋さんの人生

4輪レーシングドライバー引退後も、自ら立ち上げたTEAM KUNIMITSUで、監督として全日本GT選手権に参戦。十分な戦績がありながらも、常に謙虚で、年下にも丁寧で優しく接する人柄でした。高橋さんは現役中から引退後まで、多くの方から「クニさん」の愛称で親しまれてきました。亡くなるまで、生涯をモータースポーツに捧げた人生でした。

下記は高橋さんの主な受賞歴です。

2002年 日本自動車殿堂

2013年 ル・マン24時間 ホール・オブ・フェイム

2018年 MFJモーターサイクルスポーツ殿堂

2020年 スポーツ功労者顕彰

2022年 旭日小綬章

追記:高橋国光さんのお名前の「高」の漢字表記は「髙」、「国」の漢字表記は「國」が正しいそうですが、今回の記事では特別の場合を除き生前に多くの報道で使われてきた「高」、「国」で表記させていただきました。