目次
第1回 試作1号車の数奇な運命「富士スピードウェイでの悲劇」
日本の自動車史を語るのに忘れられない1台が、今から55年前の1967年に市販されたTOYOTA 2000GT(MF10型)だ。その流麗なフォルムだけでなく、モータースポーツでの活躍や誕生にまつわる伝説もまた、人々を魅了する一因となっている。今回は、開発中のプロトタイプ、それも試作1号車が辿った数奇な運命についてひも解いてみる。
第2回 試作1号車の数奇な運命「第二幕 奇跡の復活」
試作1号車をベースとしたTOYOTA 2000GTのレース仕様車は、第3回日本グランプリの事前テストで全焼してしまった。通常なら、これでスクラップとなり廃棄されるのだが、類まれな強運の持ち主は赤サビの状態から奇跡の復活を遂げることになる。
第3回 試作1号車の数奇な運命「第三幕 スピードトライアル事前テスト」
10月1日のスピードトライアル本番を前に4回の事前テストが行われたが、予期せぬトラブルが次々と発生。エンジンだけでなく、タイヤや足回りにも不安が残った。そんな中、直前に潤滑系の大改造を行なった3M型エンジンが完成。ベンチ上で78時間の耐久試験もクリアしたが、実走テストを行なえないまま本番を迎えた。
第4回 試作1号車の数奇な運命「スピードトライアル本番(前編)」
トヨタの社運をかけたTOYOTA 2000GTのスピードトライアルが始まった。本番直前に潤滑系を大改造したエンジンなどマシンの耐久性の他に、台風の接近による天候の急変も大きな不安要素だった。しかし、FIAの国際公認記録挑戦のため海外からの役員も参加していたため、このトライアルの日程変更はできないという事情があった。
第5回 試作1号車の数奇な運命「スピードトライアル本番(後編)
スピードトライアル2日目の夜。エンジン不調という、最大のピンチがTOYOTA 2000GTトライアルカーを襲った。エンジンが止まってしまえば世界記録更新の夢はついえてしまう。トヨタとヤマハはその危機をどう乗り越えたのか? そして、大役を果たした試作1号車のその後は…。
第6回 試作1号車の数奇な運命 東京モーターショーに「ボンドカー」が登場!
1966年の東京モーターショーでは、トヨタのブースに注目が集まった。直前に発表された新型車「カローラ」と、3台のTOYOTA 2000GTが展示されたからだ。世界記録を塗り替えた黄色いトライアルカー、エンジ色の市販型プロト、そしてオープンの「ボンドカー」が揃い踏みした!
第7回 昭和末期の相場は400万円!スピードトライアルカーのレプリカ製作 前編
国内最大の自動車博物館である「トヨタ博物館」には、各種のTOYOTA 2000GTが展示されている。その中でも黄色いボディのトライアルカーは異彩を放つ。じつはこのクルマは、博物館の開館に合わせて製作されたレプリカだ。しかし、そのベースとなったクルマもタダのTOYOTA 2000GTではなかった。
第8回 スピードトライアルカーのレプリカ製作 後編
トヨタ博物館開館に向けて製作されることになったTOYOTA 2000GTスピードトライアルカーのレプリカ。トライアルカーの偉業を後世に伝えるためには、失われた実車をより忠実に再現しなければならない。しかし、そこには試作1号車と生産車のボディ形状が異なる部分があるという難関が待ち受けていた。
第9回 トヨタ社内デザイナー野崎喩が描いた美しいフォルム
かつて日本の自動車メーカーのデザイナーは、その名を明かされることが少なかった。その中でもTOYOTA 2000GTをデザインしたことでマニアに知られる野崎喩(のざき・さとる)は稀有な存在だ。新車時から「TOYOTA 2000GTはトヨタ社内の野崎デザイナーがデザインした」と明かされていた。
第10回 エンジンルームは平屋建て デザインとメカニズムのバランス
スポーツカーの開発において、デザインとメカニズムはしばしば対立する。メカニズムが成立しなければ、どんな素晴らしいデザインも採用されない。TOYOTA 2000GTは、デザイナーとエンジニアがタッグを組んで計画図を書き込むことにより、デザインとメカニズムが高度にバランスし、前人未到のレベルへと到達した。
第11回 「X型バックボーンフレーム構造」採用は必然だった
1965年にモノコック構造の小型スポーツカー、TOYOTA スポーツ800がすでに発表されていたが、TOYOTA 2000GTはあえてX型バックボーンフレーム構造を採用した。流麗なデザインと走行性能を両立し、空力特性を高めるこのフレーム構造の採用は、TOYOTA 2000GTにとって必然だった。
第12回 トヨタ2000GT開発の強力なパートナー、ヤマハ発動機との出会い
TOYOTA 2000GTは、トヨタとヤマハ発動機の共同開発によって生まれた。その背景には、新たな事業展開を模索する会社とそれを利用する会社という、60年代の国産自動車メーカー各社を巡る提携とその解消など複雑な事情があった。
第13回 日産から派遣されていた板金の匠が技術を伝承! 職人が作った試作ボディ
自動車のボディ製造の経験や設備がないヤマハ発動機が、いかにしてTOYOTA 2000GTのボディを作ったのか。じつは日産から派遣されていた板金の匠が、その技を伝えることでヤマハ発動機のスタッフが板金技術を習得し、手作りでホディが作られたのだ。
第14回 シートに座ったまま路面でタバコの火が消せる! 苦心のドライビングポジション
「運転席に座ったまま路面でタバコの火が消せる」とまでいわれた、TOYOTA 2000GTの極端に低いドライビングポジション。木製モックアップによりミリ単位で足元スペースを稼ぎ出し、スポーツカーとレーシングカーの理想のポジションを追求した。
第15回 デザイナーの意に反しフロントピラーの位置を変更
50年以上経過した今も、流麗なデザインが輝きを放つTOYOTA 2000GT。しかし、そのデザインもデザイナーの意に反した手直しを迫られ、フロントピラーの位置を動かすという変更があったのだ。
第16回 「ヤマハ発動機」が設計・開発したDOHCシリンダーヘッド
浜松の楽器メーカーだったヤマハが、なぜオートバイの生産に乗り出すことが出来たのか? さらに4輪車への進出を視野に、DOHCエンジンの開発や幻のスポーツカーの試作まで行っていた当時を振り返る。
第17回 3M型エンジン性能目標を決定!
クラウン用直列6気筒SOHCエンジンをベースにヤマハ発動機の手によってDOHC化された3M型エンジン。高性能を実現するため、高い目標性能を設定し、数々の新技術を導入した。それは当時のトヨタでも実現したことのないものだった。
第18回 3M型エンジンの開発「レース用エンジンの製作(前編)」
四輪用エンジンやスポーツカーの試作をしたことはあっても、直列6気筒DOHCエンジンの設計・開発は初めてだったヤマハ発動機。しかも、最初からレース用エンジンの開発が要求された。
第19回 3M型エンジンの開発「レース用エンジンの製作(後編)」
3M型エンジンの開発手法は、まずレース用エンジンを作りサーキットで走らせながら極限での開発を進め、それを基にディチューンした市販車用を開発するという独自の方法だった。
第20回 5速トランスミッションの設計・開発
トヨタ初の直列6気筒DOHCエンジンに相応しい5速トランクスミッションは、じつはピックアップトラック「スタウト」の4速トランクスミッションをベースにしていたという。その巧妙な設計をひも解く。
Vol.21以降に続く