ジウジアーロとヒョンデの物語 蘇ったポニー・クーペコンセプト【Giorgetto Giugiaro ×HYUNDAI Pony Coupe Concept 】

蘇ったヒョンデ・ポニー・クーペコンセプト。ジウジアーロのデザインだ。
ヒョンデ(Hyundai=現代自動車)のポニーというクルマをご存知だろうか? いまや世界有数の自動車メーカー(ヒョンデ、キア、ジェネシスのブランドを持つ)に成長したヒョンデにとって、非常に重要なクルマ、それがポニーだ。巨匠ジョルジェット・ジウジアーロの若き日の作品、ヒョンデ・ポニー・クーペコンセプトは量産まで至らなかった「幻のコンセプトカー」だ。長らく行方不明だった
ポニー・クーペコンセプトをジウジアーロが復元した。ヒョンデとジウジアーロ。どんな物語があったのか。

初めての独自モデルのデザインをなぜジウジアーロに依頼したか

イタリア、コモ湖畔のヴィラで開催されたHyundai Reunion。復元されたポニー・クーペコンセプトの周りにはヒョンデ自動車の鄭義宣会長(創業者の孫)やドンカーヴォルケ氏(チーフ・クリエイティブ・オフィサー)、当時のエンジニア、ジウジアーロ親子らが並ぶ。まさに「Reunion」だ。ポニーがヒョンデの、韓国の自動車産業に果たした功績がわかる。

成功した自動車メーカーには、創成期を彩る重要なモデルが存在する。現在世界第3位の自動車メーカー、ヒョンデ・モーター(現代自動車)にとってのそれは、ポニーである。1967年に設立されたヒョンデ・モーターは、当初フォード・コルティナのノックダウン生産をしていたメーカーだが、初めて独自モデルの開発・生産に乗り出したのが1975年のポニーだ。韓国にとっての初の国産車でもある。

当時、韓国の自動車産業の基盤が貧弱だったため、デザインについては海外を頼るしか方法がなかった。となれば、カロッツェリアの国、イタリアである。ヒョンデは、13のカロッツェリアにデザイン参加を打診した。そのなかで興味を示したのがベルトーネ、ミケロッティ、ピニンファリーナ、ロンバルディ、ギア、そして当時ジョルジェット・ジウジアーロが在籍していたイタルデザインだった。最終候補としてヒョンデが選び出したのがミケロッティとイタルデザインだった。ミケロッティが提示したデザインフィーが70万ドルだったのに対してイタルデザインは120万ドルと高価だった。それでもヒョンデは、当時のライジングスター、ジウジアーロを選んだ。慧眼である。

これがジウジアーロのデザインで量産化されたポニー・4ドアセダン。市販化された3ドアHB、ワゴン、ピックアップは4ドアセダンを元にヒョンデのデザインチームが制作したという。

ジウジアーロがデザインした2台のポニー・コンセプトは1974年のトリノ・モータショーで世界にお披露目された。その後、市販されたポニー・4ドアセダンとその派生モデルはヒョンデの礎を築いたわけだ。

その成功の陰で市販化されず幻のまま消えてしまったのが今回の主役であるもう一台のポニー・コンセプト、「クーペコンセプト」である。

前進あるのみで勢いがある時期は、誰しも過去を顧みない。ヒョンデも、ポニー・クーペコンセプトが重要なモデルであることはわかっていただろう。だが、長い間に所在不明になってしまった。世界有数の自動車メーカーに成長したいま、電動化を見据えて過去と未来の方向性を考えるヘリテージ・ブランド・プラットフォーム「Hyundai Reunion」で、ヒョンデはポニー・クーペコンセプトの復元を考えた。委託した先は、やはりマエストロ・ジウジアーロである(現在はGFGスタイル社)。

ポニー・クーペコンセプトの実物は失われ、図面も残っていなかった(生産仕様の図面は残っていたという。もちろん、それも参考にした)ので、写真とマエストロの記憶を頼りに復元作業は進められた。それが披露されたのが、イタリア・コモ湖畔で開催されるクラシックカー・イベントのヴィラ・デ・ステの前日、5月19日のことだった。

1974年当時のポニー・クーペコンセプトの写真197
1974年当時のポニー・クーペコンセプト
今回お披露目された(つまり復元された)ポニー・クーペコンセプト。オリジナルは行方不明だったから当時のポニー・ピックアップをGFGスタイルに送って復元した。違いはホイールサイズ。オリジナルは13インチ(復元モデルは15インチ)。

ベールを脱いだポニー・クーペコンセプトは、じつに魅力的で、現代の眼から見ても斬新でカッコよかった。

のちのデロリアンにも大きな影響を与えたデザインは、流れるような幾何学的なライン、ダイナミックなプロポーション、折り紙のような処理などジウジアーロらしさが特徴だ。
ボディ後部にはトランクにアクセスするためのスリムなハッチが設けられている。
室内は2+2だが後席も充分実用に耐えうる広さを持つ。
復元された「ヒョンデ・ポニークーペコンセプト」主要諸元
・全長×全幅×全高:4080mm×1560mm×1210mm
・ホイールベース:2340mm
・エンジン:1238cc・直列4気筒(82ps/6000rpm)
・駆動方式:FR(エンジン縦置き)

巨匠・ジウジアーロはなにを語ったか?

