デビュー70周年を迎えた「アルファロメオ ジュリエッタ ベルリーナ」

デビューから70周年のアルファロメオ初の量産スポーツサルーン「ジュリエッタ ベルリーナ」誕生秘話

アルファロメオを特別なオーダーメイドブランドから、一般大衆でも手に届く存在にした、「ジュリエッタ ベルリーナ」がデビューから70年を迎えた。
アルファロメオを特別なオーダーメイドブランドから、一般大衆でも手に届く存在にした、「ジュリエッタ ベルリーナ」がデビューから70年を迎えた。
1955年4月20日、トリノ・モーターショーにおいて、アルファロメオは美しいスポーツサルーン「ジュリエッタ ベルリーナ」を発表。そのデビューから70周年を迎えることになった。ジュリエッタ ベルリーナはアルファロメオが小規模生産メーカーから量産メーカーへの移行を推し進め、戦後イタリアに新たなライフスタイルをもたらすことになった1台である。

Alfa Romeo Giulietta Berlina

戦後イタリア、中産階級憧れの存在に

第二次世界大戦後、経済復興を遂げつつあったイタリアにおいて、ジュリエッタ ベルリーナは手に届く、憧れの存在となった。
シンプルながらも、アルファロメオらしさを備えたジュリア ベルリーナのコクピット。第二次世界大戦後、経済復興を遂げつつあったイタリアにおいて、ジュリエッタ ベルリーナは手に届く、憧れの存在となった。

1955年4月20日、トリノ・モーターショーにおいて、アルファロメオは「ジュリエッタ ベルリーナ」をワールドプレミアした。先進的な技術が惜しみなく投入され、スポーティでエレガントなスタイリングを持ちながら、手に届く価格を持つサルーンは、当時のイタリアにおいて好景気の象徴となった。

そのデビューからちょうど70年を迎えたジュリエッタ ベルリーナは、アルファロメオがカスタムメーカーから量産メーカーへの移行期の最重要モデルだと言えるだろう。ステランティス・グループのヒストリックカー部門「ステランティス・ヘリテージ」の責任者を務めるロベルト・ジョリートはジュリエッタ ベルリーナについて次のように説明を加えた。

「ジュリエッタ ベルリーナは、アルファロメオのスポーティなDNAをイタリア人の日常生活にもたらし、新興ミドルクラスの手の届く価格帯に上質なスポーツサルーンというセグメントを創設しました。このモデルは、アルファロメオの歴史とファミリーカーの機能性を融合させ、戦後イタリアにおける進歩と再生のシンボルとして、地位を確立したのです」

先行デビューしたクーペ「スプリント」

1954年のトリノ・モーターショーにおいてデビューを飾ったクーペ「ジュリエッタ スプリント(写真奥中央)」は、瞬く間に大ヒットを飛ばすことになる。
1954年のトリノ・モーターショーにおいてデビューを飾ったクーペ「ジュリエッタ スプリント(写真奥中央)」は、瞬く間に大ヒットを飛ばすことになる。

1950年にジュゼッペ・ファリーナが、1951年にファン・マヌエル・ファンジオが、2年連続でアルファロメオにF1タイトルをもたらした。1950年代初頭、アルファロメオは、スタイルやテクノロジー、高性能を維持しつつ、生産台数を拡大し、より多くの人々にその魅力を伝える必要性を感じていた。

だが、1954年のトリノ・モーターショーにおいて最初にデビューを飾ったのは、意外にもサルーンではなくクーペの「ジュリエッタ スプリント」だった。スプリントはベルトーネに在籍していたフランコ・スカリオーネがデザイン。1.3リッター直列4気筒エンジンを搭載した高性能コンパクトクーペは、トリノ・モーターショーでのデビュー直後から、アルファロメオのディーラーに顧客が詰めかけ、瞬く間に商業的ヒットを記録する。

アルファロメオはスプリントが持つスポーティな魅力を活用し、翌年生産される予定のコンパクトでモダン、手頃な価格でありながら、アルファロメオらしい高性能と洗練された魅力を持ったサルーン「ジュリエッタ ベルリーナ」のデビューに向けた話題作りを行うことになる。

