【モントレー・カーウィーク】ロールス・ロイスのプライベートコレクション「ファントム・シンティラ」

10台限定「ファントム・シンティラ」の背景にある「サモトラケのニケ」とロールス・ロイスの秘話

ロールス・ロイス創業120周年を記念して10台だけが限定生産されるプライベートコレクション「ファントム・シンティラ」。
ロールス・ロイス創業120周年を記念して10台だけが限定生産されるプライベートコレクション「ファントム・シンティラ」。
ロールス・ロイス独自のプライベートコレクションとして発表された「ファントム・シンティラ」。繊細かつ軽やかなイメージでまとめ上げられた1台がインスピレーションを得たのは伝統のマスコット「スピリット・オブ・エクスタシー」だ。その知られざる物語とともにこの限定モデルの見どころを紹介する。

Phantom Scintilla

デザイナー陣が決める特別なモデル

「ファントム・シンティラ」は、ロールス・ロイスの創業120周年を記念して10台だけが限定生産されるプライベートコレクションである。

ロールス・ロイス独自の呼び名であるプライベートコレクションとは、カラー、素材、デザインなどの仕様をすべてロールス・ロイスのデザイナー陣が決める特別なモデルのこと。ロールス・ロイスではビスポークプログラムといって、顧客とデザイナー陣が一緒になってカラー、素材、デザインなどを決めていくのが一般的だが、プライベートコレクションはそれとは正反対のプロセスで制作されることになる。

「それではロールス・ロイスの価値が半減してしまうではないか」と思われるかもしれないが、別の見方をすれば、同社ビスポーク部門が持つ創作力や技術力を試されるのがプライベートコレクションであり、それだけ力の入ったデザインが施され、匠の技が駆使されるのが通例となってきた。

この影響で、プライベートコレクションでは強烈な個性や存在感が発揮されることが多かったが、今回、発表されたファントム・シンティラは、実に繊細で軽やかなイメージでまとめ上げられている。

デザインモチーフは「サモトラケのニケ」

自動車デザインの歴史に残ってもおかしくない作品とされる「ファントム・シンティラ」。

その理由は、ファントム・シンティラが、ロールス・ロイス伝統のマスコットであるスピリット・オブ・エクスタシーからインスピレーションを得ていることに関係している。

スピリット・オブ・エクスタシーは、エーゲ海に浮かぶサモスラキ島で紀元前190年頃に制作された大理石像「サモトラケのニケ」がデザイン上のモチーフ。ニケとは勝利の女神のことで、彼女がまとったローブが風に優しくたなびく様が美しく表現されているのが「サモトラケのニケ」の最大の特徴で、現在もパリのルーブル美術館で展示されている歴史的名作である。

そのサモトラケのニケがいかにしてスピリット・オブ・エクスタシーへと生まれ変わったかについては、実に興味深いエピソードが残されている。

スピリット・オブ・エクスタシーを制作したのは20世紀初頭に活躍したイギリス人彫刻家のチャールズ・サイクス。彼は、英国貴族で自動車愛好家としても有名なロード・モンタギュー、そしてイギリス自動車クラブ(現在のRAC=ロイヤル・オートモビル・クラブ)の会長で後にロールス・ロイスの社長に就任するクロード・ジョンソンのふたりに仕えていたことで知られる。

さらに、ロード・モンタギューとジョンソンは知り合いで、もともとジョンソンの秘書だったエリナー・ソーントンという女性を後にロード・モンタギューが雇い入れ、エリナーと愛人関係を結んだというのだから穏やかではない。もっとも、それだけであれば自動車史に残るエピソードとはなりえないのだが、このエリナーこそ、スピリット・オブ・エクスタシーのモデルだったともいわれているのだから見過ごせない。

つきまとう好戦的なイメージから

サモトラケのニケを参考に、より優雅なマスコットとして制作された「スピリット・オブ・エクスタシー」。

物語の始まりは、ロード・モンタギューがサイクスに小さな彫像の制作を依頼したことにあった。この作品はザ・ウィスパーと呼ばれ、ロード・モンタギューが所有するロールス・ロイス シルバーゴーストのフロントグリルの上に飾られた。そのモデルがエリナーだったことは間違いない。これが1900年代に入って間もない頃のことだったとされる。

