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L’autodrome de Linas-Montlhéry
スピード記録の舞台だった
フランス語の正式名称「オトドローム・リナ=モンレリー」は、パリの南西25kmにある。航空機用ラジエターで財を成した発明家・実業家のアレクサンドル・ランブランによって1924年10月にオープンした。サーキットとしては、英国ブルックランズ、米国インディアナポリス、イタリアのモンツァに次ぐ歴史を持つものだった。52°のバンクをもつ1周約2.5km(オーバル部分)のコースでは、開設翌年の1925年から1937年にかけてフランス・グランプリも複数回にわたり開催された。
同時に、当時の自動車産業にとってスピードは重要な課題だった。そのためリナ=モンレリーは頻繁に挑戦の舞台となった。1925年から1939年にかけて、なんと世界の速度記録の実に86%がこの地で達成された。まさに初期のフランス自動車産業を支えた施設だったのである。
やがて第二次世界大戦開戦の年である1939年には、国の管理下となり、戦後1946年になると、産業試験研究所UTAC(ユータック)がそれを引き継いだ。その傍らで、1956〜1972年および1994〜1995年には耐久レース「パリ1000km」の舞台としても用いられた。
現在はさまざまな性能・技術試験場としてUTACが使用しており、近年では自動運転やコネクテッドビークルの実験も行われている。
名シーンのような一角
今回の100年祭はUTACが主催し、フランスの老舗モーターオイル会社「ヤッコ(yacco)」がメインスポンサーを務めた。さらに直後に開幕したパリ・モーターショーと姉妹イベントのスタイルがとられた。参加応募台数は一般が約200台、フランス国内各クラブが約250台だった。
8つに分けられたカテゴリーは以下のとおり。
1.戦前車1924〜1939年
2.1950〜1960年代
3.1970年代
4.パリ1000km出場車
5.ヤングタイマー
6.スーパーカー
7.1950〜1970年代のモーターサイクル
8.1970〜1990年代のモーターサイクル
4輪車の場合、1台+2名で2日間有効の参加費が500ユーロ(約8万1000円)というプライスは、一般愛好家にそれなりの勇気を迫ったようだ。筆者の知人であるフランス人ファンは、ヤングタイマーの部に「マツダ MX-5」で当初参加を考えていたが、最終段階で断念した。
初日の朝、会場に向かう。通常は試験場であるため、サーキットのエントランスは国際コースのような華やかさはない。だが逆に前述のヒストリーを知って訪れると、どこか古寺探訪をするのに似た感覚が沸いてくる。
例のバンクの真下、アルピーヌ創業者ジャン・レデレの名を冠した通路を抜けると、時折降る雨にもかかわらず、多くのエントラントが入場待ちの車列を作っていた。ある参加者に聞けば走行の順番が回ってくるのは夕方というが、1日中楽しむため早めに家族と訪れたと言い、夫人と子息を紹介してくれた。国外組ではドーバー海峡を越えて英国からやってきたエントラントが多くみられた。
あのテーマ曲のスキャット
参加車リストを確認すると、最古はサーキット開設と同じ1924年のモデル3台。「アントニー」「シェナール・エ・ワルカー」そして「AC」と古いブランドだ。いっぽう最新は2024年モデルで「アルピーヌ A110 ル・マン」と「ロータス エミーラ」だ。
パドックでは1966年「フォード GT40」が独特のオーラを漂わせていた。何を隠そう、1966年のフランス映画『男と女』で、ジャン=ルイ・トランティニアン演じるレーシング&テストドライバーのジャン=ルイがGT40で試験走行を繰り広げるシーンは、ここリナ=モンレリーで撮影されたものだ。
近くには、彼が初代フォード・マスタングの姿もある。同じく『男と女』で、ジャン=ルイがモンテカルロ・ラリーに出場後、そのままアヌーク・エーメ扮する恋人アンヌに会うためドーヴィルまで走る「フォード マスタング」もいる。いずれも同型車というだけのため、何の説明も添えられていなかった。だが、ビジターたちの脳裏にはフランシス・レイによる、あのテーマ曲のスキャット「ダバダバダ」が流れていたに違いない。
Report & Photo/大矢アキオ ロレンツォ(Akio Lorenzo OYA)