欧州で新たなスタンダードとなったジュリエッタ

パワフルな1300cc直列4気筒DOHCエンジンを搭載するジュリエッタ ベルリーナは、スポーツサールンという新たなカテゴリーを欧州に作り上げることになった。
パワフルな1300cc直列4気筒DOHCエンジンを搭載するジュリエッタ ベルリーナは、スポーツサールンという新たなカテゴリーを欧州に作り上げることになった。

1955年4月20日、満を持してジュリエッタ ベルリーナがデビューを果たした。スプリントと同じパワートレインをファミリーカーへとパッケージ。1950年に投入された「1900」に続き、手頃なサイズのスポーティなサルーンというコンセプトを確立する。

アルファロメオはジュリエッタ ベルリーナを「レースに勝てるファミリーカー(The family car which wins races)」と呼んだ。新しい時代が幕を上げ、アルファロメオは 「誰もが手の届くスポーティなドライビングカー 」というコンセプトの先駆者となったのである。

排気量1290cc直列4気筒水冷DOHCエンジンは、モータースポーツ由来のアルミニウム製。最高出力53PSを発揮し、870kgという当時驚異的な軽量構造もあり、最高速度は140km/hに達した。コラムシフトを採用し、ステアリングホイールの左側にはプルオン式ハンドブレーキが配置されたことも、特徴のひとつだった。

ジュリエッタ・シリーズは1300ccという新たなカテゴリーを生み出し、それがヨーロッパのスタンダードになる。当時、ジュリエッタのメカニズムや性能に匹敵する量産サルーンは世界に存在しなかった。ジュリエッタはゲームチェンジャーとなり、長い年月を経た今も続く、アルファロメオのアイデンティティを確立した。

アルファロメオの大量生産化を後押し

ジュリエッタ ベルリーナの生産開始を前に、アルファロメオはボルテッロ工場を再構築。生産能力は実に4倍にまで成長を果たしている。
ジュリエッタ ベルリーナの生産開始を前に、アルファロメオはボルテッロ工場を再構築。生産能力は実に4倍にまで成長を果たしている。

ジュリエッタ ベルリーナの生産は、アルファロメオに大きな転機をもたらすことになった。大量生産は1900の時代からスタートしていたが、ジュリエッタ ベルリーナはミラノのポルテッロ工場を近代的な工場へと変貌させる。

1950年代初頭、ポルテッロ工場はまだカスタム生産に特化した体制を取っており、1日50台以上の生産キャパシティがなかった。ジュリエッタ ベルリーナの生産開始を前に、オーストリア出身のエンジニア、ルドルフ・シュルスカが工場の近代化に取り組み、全工程を再設計。新しい組み立てラインが導入され、生産方式を再編成、工程は大幅に合理化された。

わずか数年で、ポルテッロ工場は1日に最大200台を生産できるようになり、生産能力は約4倍にも成長した。このアルファロメオの量的な進化は、イタリアの文化的な成長と密接に関係していた。戦後復興が進み、イタリアは豊かになりつつあり、アルファロメオはもはや単なるエリートブランドではなく、ヨーロッパの自動車産業をリードする存在となったのである。

ジュリエッタ ベルリーナが備えた、ライバルを圧倒するパフォーマンス、レーシングカーを彷彿させるドライビングダイナミクス、アルファロメオをらしい唯一無二のデザインは、現代のアルファロメオの礎となったと謳う。セグメントを超えた価値を備えたコンパクトサルーンは、1962年にデビューする「ジュリア」へと引き継がれることになる。

トーテム・アウトモビリは、40台のみが限定製造される「アルファロメオ ジュリア」ベースのレストモッド「GT スーパー」の最新仕様「ハラマ」を公開した。

アルファロメオ ジュリア ベースのレストモッド「GT スーパー ハラマ」が登場「1972年ハラマ4時間レースをオマージュ」

アルファロメオのレストモッドを製造するトーテム・アウトモビリ(Totem Automobili)は、ジュリアをベースに40台が限定製造される「GT スーパー」の最新仕様「ハラマ(JARAMA)」を公開した。

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ゲンロクWeb編集部

スーパーカー&ラグジュアリーマガジン『GENROQ』のウェブ版ということで、本誌の流れを汲みつつも、若干…