いっぽう、すでにロールス・ロイスの社長に就任していたジョンソンは、ロールス・ロイスにふさわしいマスコットの制作をサイクスに依頼する。それまで同社のマスコットには、黒猫、悪魔、楽しそうな警官などが用いられたのだが、ジョンソンはこれらがロールス・ロイスには相応しくないと考えていたのだ。

そこでジョンソンは「サモトラケのニケを参考にするように」とサイクスに指示する。これを受けてサイクスはルーブル美術館まで足を運んで実物を目にしたが、ニケは勝利の女神ゆえ、どうしても好戦的なイメージがつきまとう。サイクス自身は、もっと優雅なものがロールス・ロイスには相応しいと考えていたのだ。

そこで彼は、サモトラケのニケをベースとしながら、ザ・ウィスパーのような優雅さを盛り込んでスピリット・オブ・エクスタシーを作り上げた。これが1911年のことである。

風でゆらめく女神のローブ

これこそ、エリナーがスピリット・オブ・エクスタシーのモデルだったとされる最大の根拠だが、本当にエリナーがモデルだったことを裏付ける証拠は残っていないほか、サイクスは自分の母親であるハンナ・サイクスをモデルにしたとの説もある。したがって、真相は闇に包まれたままといっていい。

話をファントム・シンティラに戻せば、サイクスが制作したスピリット・オブ・エクスタシーの優雅さと、サモトラケのニケで表現されたローブが風で舞う躍動感の両方が、そのエクステリアやインテリアから伝わってくるような気がする。

まず、アンダルシアン・ホワイトとトレイシアン・ブルーの2色でペイントされたエクステリアは、なんとも上品で軽やかな雰囲気をまとっていて、女神が身につけたローブが風でゆらめく様子を連想させる。

インテリアに用いられたブルー、グレー、ホワイトの3色も実に繊細で柔らかな表情を見せている。そのうえで、ドアトリムやシート地には合計で86万9500針(!)の刺繍を施し、ここでも風に舞うローブの躍動感を表現している。ちなみに、ファントム・シンティラのドアトリムは、ロールス・ロイス史上、もっとも手の込んだ作りとされる。

純粋なアートの世界に近い美しさ

ルーフライナーを光の粒子が覆い尽くしているのはロールス・ロイスの“お約束”だが、これがファントム・シンティラでは天の川のような模様を形作っていて、ある種の動きを表現している。現行型ファントムではお馴染みの、助手席の目の前に設けられたガラスのショーケース(これをギャラリーと呼ぶ)内には7本のアルミ製リボンが複雑に絡み合ったオブジェが据えられているが、その造形もほとんど芸術の域に達していて見事である。

私は冒頭でファントム・シンティラのことを「繊細で軽やかなイメージでまとめられている」点が印象的と述べたが、それとともにドアトリム、シート、ルーフライナー、ギャラリーなどに描かれたパターンや造形の美しさについても、もはや自動車デザインの域を超え、純粋なアートの世界に近づいていることを賞賛したい。その意味で、ファントム・シンティラは自動車デザインの歴史に残ってもおかしくない作品だと考える。

ただし、ファントム・シンティラは発表された段階ですでに完売とされている。できれば、優雅な女性が後席に収まり、軽やかに走り去るファントム・シンティラの姿を、一度でいいから見てみたいものである。

ワンオフもモデル「ロールス・ロイス スペクター セマフォ」のエクステリア。

ワンオフのロールス・ロイス「スペクター セマフォ」をワールドプレミア「ボンネットに輝くシルバーのマーブルペイント」

ロールス・ロイス・モーター・カーズは、モントレー・カーウィーク期間中の8月16日に開催される、ザ・クエイル モータースポーツ・ギャザリングにおいて、美しいマーブルペイントを纏ったワンオフモデル「スペクター セマフォ(Spectre Semaphore)」を世界初公開する。

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著者プロフィール

大谷達也 近影

大谷達也

大学卒業後、電機メーカーの研究所にエンジニアとして勤務。1990年に自動車雑誌「CAR GRAPHIC」の編集部員…