マエストロ・ジョルジェット・ジウジアーロは御年84歳(1938年生)。Hyundai Reunionの会場に現れたマエストロは、情熱的にデザインについて語った。1973年のアッソ・ディ・ピッケ、76年のアッソ・ディ・クァドリの間にデザインしたのが、アッソ・ディ・フォーリとなるはずだったこのポニー・クーペコンセプト。マエストロは現在も、息子のファブリッツィオ・ジウジアーロ氏とともに設立したGFGスタイルで活躍中だ。

ジウジアーロは、50年前のヒョンデとの関わりをこう述べた。「当時、私はヒョンデについてなにも知らなかったので、最初は半信半疑でした。しかし、ヒョンデのエンジニアたちの情熱と献身的な姿勢に、私たち全員が感銘を受けました。私は、私たちが初めて会ったときから、この会社がどのように進化してきたかを目の当たりにし、誇りに思います」

ジウジアーロの手によるスケッチ

当時、日本メーカーと多くの仕事をしていたジウジアーロは、「当時の韓国は、自動車産業という面では、部品やサプライヤーといったシステムが確立されていなかったから、当時でもひと昔前に戻るようなやり方でプロジェクトを進める必要があった」と語る。

50年前のクルマとは思えません、クルマに永遠の命を吹き込む秘訣はなんでしょうか?と訪ねると、マエストロはこう答えた。

「シンプルであること。いまのクルマのデザインにはいろいろなオプションがある。そしてそれで人をどうやって驚かせるか、新しいモノを作るか、そういったエレメントが多すぎるのです。実際に非常にシンプルでエッセンシャルなものがあって、そしてベースが美しいものであれば、たとえば2ドアで、2by2で、そしてシンプルなものにすれば、それがずっと美しさを保つのです」と。

その美しいクーペは、市販化するべく生産準備が進みすべてが揃ったときと石油ショックによる不況と韓国の混乱が重なってしまった。プロジェクトは中止となり、ポニー・クーペは幻に終わった。それゆえに伝説になったと言えないこともない。現在のヒョンデのデザイン哲学「Shaping the future with legacy」のレガシーのひとつがこのポニー・クーペコンセプトであるのは、間違いない。

ポニー・クーペコンセプト→N Vision 74

イタリア、コモ湖畔のヴィラで開催されたHyundai ReunionにもN Vision 74が飾られていた。

ヒョンデのチーフクリエイティブオフィサーのルク・ドンカーヴォルケは「ポニー・クーペコンセプトの復元は、ヒョンデの歴史のなかでマイルストーンとなるものです。それは、私たちの始まりと未来へのコミットメントを表しています。このクルマは、今後何世代にも渡って受け継がれる遺産となります。過去から会社の未来へと渡すリレーバトンのようなものです」

実際、ポニー・クーペコンセプトからインスピレーションを得たモデルがある。

上が1974年ジョルジェット・ジウジアーロのポニー・クーペコンセプト、下が2022年N Vision 74
ヴィラデステに展示されたN Vision 74

それがヒョンデ N Vision 74だ。

Nビジョン74のボディサイズは、全長4952mm×全幅1995mm×全高1331mm、ホイールベースは2905mm。

蘇ったポニー・クーペコンセプトのお披露目のパーティの場にも、N Vision 74は展示されていた。ジウジアーロが手がけた斬新で美しいクーペデザインを現代的に解釈し、電動化された現代のクーペとして誕生したのがN Vision 74だ。74はいうまでもなくポニー・クーペコンセプトがデビューした1974年を意味している。

電動化、知能化する自動車。大変革期を迎えているのは間違いない。高いブランド性のためには、ナラティブなアイコンが必要だ。それは新興のBEVメーカーでは持ち得ないもの。ヒョンデにとって、ポニー・クーペコンセプトから繋がる物語は、なによりも財産なのだ。

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著者プロフィール

鈴木慎一 近影

鈴木慎一

Motor-Fan.jp 統括編集長神奈川県横須賀市出身 早稲田大学法学部卒業後、出版社に入社。…