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DP212/DP214/DP215(1962-1963)
マグネシウム・アルミ合金を採用した超軽量マシン
1959年のル・マン24時間総合優勝を手土産に、ワークスチームとしての活動を実質的に休止していたアストンマーティンだったが、フランスのディーラーからの熱心なリクエストを受け、デイヴィッド・ブラウンとチーム代表のジョン・ワイアは新たなGTマシンを製作し、1962年シーズンからのル・マン復帰を決断する。
ベースとなったのはDB4GTで、ホイールベースを1インチ(25.4mm)延長。フロントはダブルウイッシュボーンのままだが、リヤにはド・ディオンアクスル、トレーリングリンク、ワッツリンクで構成されたハロルド・ビーチ渾身のサスペンションをラゴンダ・ラピードから流用していた。
一方エンジンはこの年からル・マンで始まったプロトタイプの4.0リッター・エクスペリメンタル・クラスにあわせて排気量を3996ccに拡大し、3基のウェーバー50DCOキャブレターを装着することで、最大出力335PSを発生。ボディもテッド・カッティングによる流麗なファストバック・スタイルに作り変えられ、外皮にマグネシウム・アルミ合金を使用することでDB4GTザガートより軽い975kgに仕上げられるなど、まったくの別物に変貌していた。
わずか5ヵ月の開発期間
DBではなく、デベロップメント・プロジェクトを意味するDP212と名付けられたマシンは、わずか5ヵ月の開発期間を経て完成し、4月のル・マン・テストデイに登場。いきなり総合4位、フェラーリ330TRIに次ぐクラス2位のタイムを記録し、周囲を驚かせた。
迎えた6月の決勝で、グラハム・ヒル、リッチー・ギンサーに託されたDP212はオープニングラップでトップに浮上。その後もしばらく2位を走り続けていたが、6時間目にオイルパイプの破損によりリタイアとなった。
この結果を受け、アストンマーティンは1963年シーズンに向け、GTカテゴリー用のDP214とDP212の後継となるプロトタイプ・カテゴリー用のDP215の開発をスタートした。DP214にはDB4GTのシャシーナンバーが与えられ、DB4GTのエヴォリューションモデルという扱い(フェラーリ 250 GTOやシェルビー デイトナ クーペと同じ手法だ)となっていたが、シャシーはボックスフレームとアルミのフロアパンを組み合わせた新設計のものへ変更。さらに排気量を3750ccへ拡大し314PSへとチューンされた直6ユニットの搭載位置を後方へとずらすなど、徹底的に手が加えられていた。
前後サスペンションを専用設計のダブルウイッシュボーンに
一方のDP215は角断面のラダーフレームとアルミのフロアパンを組み合わせたシャシーに、専用設計の前後ダブルウイッシュボーンサスペンションを装着。エンジンはDP212に搭載されていた3996ccユニットを改良したもので、レーシングスポーツカーDBR1用の5速ギヤボックスと共にDP214よりもさらに後方にマウント。ボディはDP214、DP215共にテッド・カッティングによる、よりワイドで低いデザインのものが架装された。
2台のDP214と、1台のDP215は1963年のル・マン24時間でデビュー。フィル・ヒルとルシアン・ビアンキがドライブするDP215は4番グリッドからのスタートをみせてトップに立つも3時間目にリタイア。優勝候補に挙げられていた2台のDP214も一時は3位に上がる好走を見せていたものの、6時間目と11時間目にそれぞれピストンを破損してリタイアとなっている。ル・マンの2週間後、DP215はランスGPに出場するも、エンジントラブルによりリタイア。8月にはイギリス・ブランズハッチで開かれたガーズ・トロフィーにエントリーしたが、決勝には出走せず、短いレースキャリアを終えた。
一方DP214はガーズ・トロフィー以降もレース活動を続け、9月にイタリア・モンツァで行われたコッパ・インター・ヨーロッパ、フランス・モンレリーで行われたクープ・ド・パリ、10月に同サーキットで行われたクープ・ド・サロンで優勝。翌年ジョン・ワイアがフォードGTのプロジェクトに移籍したことで、アストン・ワークスが解散してしまう。それ以降もプライベーターの手で参戦を続けたが、ニュルブルクリンク1000kmでブライアン・へトリートが事故死。なお残った1台のDP214は1970年代までローカルレースで活躍している。